一人ディズニー見聞録

ディズニーを切り口に世の中の出来事を紹介しています。ディズニーソングのコンサートレポートも書いています。

東京ディズニーランドと同級生の西武・中村剛也選手について

2023-08-15 10:46:38 | 野球




1983年8月15日。

東京ディズニーランドが開園してちょうど4ヶ月が経ったこの日、後に埼玉西武ライオンズの4番打者として大活躍する中村剛也選が大阪府で生まれた。

東京ディズニーランドと同級生の中村選手は、大阪府の野球強豪校・大阪桐蔭高校で高校通算83本のホームラン放つなど4番打者として活躍した。そして、2001年11月に行われたドラフト会議で、西武ライオンズ(当時のチーム名)に2位で入団した。

プロ入り後、ホームラン王を6回獲得するなど球界屈指のホームランバッターとなった中村選手。また、身長175cmに体重102㎏のまんまるボディに素朴な顔立ちから「さんぺい」や「おかわり君(中村選手の好きな言葉は「おかわり」)」というあだ名で呼ばれるなど、名実ともに人気の選手となっている。

実は中村選手は、東京ディズニーランドと同級生ということに加えて、パークのアニバーサリーイヤーの年には活躍する傾向があるのだ。今回は、中村選手のランドのアニバーサリーイヤーにおける活躍を紹介していきたい。

・ランド開園20周年(2003年)
プロ2年目の中村選手はこの年、二軍で22本のホームランを放ちホームラン王を獲得した。また、一軍の試合に初出場し、初打席で初安打、さらには初打点を記録するなど、華々しいプロデビューを飾った。

・ランド開園25周年(2008年)
プロ7年目のこの年は、前年7本しか打てなかったホームランが、なんと46本も放つことができ自身初のホームラン王を獲得した。さらに、自身初の100打点やサヨナラホームランを放つなど、バッティングで大活躍を見せ、チームの6年ぶりのリーグ優勝、そして日本一にも貢献した。


〈2008年の中村選手〉


・ランド開園30周年(2013年)
12年目を迎えたこの年は、前年に受けた左膝の手術の影響、さらには左肩のケガで、わずか26試合の出場、ホームラン4本などプロ入りワーストの記録となった。それでもシーズンオフの契約更改では、4年総額20億円の超大型契約を結んだ。

・ランド開園35周年(2018年)
17年目を迎えたこの年は、球団初の通算1000打点を達成。さらには通算1500試合出場を達成するなど、終わってみればホームラン28本、74打点を挙げ、10年ぶりのリーグ優勝に貢献した。

・ランド開園40周年(2023)
22年目の今年は、4月に打率.369、ホームラン7本、14打点を記録し、3・4月の月間MVPに選ばれた(5年ぶり)。さらには9回目オールスター戦に出場するなど、40歳目前でもまだまだ頑張っている。

ランドのアニバーサリーイヤーにおける中村選手の活躍を紹介してきたが、開園30周年の2013年を除くと、ほとんど活躍していることが分かった。特に25周年の時は初のホームラン王に加えてチームのリーグ優勝と日本一に貢献するなど、中村選手とチームにとっては最高の年になっていた。

ランド開園40周年の今年は、チームは5位に低迷し、中村選手もケガや体調不良で何度かチームを離脱するなど苦しいシーズンになっている。

しかし、アニバーサリーイヤーに活躍するのが中村選手の特徴。残り試合が少なくなってきているが、これからも多くのホームランを放ち活躍することを期待したい。





西武ライオンズの東京ディズニーランド世代コンビとは?

2023-08-14 15:21:00 | 野球




プロ野球、埼玉西武ライオンズは、8月11日(金・祝)から千葉ロッテマリーンズの本拠地・ZOZOマリンスタジアムで行われた3連戦で1勝2敗と負け越した。

11日は8-2の大勝だったが、12日(土)は1点リードの9回裏に抑え投手の増田達至が打たれてサヨナラ負け。続く13日(日)は終盤に追い上げるも負けてしまった。

ライオンズを愛する獅子党(ライオンズファンのあだ名)からすると悔しい結果にはなるが、この3連戦では栗山巧と中村剛也のベテランコンビが大活躍したのだ。

栗山選手は11日に今シーズン第5号の2ランホームランを放つなど、2安打2打点の活躍でチームの勝利に貢献。さらには今シーズン初のヒーローインタビューに呼ばれるなどの活躍ぶりだった。

