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鼠小僧刑死 天保3年(1832)

2011-06-11 16:22:56 | 江戸時代のビッグ二ユース

歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


2006年08月19日


鼠小僧刑死 天保3年(1832)

鼠小僧といえば、盗んだ金を貧しい人にばらまく義賊としてよく知られているが、実際はそうではない。彼もどうということはなく、自己の欲望から盗みを働く盗賊だった。

鼠小僧を義賊としたのは、彼の処刑後に出た講談本などであった。なぜ義賊となったかについては、鼠小僧が盗みに入ったのが、武家屋敷ばかりだったからだと言われる。
つまり、当時は身分制度が厳しく、大いばりだった武家の屋敷が荒らされることに痛快感を持っていたというわけだ。だから、そういう事実としての話に、いろいろ尾ヒレがついて盗んだ金をばら撒くなどという「実はいい人」的な人物像が出来上がったのであろう。

では、なぜ彼は盗みを働いたのか。なぜ武家屋敷ばかりを狙ったのか。

これについても、盗みの動機は単に「博打にはまってカネがなくなったから」であり、武家屋敷ばかりを狙った理由は「外見は警備が厳重だが、一旦中に入ればこれほど手薄な屋敷もないから」だという。
商人の家などは、カネの管理も厳重で、中に入ってからもカネを盗むのは容易じゃないが、武家は屋敷に入るまでのセキュリティが頑丈な分、内部のカネの管理は割と杜撰だったらしい。

鼠小僧は実は、生涯で2度捕まっている。1度はもちろん処刑された時だが、その時とは別にもう一回ある。ただ、その時はまだ盗んではいなかったので、なんとか言いくるめて、賭博の罪だけ認めて3ヶ月の入牢となった。その後入墨(前科者としての墨)、追放処分となっている。

処刑された時の盗みのターゲットは松平宮内少輔宅。この時も順調に盗めるかと思ったのだが、運悪く持病の喘息の発作が出た。それで、思わず声を出してしまいあえなく御用となってしまった。

鼠小僧の盗みの被害は実に99件3千両(単純な当時の両替推測で1億2千万円くらい?)以上という。北町奉行所のお白州で、これらすべての盗みについてペラペラとあっさり白状した鼠小僧は、刑の執行の日、特に頼み込んで顔に薄化粧をさせてもらい、衣装も派手なものを着せてもらった。そして、江戸市中引き廻しの上、鈴ヶ森の刑場で、磔、獄門に処された。


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(キーワード)

●鼠小僧次郎吉(ねずみこぞうじろきち)

江戸時代後期の大泥棒として知られる。盗んだ金を貧しい人にばら撒いたという義賊的な知られ方をしているが、それはすべて講談の中での話しである。

実状の彼の経歴は詳しくはわかっていないのだが、一説を紹介しておこう。
生まれは寛政9年(1797)。江戸中村座の木戸番・定七の長男として生まれ、建具屋の住み込み奉公や鳶人足をやっていたらしいが、やがて博打を覚えて堕落し、親から勘当されたという。そして、博打の金欲しさについに盗みをはたらくのである。

次郎吉のターゲットは主に武家ばかりで、狙っては99件、3千両を盗んで、100件目の松平宮内少輔の屋敷で持病の喘息の発作が出て不覚をとった。

鳶職をやっていたから、身のこなしがあざやかで、すばしっこく、そんなところからついた異名が「鼠小僧」だったという。
江戸市中引き廻しの上、磔、獄門。辞世は、「天の下 ふるきためしは 白波の みこそねずみと あらはれにける」。


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鼠小僧というと、なんとなくほっかむりのあのわかりやすい泥棒スタイルを思い浮かべますが、実際にもあんなにわかりやすかったんですかね~…。あれだと私は泥棒ですと言ってるようなもんだ。

捕まってから妙に潔い鼠小僧。後で義賊に仕立て上げられたことなんて知らないわけですが、知ったら大喜びするだろうか。

8月18日の政変 文久3年(1863)

2011-06-11 16:16:19 | 仰天二ユース

歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


2006年08月18日


8月18日の政変は、尊王攘夷論をもって宮中で発言力を高めていた公卿と、それを支持する長州藩を京都から追い出した事件である。

この政変の背景は少しややこしいので、一つずつ重要事項を整理してみた。
まず、当時の状勢であるが、当時は、孝明天皇が熱烈な攘夷論者であることもあって、尊皇攘夷論者が勢力を強めていた。対するは公武合体派で、これは簡単に言えば、幕府と朝廷が手を結ぶというもので、要するに尊王・佐幕の両方どりの、どちらかといえば穏健的な思想である。

当時、この公武合体派が、尊皇攘夷論者によって「天誅」と称して斬殺される事件が相次いでいた。このため、朝議も尊攘論に傾かざるをえない。誰も「天誅」を加えられたくはないので、自然と公武合体派は小さくなってしまうのである。

