ワニなつノート

一週間遅れの報告(^^)v (その2)


一週間遅れの報告(^^)v (その2)



会の第2部は、高校生や卒業生一人ひとりに話を聞きました。

あたりまえのことですが、その誰もが、小学生や中学生のころとはまったく気配が違います。
小学生のころからマイクを持って話せる子もいます。
でも、十年つき合っても、ほとんど声を聞いたことのない子、まして大勢の人の前で話す声を聞いたことのない子もいます。

ところが、あの日は誰もが力強い声と意思で話していました。
その「違い」や「変化」は、その場面だけ見れば分からないことかもしれません。

あの日、あの場にいた若者たちのすべてに共通していたものがあります。
それは、自分の人生の真ん中を堂々と生きている自信というべきものです。

小・中・高校生のころには、それぞれに「守られてる」感や、頼りなさが見えました。
それは「障害」があったからではなく、「子ども」だったからだということも、今回確かに分かりました。

「障害」として外から見える部分は、たぶんほとんど変わってはいません。
ヒデは相変わらず言葉では話さないし、ゆう君の「障害」は確実に重くなっています。
でも、彼らが子どもだったころに、私が感じていた「守られてる感」や「頼りなさ」が、いまは少しも感じないのです。

いつも消える寸前のろうそくのような声しか記憶にない子の、その声がいまは一人の大人の声でした。
声だけでなく、顔の表情も、立ち姿も、そこにいるたたずまいそのものに、「確かにここにいる自信」を感じるのです。

子ども時代に、うっとうしく降りかかってきた火の粉を、払いのけ、払いのけ、分けない社会であればしなくていい無数の苦労を(それは障害故の苦労ではありません)、生き延びて大人になった自信。

そこにいた全員が、小学校に入るときには、養護学校や特殊学級に行けと言われた子どもたちです。
それは、「その子のため」に言われたのではありませんでした。
学校や教育委員会の言い分は、「普通学級では無理」だからでした。

6歳の子どもに、「ふつう学級では無理」と迫ること。
それは、この子は、「ふつうの社会では無理」と迫っていたことに、あの人たちは気づいていませんでした。

その地点から十年、二十年、三十年が過ぎて、確かに分かることがあります。
学校や行政や専門家が「無理」「かわいそう」という「生き方」を、当たり前に貫くことで、彼らの言っていた言葉や専門的な判断は間違いであり、いい加減な偏見でしかなかったことが分かります。

「障害の程度」を測ることができると思っている専門家には、彼らのいまの姿と、十年前、二十年前の彼らの姿との違いが分からないだろうと思います。

私たちが十年、三十年共に過ごしてきた中で、完璧に感じることのできる彼らの成長と誇りと仲間のなかにいる安心と自信が、「障害」だけを見る人には、絶対に感じることはできないだろうと思います。

「養護学校に行けばひらがなが読めるようになります」、「普通学級にいても何も分からずにかわいそうです」と本気で言っていた人たちに、いまの彼らの自信に満ちた姿を見せてあげたいけれど、彼らには「いまもひらがなが読めないままですね」ということしか見えないのだろうという気がします。

そう、子どもが小さいころも分かり合えなかったけれど、たぶん一生分かり合えることはないのだと思います。

集会の日、わたしたちの間に、かつての子どもたちを、「障害児」とみる空気はありませんでした。そこにいる誰もが、「会」を通して出会った仲間のひとりひとりでした。
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