さらに、13日の試合では代打で登場し9回表に1点差に迫るホームランを放つなど、今年40歳には思えないほどの華麗なバッティングでチームのために活躍している。


〈9回表に代打ホームランを放つ栗山選手〉


一方中村選手は、12日の試合に一時は逆転となる第12号の2ランホームランを放ち、通算ホームラン数を史上12位タイの465本とした。


〈465本目のホームランを放つ中村選手〉


栗山選手と中村選手。実は同い年で、同期入団を果たした同級生コンビなのだ。共に西武一筋22年という、他チームへの移籍が活発化している現代のプロ野球界では珍しい選手たちなのだ。

栗山選手は9月に、中村選手は8月に40歳を迎えるベテランだ。そして彼らの生まれ年は1983年という、今年開園40周年を迎えた東京ディズニーランドと同い年なのだ。ここまで二人の最近の活躍を述べてきたのは、この事が言いたかったためだ。

今年40周年を迎えた東京ディズニーランドは、現在4年ぶりの夏のプログラムが行われて暑いなかでも大盛況だ。

一方、ライオンズの東京ディズニーランド世代の栗山、中村の両選手はパークの盛り上がりに負けないように活躍している。

まだまだ元気な東京ディズニーランド世代の二人の活躍と、40周年を迎えたランドの活躍にこれからも注目していきたい。

ディズニー・ボールパーク④ ホッパー並みの暴れん坊助っ人・ガルベス

2022-09-04 07:40:00 | 野球
「問題は食料じゃない。誰が一番偉いかってことを分からすことだ!」。

これは、1998年に公開されたディズニー・ピクサー映画の『バグズ・ライフ』で、悪役のバッタたちのボスであるホッパーが発した台詞だ。ホッパー率いるバッタ軍団は、毎年のようにアリの国の食料を奪って食べていた。しかし、この年はアリの国のトラブルメーカー・フリックが、バッタたちの食料を間違えて全て池の中に捨ててしまった。

それを知ったホッパーは憤り、アリたちに雨季が明けたらもう一度戻ってくると脅す。そして、雨季が明けた後に再びアリの国に行くと、食料を奪うだけではなく、自分たちがアリよりも偉いということを見せつけるために、女王アリを踏み潰そうと考えていた。

またホッパーは、「アリは自分たちよりも弱いから大したことない」と油断する手下たちに、「アリのほうが数が多く、彼らが集団で戦ってきたら勝てない」ということを教えるために、アジトにあった大量の穀物の下敷きにさせた。ホッパーは、手下たちも暴力で支配する恐ろしいバッタだった。

冷酷さと暴力を兼ね備えたホッパー。実はこの映画が公開される約3ヶ月前に、日本でホッパーみたいな暴れん坊外国人投手が、阪神甲子園球場で大事件を起こした。その男の名は、バルビーノ・ガルベス。

1998年7月31日、甲子園球場では巨人対阪神戦が行われていた。巨人先発投手・ガルベスは、序盤から失点を重ねて、度々審判の判定に苛立っていた。そして6回の裏、阪神の先頭打者・坪井智哉を2ストライクと追い込んで投げた4球目が「ボール」と判定された。ガルベスは不服そうな態度を示し、その直後に投げたボールがホームランにされた。

打たれた直後、ガルベスは審判にクレームを言ったが聞いてもらえずに投手交代を告げられた。苛立つガルベスを長嶋茂雄監督が腕を引っ張りながらベンチに連れ帰ろうとしていたが、ガルベスは審判に振り向いて、持っていたボールを審判に投げつけた。


〈審判にボールを投げつけるガルベス(右)と唖然とするダンカン(左)〉



当然審判は激高してガルベスのもとに駆け寄ると、ガルベスも審判のほうに走って殴りかかろうとした。興奮して暴れるガルベスを抑えるために巨人ベンチから大量の選手が出てきた。その中で、吉原孝介はガルベスから肘鉄を食らい、口から出血をするケガを負うなど、巨人のベンチ前は狂気の沙汰となっていた。