そこで、文久3年(1863)8月13日、尊攘派公卿がその発言力を背景に強行に決定したのが、孝明天皇の大和行幸である。これは、「橿原にある神武天皇陵に尊王攘夷断行を祈願するため」として決定されたもので、尊攘派は、この機に一気に倒幕の挙兵をも実現させようという過激な考えを持っていたという。

その過激な考えのさきがけとして8月17日、「天誅組」が一斉蜂起した。天誅組の指導者は、このとき弱冠19歳の公卿・中山忠光で、組の中心は土佐勤皇党の吉村寅太郎、備中の藤本鉄石などで、総勢39名の尊皇攘夷の浪士たちが集まったという。

彼らが目指したのが、幕府の直轄地(天領)で、当時は鈴木源内という代官がいた大和(奈良県)の五條であった。天誅組は源内をさっそく血祭りにあげ、村役人らに「源内は悪政の甚だしいゆえに天誅を加えた。今後は五條は朝廷支配地となる」などと話したという。これはまさしく、「倒幕挙兵の先駆け」であったと言えるであろう。

ところが、事態は一変した。結論から言うと、天誅組挙兵の翌日、8月18日の政変が発生するのだ。8月18日の政変は、公武合体派の中川宮を中心に実行された。中川宮は、公武合体派の諸藩に呼びかけクーデターを起こす。親藩の会津藩、この時点では公武合体派だった薩摩藩もこれに加わった。

8月18日未明、深夜1時である。中川宮、近衛忠熙父子などの公卿、京都守護職で会津藩主の松平容保、所司代稲葉正邦らが続いて参内した。すると、御所の九門を会津、薩摩、淀などの諸藩の兵士が取り巻き、厳重に閉鎖された。

つまり、尊攘派の入る隙を与えずに朝議で重要事項を決定してしまったのである。重要事項とは、孝明天皇の大和行幸の延期、尊攘派公卿の参内禁止と謹慎、長州藩の堺町門警護解任など。これにより、形勢は逆転した。

尊攘派の三条実美らも異変に気づいて御所に駆けつけたが、参内は認められず、長州藩兵も勅使の命令で御所を引き払った。京都東山の大仏妙法院協議した尊攘派公卿7名と尊攘派諸藩志士らは、いったん長州に落ち延びることを決定し、翌19日朝、大雨のなか京都を去った。

クーデターは成功である。これにより、政局は公武合体派が主導権を握ることになったのである。

⇒政変の発生元・京都御所周辺の地図(livedoor地図情報)
⇒天誅組義士の墓周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は幕末京都の詳細な位置関係がわかる『京都時代MAP 幕末・維新編』。幕末の地図の上から現代の地図を書いたトレーシングペーパーを重ねてみることで、現在のどのあたりに幕末にはどんなものがあったのかがわかるという仕組み。面白いですね。これは幕末ファンにはたまらない逸品ですよ。


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実にわかりやすい名前なんですが、なんともすっきり説明できないクーデターです…。
孝明天皇は、過剰なまでの攘夷派だったそうですが、皇女和宮を14代将軍家茂に嫁がせるなど、公武合体にはおおむね賛成で、尊皇攘夷論者が熱望する倒幕の心はなかったとか。
天皇を担ぎ出せば名目が得られるのかもしれませんが、担がれる方も大変ですな…。

なお、このとき、7人の公卿が長州に落ちていったので、このことを七卿落ちと言ってます。これまた呼び方は単純明快だ…。


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コメント一覧


1. Posted by 出来屋 2006年08月19日 10:31



2. Posted by 35式 2006年08月19日 11:18

ネットもTVもない時代だけに全体の状況掌握がさぞかし大変だったろうと思います。
どうやって整理していたんでしょうね~。

3. Posted by ぴの 2006年08月20日 04:50

>出来屋様
リンク貼っていただきありがとうございます!
最近更新滞りまくりですが、またお時間ある時にでも覗いてください!

4. Posted by ぴの 2006年08月20日 04:53

>35式様
もうほんと現代では考えられないですよね。最近はケータイがない時代ってどうしていたんだろうとかしみじみ思いますからね~。私だってつい7年ほど前にはケータイ持ってなかったんですが…。

そう考えると、逆にあの時代にこれがあったら…と妄想してしまいます。
確かに情報の伝達とかどの程度の早さでやっていたんでしょうね。調べてみようかな…。

太平洋戦争終結 昭和20年(1945)国民にとって終戦は突然やってきた。

2011-06-11 16:07:03 | 歴史隠れ話


歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


2006年08月15日


太平洋戦争終結 昭和20年(1945)

国民にとって終戦は突然やってきた。

1945年8月15日の朝7時21分、日本放送協会が「正午より、天皇陛下よりの重大なお言葉を放送する」という発表放送を流した。正午になって流れた放送とは、玉音放送であった。放送そのものは雑音が混じり、しかも難しくて聞き慣れない言葉が多かったため、はじめは国民も、陛下が何のことをお話になられているのかがよくわからなかったという。

