乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

『渋川伴五郎』無声映画 9★ 1922年 監督:築山光吉 弁士:澤登翠 尾上松之助 嵐璃珀

2014年02月26日 | 映画
        ( 能楽 『鉄輪』)


  『渋川伴五郎』
   ニッポン無声映画探検隊 第九十三回
   この映画は好きです^^v



 無声映画の『渋川伴五郎』を弁士付きで楽しませて頂きました。
 無声映画のためか、昔の芝居調のためか、仕草や表情が大きく、大変面白い作品でした。
 こういった良い意味で臭さを感じる芝居四倍調の映画って好きです。

 弁士付きという映画は実際には見たことがないので、貴重な経験でした。
 映画の役者との口の動きと弁士の言葉がずれていて、かえって興味深く斬新に感じました。

 各弁士によって映画そのものが大きく変わって感じられるのだろうなと思います。
 また、ここたっぷりとか、ここはアップテンポで言ってほしいとか、一度やってみたいなぁなどといった阿呆なくすぐりが生じ、映画を見ている間、弁士に憧れている自分に気づきました…って、どんな感想なの?(笑)
 
『渋川伴五郎』の弁士さん、お相撲試合で汚い手を使う侍の場で二度次のように申されました。
   「ぎゃくてとは、汚い手を…」
   「ぎゃくてとは、汚い手を…」

 また、酒代を出せという台詞は
   「さかてを出せ」
   「さかてを出せ」

 言葉遊びですか☆
 なるほど。弁士さんは【逆手(さかて)】と【さかて(酒代のこと)】を聞き分けさせるために、読み分けられていたのではないかと感じました。(解釈間違いの場合はお許し下さい。)
 弁士さんって、すごいなぁ~~


 ところで、映画『渋川伴五郎』の筋書きの面白いこと見事なこと。
 山あり谷ありを何度か繰り返し、起承転結がしっかりしていて面白かったです。

 クモ退治の場では歌舞伎を思い浮かべ、絵巻物を思い浮かべ、映画では、近年見た嵐寛寿郎さんの『岩見重太郎』を思い浮かべました。
『渋川伴五郎』は霧島にクモ退治に行きますが、このクモのかわいらしいこと^^ 
 絵巻物の土蜘蛛のようでした^^




  絵巻物の土蜘蛛のクモの絵(写真)
    ↓
  『続日本絵巻大成19 土蜘蛛草紙・天狗草紙・大江山絵詞 』影印「土蜘蛛草紙」現在東京博物館蔵




 この映画は好きです^^v

 


本編尺:64分
製作年:1922年
監督:築山光吉
弁士:澤登翠
出演:尾上松之助 嵐璃珀 片岡松燕 尾上松三郎 中村仙之助 実川延一郎 大谷鬼若 嵐亀三郎

日本映画史上最初のスーパースター尾上松之助の作品で、無声映画時代に盛んに行われた染色フィルムを使用。当時のフィルムはほとんど黒白に再現像されているため、元の色が残っているのは極めて貴重な映画。SFX映画で、逆回転などの単純な方法ながら、トリック撮影に工夫をこらし、剣豪と化け物との大立ち回りというアクション場面を作り上げている。




 データーは衛生劇場様からお借りしました。

 

 皆様、ご訪問下さいましてありがとうございます。
 昨日と一昨日は偶然同じ453名の方にお越しいただいておりました。
 ありがとうございます^^
 

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コメント (2)
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映画『ろまん化粧』1958年

2014年02月26日 | 映画
      ( 日を間違えた!乱☆鳥のキャバブではありません^^羊です  )


    『ろまん化粧』





 富島健夫原作仲代達矢出演の『黒い河』を見ようと思ってテレビをつけたら、『ろまん化粧』だった。
 まぁいいか~~
 なぁんていう安直な気分で『ろまん化粧』を見ていたら、知っているような知らないようは女優さん俳優さんたちばかりだった。
 1958年制作の映画ってこんな感じの物もあったのね。
 途中で女優が演歌か歌謡曲みたいなのを声を張り上げて歌われた物だから、真面目な顔をして見続けようと思ってもついついほくそえんでしまったわたくし。

 某台詞のことで赤松啓介氏に触れて長ったらしく書いていたけれど、やっぱり消去^^
 
 1950年代か60年代か知らないのですが、この頃の男性女性のヘアースタイルってかっこいいような気もするしそうでない気もするね。
 若干フランス映画のスターに憧れてたんでしょうか?
 