翌8月1日。セントラルリーグは、審判にボールを投げつけベンチ前で暴れたガルベスに対し、「1998年シーズン残りの出場停止」、加えて巨人も「無期限出場停止」の処分を下した。

暴れたら手がつけられない凶暴な助っ人・ガルベスだが、その実力は本物だった。メジャーリーグ経験はほとんどなく、台湾で活動していたガルベスは、1996年に巨人にテスト入団した。150キロを越える速球を武器にいきなり16勝を挙げて、最多勝とチームのリーグ優勝に貢献した。翌97年もチームトップの12勝を挙げ、続く98年は前述した事件を起こすまではリーグトップの9勝を挙げるなど、巨人のエースとして大活躍をした。事件後、ガルベスは解雇されず翌99年には巨人初の外国人開幕投手を務めるなど、ガルベスは圧倒的な実力があった。

しかし、2000年は今までの活躍とはうって代わり、開幕から6連敗を喫する。その後も調子が上がらず、日本シリーズ前に退団をした。

ホッパーとガルベス。両者は、暴力的な性格と圧倒的な実力を兼ね備えていたが、終わり方も同じで呆気ないものだった(ホッパーは鳥に食べられた)。その生きざまから察するに、ホッパーとガルベスは1998年に最も輝いた悪役だった。

ディズニー・ボールパーク③ タワー・オブ・テラー・ジャイアンツ

2022-08-19 07:28:00 | 野球
「史上最恐」。

これは、東京ディズニーシーの大人気アトラクション「タワー・オブ・テラー」(以降「タワテラ」)がオープン直前に、テレビ等で流れていたCMのキャッチコピーだ。

2006年9月4日(月)にオープンした「タワテラ」は、東京ディズニーリゾートでは初めてのフリーフォールタイプのアトラクションだった。そのため、落下時には強い浮遊感を体験でき、アトラクションのオープン当時から「ディズニー史上最恐」というキャッチコピーが付けられていた。

パーク内で最も恐ろしいアトラクションとされる「タワテラ」だが、ファンからは絶大な人気を誇るアトラクションでもあった。オープン初日は、スタンバイとファストパスの列は共に長蛇の列となっていた。さらにその後、落下回数を増やすなどの期間限定プログラムが行われており、「タワテラ」は現在に至るまで多くのファンから愛され、そして恐がられるアトラクションとなった。

その「タワテラ」がオープンした同じ年、「タワテラ」のようにチーム成績が急激に上がったり下がったりしたプロ野球チームがある。そのチームとは、読売ジャイアンツだ。

2006年、原辰徳がジャイアンツの監督に復帰。前年5位に終わったチームを立て直すべく、ロッテから4番打者のイ・スンヨプ、オリックスから先発投手のジェレミー・パウエル、西武ライオンズから抑え投手の豊田清を獲得。大幅な戦力補強をしたジャイアンツは、シーズンが開幕した4月を18勝6敗と12の勝ち越しを作るなど開幕ダッシュに成功した。

しかし6月の交流戦で、高橋由伸、小久保裕紀、阿部慎之助などのレギュラー選手が相次いで怪我をして離脱。そのことが影響し、6月に8連敗。さらに、連敗を止めた直後に10連敗を喫するなどチームは大失速した。8月には最下位に沈むも、何とか持ちこたえて4位でシーズンを終えた。

2006年のジャイアンツは、まさに「タワテラ」のように急上昇した後、一気に急降下して元に戻ることはなかった。チームがこのようになったのはシリキ・ウトゥンドゥの呪い、じゃなくて、6月に起きた主力選手の故障による大量離脱が原因だった。原監督は自著で当時のチーム状態を振り返り、選手層が薄かったため、主力選手が故障するとその代わりとなる選手がいなかった、と告白した。

監督復帰1年目に「タワテラ」ジャイアンツを経験した原監督。しかし、その「史上最恐」の経験が、原監督を名将へと変える原動力となった。4位に終わったシーズンオフ。「技術のある選手より、体の強い選手が欲しい」と言って、怪我が多い小久保らの主力選手を放出し、前年日本ハムでリーグMVPやホームラン王等を獲った小笠原道大らを獲得。その結果、翌2007年はリーグ優勝を果たした。

