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9月1日といえば、防災の日であるが、それはこの関東大震災のあった日だからだそうである。

2011-06-14 20:13:57 | 仰天二ユース


歴史かくれ話と今日は何の日


2006年09月01日


関東大震災 大正12年(1923)

9月1日といえば、防災の日であるが、それはこの関東大震災のあった日だからだそうである。

大正12年(1923)9月1日の午前11時58分、関東地方を大地震が襲った。震源地は相模湾底で、地震の規模をあらわすマグニチュードは7.9。凄まじいまでの地鳴りから始まり、すぐに激しい縦揺れが起こったという。

その揺れは、震源地周辺はもちろん、関東全域から東北地方南部までに及んだ。激震は3回におよび、激震が収まった後も余震はしばらく続いて、市民は不安な時を過ごした。家屋は倒壊し、地面には至るところに亀裂が入って、その光景は地獄絵図さながらであったであろう。

ちょうど昼時で、昼食の準備をしている市民が多く、調理のために火を使用していた。これが被害を大規模にする最大の要因だったわけである。激震から家屋倒壊に続いて、各地で火の手があがった。特に人口密集地帯である横浜市や東京都心部では、たちまち黒煙がたちこめ、あちこちに火は広がった。

折りしも、この日の関東は明け方から強風が吹いており、上空の黒雲は強い雨を降らしていたという。朝方には雨はやんで、陽も差し始めたというが、風は時折強く吹いていた。

火は強風にあおられて、どんどん燃え移って巨大化していく。東京下町では、水道管破裂によって、消防活動も満足にできず、火勢は増し続け、ようやく火勢がおさまったのが三日後だったという。だから、市民がようやく一息ついた頃には、辺りは倒壊による被害よりも火災のよる被害で、灰燼に帰していたのであった。

地震がもっとも怖い理由は、別の災害を併発するからであろう。すなわち火事と津波である。関東大震災の際には、各地で起こった火事が、やがて火災旋風を巻き起こし、巨大な火柱となって辺りを飲み込んでいくのだ。揺れによる危機を逃れ、一旦は本所の被服廠跡避難所に集まった人たちは、この迫り来る火災旋風に逃げ場を失い、一気に焼死していった。4万人近くがここで焼け死んだという。

一説によると東京では、地震そのものによる建物の倒壊で亡くなった人は2千人ほどだったが、火災による使者数は全部で6万人近かったという。火災の勢いを物語る数値といえよう。

また、沿岸では8メートル近い大津波に襲われたところがあった。まさに逃げ場なしの大災害であった。

情報入手手段を断たれた市民は、次なる大地震、大津波発生などの流言飛語におびえたり、この混乱に乗じて朝鮮人が暴動を起こすなどというデマによって、朝鮮人を襲撃するなど、災害による被害が収まっても混乱を増すばかりであった。

震災による被害総額は55億円~60億円といわれる。当時の国家予算が15億円だったというから、実に国家予算の4倍近い甚大な被害をこうむったのである。

※写真はちくま文庫の『写真で見る関東大震災』。関東大震災直後の写真が多数収録された、資料としてもすばらしい本です。震災経験者を含む多数の人々の寄稿で、関東大震災をより詳しく知ることができます。内容に比してそれほど高くない値段もナイス。ぜひ多くの人に手にとってもらいたい本です。


⇒こちらは関東大震災のノンフィクション『正午二分前』。経験者からの証言をもとに書いたリアルなノンフィクション!


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(補足情報)

●震災による被害報告

被害については、手持ちの資料によっては弱冠相違が見られるが、概ね以下の通りである。

・家屋全壊 約13万戸(罹災戸数 約40万戸)
・家屋半壊 約13万戸
・家屋消失 約45万戸
・死者   約10万人
・行方不明 約4万5千人
・被害総額 約55億円~60億円

※死者の中には火事で亡くなった人が多い。
※また、浅草名物だった「12階」こと「凌雲閣」も途中から崩れるなど、木造の民家のみならず、都市部の頑丈なレンガ造りの建物も例外なく被害を受けた。