 あらすじは単純。

 まぁ、おっもしろかったのかしらん?そういうことにしときましょう…
 よくわからないまま、映画は終わる。

 小中学生の頃なじんだ富島健夫氏の『黒い河』が見たかったわ^^みたいな気がしないでもなかった。 
 日を、曜日を間違えたわたくしが悪い!とあきらめる。







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『夕霧阿波鳴渡』 『廓文章』 『夕霧名残の正月』『夕霧七年忌』の夕霧太夫の亡くなった日 2/26

2014年02月26日 | 民俗考・伝承・講演


 1678年(延宝6年1月6日) -
 夕霧太夫(初代)の亡くなった日

 1678年といえば 延宝
 延宝(えんぽう、正字体:延寳)は、日本の元号の一つ。
 寛文の後、天和の前。1673年から1681年までの期間を指す。
 この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、徳川綱吉

 夕霧太夫
 夕霧太夫(ゆうぎりたゆう)は京都・嶋原、大坂・新町廓にいた太夫で後述する2名が知られている。

 嶋原は京都にあるので訪れたことがある。

 新町遊廓(しんまちゆうかく)とは
 大坂で唯一江戸幕府公認だった遊廓(花街)。
 現在の大阪府大阪市大阪市西区新町1 - 2丁目に存在した。
 豊臣秀吉の大坂城建築によって城下町となった大坂では、江戸時代の初期にかけて諸所に遊女屋が散在していた。 1616年、木村又次郎という浪人が幕府に遊郭の設置を願い出、江戸の吉原遊廓開業後の1627年、それまで沼地だった下難波村に新しく町割りをして散在していた遊女屋を集約、遊廓が設置された。
 新しく拓かれた地域の総称であった新町が遊廓の名称となり、城下の西に位置することからニシや西廓とも呼ばれた。
 その後徐々に発展し17世紀後半には新京橋町・新堀町・瓢箪町・佐渡島町・吉原町の5曲輪(くるわ)を中心として構成されるようになり、五曲輪年寄が遊郭を支配下においた。
 廓は溝渠で囲まれ、さらに外側は東に西横堀川、北に立売堀川、南に長堀川と堀川がめぐらされており、出入りができる場所は西大門と東大門に限定されていた。当初は西大門だけだったが、船場からの便宜をはかって、1657年に東大門ができ、1672年に新町橋が架橋された。他に非常門が5つ設置されたが普段は閉鎖されていた。江戸の吉原、京の島原と並んで三大遊郭のひとつとされ、元禄年間には夕霧太夫をはじめ800名を超える遊女(太夫など)がいたことが確認されている。


 夕霧太夫とは

 芝居では
  近松門左衛門の浄瑠璃『夕霧阿波鳴渡』
  浄瑠璃の『廓文章』
  歌舞伎の『夕霧名残の正月』『夕霧七年忌』
  など
    上四演目の中で『夕霧七年忌』は見たことがない…(涙

 生年不詳 - 延宝6年1月7日(1678年2月27日)。
 本名は照。
 出身地は一説によると、現在の京都市右京区嵯峨の近くであるといわれる。
 いつ、どういう風に嶋原に入ったか不明であるが「扇屋」の太夫となり、のちに扇屋が大坂(大阪市)の新町に移転したため、新町の太夫となる。
 ここから大坂の太夫は生まれるのである。


 姿が美しく、また芸事に秀でた名妓であった。
 若くして病没すると、大坂中がその死を悼んだという。
 享年は22とも27とも伝えられる。

 亡くなった日は「夕霧忌」として俳句の季語にもある。墓は大阪の浄国寺、京都の清涼寺が有名だが他に徳島や和歌山にもある。
 死後、夕霧とその愛人・藤屋伊左衛門とを主人公とする浄瑠璃・歌舞伎などの作品が多く作られ、それらは「夕霧伊左衛門」または単に「夕霧」と総称された。がある。
 毎年11月第2日曜日に清涼寺にて「夕霧供養祭」が催され、本堂での法要、嶋原太夫による奉納舞、太夫道中や墓参が行われる。
夕霧太夫(現代の嶋原太夫)






 データーはWikipediaを参考にさせて頂きました

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