第1章 心弾んだのは、言うまでもない
マイクはいつもより入念にバックの中身を確認した。その中身は、3層に分かれており、1層ごとにきちんと役割分担がされていた。本日のミッションには欠かせないアイテムが彼の計算尽くされた時間軸により、一寸の狂いも無く、その役割を遂行するために静かにその時を待っていた。そして、一番内側を再度確かめるのであった。
地下鉄を降り、地上に出て、最初に目にした風景は、茹だる様な暑さから身を守るために銀杏並木の下をその順序良く並んだ幹と平行して歩く人々であって、何処でも見られる真夏の光景である。
街行く人々にとってそれぞれ起こる出来事は有意義なものであるにも係らず、暑さのせいで、うつむきながらまっすぐと歩を進めている。極薄番手の海外の一流コットンYシャツも、日本の気候による大量の汗は吸収できない。肌が透けるほど放出する汗は真夏の猛暑を余計に際立たせた。
マイクは待合せの時間より少し早く目的地に到着すると回りよりも少しでも居心地の良い場所を探してあたりを歩いてみた。そして直ぐに心地良い場所を見つけると、ゆっくりとシャツの裾を丁寧にデニムに滑り込ませた。
次にポケットに手を入れ、マルボロに手が届く。「トントン」と音をたて一本取り出し口元に運ぶ。待合せ時間を10分後に迎えるほんの一瞬の出来事である。
「予約していたマイクです。」
「お待ち申し上げておりました。さあ、こちらへどうぞ。」
窓からは、まだ十分に熱を蓄えた夕日から点々と日差しが地面とうつむき歩く人の肌を攻撃する様子が写る。
銀杏の太い幹の隙間から赤茶のレンガは日中蓄えた熱を放出するのに躍起になっているようだ。ここに入る前にレストランの全体をこの赤茶のレンガが覆っている。目の前のオープンウィンドウは、テラスで食事をする男女の会話を遮断する。これから起こる惨劇など想像もしていないだろう。
第2章 仕組まれた罠
マイクは今日のミッションの必要性と原因について考えていた。それは、数週間前の六本木での夜の出来事である。
汗を拭うナプキンを何度か交換し、静かに息を整え冷えたシャンパンを口へ運ぶと、マイクは目の前に突如現れたクロフクに目をやった。
「ワタナベ様。少々、お時間を頂いてよろしいでしょうか。」
突然の申し出に多少の迷いは感じたが、直ぐにそれに従った。
80年代のユーロビート。マイクにとって思い出の曲であるデュランヂュランのワイルドボーイが店内の隅々まで鳴り響く中、二人は出口へと向った。途中、肩越しに、熱気とタバコの煙が通り抜けるのを感じた。無我夢中で音楽に合わせて踊る人々の間をぬって歩くのは容易なものではない。クロフクはマイクの手首を掴みマイクはこれから起きる何かを想像しながら、ただただクロフクの行動にしたがっていた。
重い扉を抜け階段を下り、外の空気を胸いっぱいに吸う。首都高3号線からの騒音が向かいのティーキューブに反響して鼓膜を刺激する。それは正面に立つクロフクとその横に寄り添う二人の女性の言葉を遮る。マイクはクロフクの口元に再度、集中した。
「こちらの、お客様が、何か御用があるようです。」
そうマイクに告げると、クロフクは静かにその場を立ち去った。
その後、マイクはその女性と二言三言言葉を交わし、別かれた。
右手の携帯がブルブルと震え、彼女のアドレスが強引に入力されていた。かなり、酒が進んでいたのであろう。
最悪の事態への序章。後になってマイクはその時の彼女等の特徴について一切覚えていない事を後悔する破目に遭うのであった。
第3章 最初に断るべきだった
マイクのテーブルに「マグロとアボカド、トマトソースの冷製フェデリーニ」運ばれてきた。アルデンテよりも幾分時間をかけて茹でられたパスタは、その日のお薦めワインによく合った。二人はしばしの会話とこの時期にあったイタリアンを堪能していた。陶器と銀食器が擦れる音があたりを充満する。
ただ、そんな時間は、 思った以上に早く過ぎて行くものだ。もともと、テーブルの両脇に揃えられた銀食器は内側へと向っており、あと一つ一番小さな物を残すのみとなっていた。
使い込んだスピードスターは21時45分を少し回っていた。他のテーブルから聞こえてくるにぎやかな会話が少しずつ減っていく。マイクはそろそろ、その時が近づくのを今までの経験から感じ取った。
そして、直ぐにその時はやって来た。
化粧室に席を立った彼女が奥の角を曲がるのを確認すると、同時にマイクは銃口にサイレンサーを装着した。
だが既に、本番を迎えるこの時になって、マイクは動揺していた。
わざわざ、45口径をも勝るこの武器を、あの女に使うべきなのか。
今日の再会まではこのカートリッジの中すべてが空になること、一発残らず撃ち切る事はやむを得ない事と信じてやまなかった。