しかし、放送後半の「朕は時運の趨く所堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」という一節あたりまでくると、この放送を敗戦の宣言であることを理解し、国民の多くが涙を流して崩れ落ちた。皇居の二重橋前では玉音放送を聞いて涙し、敗戦を土下座して天皇に詫びる者の姿が見られた。これを持って太平洋戦争は終結をみたのである。

終戦に関しては、軍部からは反対論も出ていた。そもそも鈴木貫太郎内閣は、終戦に向けての動きを見せながらも、7月26日に連合国軍から提示されたポツダム宣言の受諾を拒否した。ただ、本当は内閣としてはすでに戦争継続の意志はなかったらしい。

内閣としてはソ連に仲介を依頼して、少しでも条件的に不利でなくなるようにつとめたかったため、ポツダム宣言についても当初は「ただ沈黙して様子見」の予定であったという。
しかし、軍部から「国民の士気に関わる」と指摘を受け、やむなく鈴木首相は「ポツダム宣言は黙殺する。日本国民は断固として戦争完遂に邁進する」と声明を出した。つまり、広い意味ではこれは、「軍部を納得させるための声明」であった。

だが、一国の首相から出た言葉である。当然といえば当然であるが、アメリカはこれを「日本に戦争終結の意志、未だなし」と受け取った。そして、ついに軍事力の歴然たる差を思い知らせるべく、8月6日に広島に原爆が投下されたのである。

原爆の破壊力を目の当たりにし、内閣ではポツダム宣言受諾は前提事項となった。会議の議題は「如何なる条件で受諾するか」に変わったのである。
内閣首脳は「国体護持」を主な条件とし、その他は大きく挙げなかったが、軍部は相変わらず強気で、他にもいくつかの条件をつけるよう主張したため、会議はまとまらなかった。しかし、この時点で日本には時間はもうなかったのである。

会議が長引く中、アメリカは、9日になってさらに長崎にも原爆を投下。早期の意思決定を余儀なくされた内閣は、ついに結論をご聖断にゆだねることに決した。つまり、天皇陛下に判断していただくことになったのである。

昭和天皇は、これを受けて御前会議で「宣言はそのまま受諾し、そのことについての国民への布告については、私が国民に呼びかけることがよいのならば、いつでもマイクの前にたつ。」と話し、8月14日の夜、玉音放送は録音された。

翌日、敗戦受け入れ反対の一部軍人のクーデターが発生したものの、大事には至らず、正午には日本放送協会から全国に玉音放送が流れた。

3年8ヶ月に及ぶ凄惨な太平洋戦争はこれで終結し、その後日本はGHQの占領政策のもと、民主主義国家、戦争永久放棄の国家として再建されていくことになる。


※写真は太平洋戦争の詳細な情報が載っているということで評判の高い『あの戦争 太平洋戦争全記録〈上〉』。中巻、下巻もあり、太平洋戦争の忘れえぬ記録として、好評のようです。私も欲しい!

※『玉音放送が流れた日』は、玉音放送のCD付き。ポツダム宣言と、サンフランシスコ平和条約も全文が収録されています。戦争についての解説とかは特に載っていないので、関連資料として興味のある方はぜひ。


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(補足情報)

●戦争の犠牲者

ある資料によると、太平洋戦争における日本国軍人の犠牲は、死亡、負傷、行方不明を合わせて186万人を越えるという。また、戦争後期には、本土空襲も相次いだため、民衆(非戦闘員)の犠牲も180万人を数えた。なお、このうち38万人近くが原爆による被害者であるという。

人的被害を免れたとも、住む家を失ったりした人も多数いる。そういった罹災者は1000万人以上いたとされ、戦後も国民は大変な生活を余儀なくされた。


●玉音放送(ぎょくおんほうそう)

「玉音放送」という言葉は、天皇の肉声を放送することだが、特に1945年8月15日正午の終戦の詔勅の朗読の録音盤の放送を指すのが一般的である。

終戦の玉音放送は、天皇自らの肉声を前日夜に録音して、それを流したが、原文に難しい言葉や普段あまり使われない言葉などが多く、しかも放送機器の問題からか、雑音などが混ざってしまっており、不明瞭な部分もあったらしい。
国民はこれを敗戦の宣言と理解し、総じて涙を流したといわれる。

(参考)
玉音放送については、Wikipedia「玉音放送」の項が非常に詳しく書かれています。詔勅の全文や、放送直前の終戦反対軍人によるクーデターのことも載っています。


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戦争はこれで終わったわけですね…。当時の国民は日本が負けるなんて思っていなかったと思いますが、終戦までの流れを見ると、やはりもう少し早く決断されていれば…と思ってしまいます。せめて原爆が使われないうちに…。

犠牲者に対する慰霊の念は忘れてはならないことだと思いますが、同時にこの戦争における日本の責任については、今後も充分反省し、二度繰り返さないようにしていかなければならないと思います。
様々な意味合いで戦争の記憶は忘れてはならないものですね。