さらに翌2008年は、ヤクルトの4番打者アレックス・ラミレスらを獲得し、2年連続優勝。そして、翌2009年は大型補強をせずに若手選手たちを起用して3年連続のリーグ優勝。さらに7年ぶりの日本一にも輝いた。また原監督は、その後も監督を続け、2012年~2014年でリーグ3連覇(2012年は日本一)、2019年と2020年はリーグ2連覇を果たすなど、ジャイアンツ並びに球界を代表する名将となったのだ。

2006年にオープンした「タワテラ」と同じ年のジャイアンツのチーム成績。同じ年に起きた「史上最恐」の出来事は、共に両者の人気を築き上げるきっかけだった。

ディズニー・ボールパーク② 信頼ゼロからヒーローとなったヘラクレス助っ人の「太郎」とは?

2022-06-23 07:37:00 | 野球
「昨日まではゼロ ゼロ 今日からは 彼がヒーロー すべてがうまくきそう ゼロがヒーローにはやがわり」。


これは、1997年に公開されたディズニー映画『ヘラクレス』内の劇中歌『ゼロ・トゥ・ヒーロー』の一部だ。同曲は死者の国の神・ハデス(本作の悪役)が、人間界に解き放った魔人たちを主人公のヘラクレスが退治し、一躍ヒーローになった際に使われた。今までは誰からも相手にされていなかった若者が、一日でヒーローになったことから『zero to hero(ゼロからヒーロー)』という歌が唄われた。


実は『ヘラクレス』が公開された同じ年に、日本のプロ野球界でもヘラクレスのように活躍した外国人選手がいた。その名は、ドゥエイン・ホージー。1997年にヤクルトスワローズに入団したホージーは、30代後半以降のプロ野球ファンにとって馴染みの深い外国人助っ人だろう。なぜなら、彼はプレイスタイルよりも人柄が個性的だったからだ。


<ドゥエイン・ホージー(1997-98)>

なんと、ホージーのヘルメットには当時若者の間で大流行していたプリクラのシールが大量に貼られていたからだ(全てのシールがファンからの贈り物だった)。さらに優勝時のビールかけでは、和服におもちゃの刀を持って登場し、練習中には「たけや~、さおだけ~」と叫ぶ等、底抜けて明るいムードメーカーのホージーは、チームメイトやファンからは大人気の選手だった(彼は大の相撲好きで曙太郎のファンであったことから、チームメイトからは「太郎」と呼ばれていた)。


しかしホージーは、野球を始めたのが19歳からだったこともあり、入団当初はボールを打っても前に飛ばず、投げたボールは相手に届かない等、野球選手としての能力の低さを露呈させていた。また、メジャーリーグでの活躍経験も無かったため、チーム内外からは「ダメ外国人」等と酷評の嵐が吹き荒れ、中でも監督の野村克也は「なんで、こんな使いものにならない選手を獲ってきたんだ。ワシはホームランバッターが欲しかったんや」とボヤくほど、ホージーは当初全く信頼されていなかった。まさに、信頼が「ゼロ」だった。


活躍できるか不安視されていたが、シーズンが開幕すると2戦目でホームランを放つと、その後もホームラン量産し、6月には月間MVP(その月で最も活躍した選手が貰う賞)を獲得。ホージーはユニークなキャラクターとは裏腹に、チームメイトの誰よりも早くから練習を行い、コーチから教わったことは自前のノートにメモする等、野球に対しては真面目に取り組んでいた。


練習熱心で真面目なホージーはその後も活躍し、夏のオールスター戦に出場(第2戦で活躍し優秀選手に選ばれた)。さらに、後半戦でもホームランを打ち続け、最終的に38本のホームランを放ちホームラン王を獲得し、さらにはチームのリーグ優勝と日本一にも貢献した。


一躍ヤクルトのヒーローとなったホージーだが、翌1998年は、相手チームから徹底的にマークされ打撃不振となり、さらに自身の怪我の影響でホームランはわずかに13本。チームも4位に終わってしまい、ホージーはヤクルトを退団することになった。日本在籍期間は僅か2年であったが、そのインパクトは凄まじいものであった。


入団当初、監督からの信頼が「ゼロ(zero)」であったが、その年には「ヒーロー(hero)」となったホージーは、まるでヘラクレスのような外国人選手だった。