●流言飛語について

震災による通信系統、交通機関のストップは、人々の不安を煽り、様々な流言飛語が飛び交った。なかでも、大地震の再襲来や大津波の再来などの噂は、まことしやかに囁かれ、人々をなお混乱に陥れたが、このほかにも、この混乱に乗じた人災や犯罪が発生しているという流言もあった。

それらについては「首相が暗殺された」とか「市ヶ谷監獄から囚人が脱走した」などが言われたが、「朝鮮人が暴動を起こしている」「朝鮮人が盗み、強姦などを行っている」などの朝鮮人関連の流言は特にひどく、人々は朝鮮人を「自衛手段の行使」として襲い、虐殺された朝鮮人は多数にのぼった。
軍隊や警察もこの朝鮮人殺害に加わっていたというから、流言飛語の一部は政府によって出されたものという憶測もなされている。


●西郷さんで安否確認

上野公園にある西郷隆盛の銅像には、震災当時、多くの人が安否確認のビラを貼り付けていったという。西郷さんは白いビラで埋め尽くされたほどであった。


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私の祖父は関東大震災を3歳くらいのときに経験したと言っていました。何しろ3歳ですから何も覚えてはいないとのことでしたが、震災を経験したお年寄りもいるくらいですから、関東大震災というのは、そう遠くない歴史です。

私たちのよく知る1995年の阪神・淡路大震災ではおよそ6千人の人が亡くなったそうです。
日本はどこにいても地震に見舞われる地形だそうですから、私たちも災害に備えて、いざ大地震となったときに、少しでも被害を抑えられるようにしておきたいですな。


↓「続きを読む」で、特別企画としまして、防災グッズのご紹介をしています。

マッカーサーが占領軍として来日 昭和20年(1945)

2011-06-14 19:54:52 | 歴史隠れ話


歴史かくれ話と今日は何の日


2006年08月30日


マッカーサーが占領軍として来日 昭和20年(1945)

ダグラス・マッカーサーは、米陸軍元帥。太平洋戦争開戦時は、極東軍司令官としてフィリピンにいた。
日本は開戦間もなくシンガポール上陸作戦を中心とする南方作戦を展開。マッカーサーはこれの撃滅にあたったが、マッカーサーの軍は訓練の行き届いていない兵が多く、一週間足らずでマッカーサーはマニラから兵を引き、オーストラリアに退くことになる。

この際に、言い残した「アイ・シャル・リターン(私は再び戻ってくる)」という言葉はあまりにも有名で、実際、マッカーサーは昭和19年(1944)にフィリピンを奪回している。

終戦後は連合国軍最高司令官として、昭和20年(1945)のこの日、厚木基地に降り立った。この後、占領軍はおよそ40万人が来日して、マッカーサーの指導のもと、占領政策を実行していく。

まず、9月17日に東京日比谷の第一生命ビルに連合国軍総司令官総司令部(GHQ)を置いたマッカーサーは、日本の「非軍事化」と「民主化」に主眼を置いて占領政策を進めた。そして9月27日にはアメリカ大使館で昭和天皇の訪問を受け、この場で天皇の「先の戦争の全責任を負う。」という発言に深く感銘を受けた。

当時は連合国からは「天皇の戦争責任を追及すべきだ」という声があがっていたが、マッカーサーは、それらの声に反して「天皇制の維持」を掲げて、その後も天皇陛下に占領政策についての意見や助言を求めたのである。ちなみにこの会談の時の記念写真が、有名なマッカーサーと昭和天皇が並んで撮影されている写真である。
陛下は正装で直立であられるのに対し、マッカーサーは軍服姿で腰に手を当て力を抜いた格好で写っている。日本では、戦前、戦中は天皇陛下を現人神として奉っていたので、この写真は不敬であるとされたが、GHQはこれの掲載を許可したため、朝日新聞などがこれを掲載し、当時の人々もこの写真を目の当たりにしたという。

マッカーサーは憲法改正にも取り組み、また、時の首相・幣原喜重郎に、民主化のための五大改革指令を出した。また、極東国際軍事裁判(東京裁判)を開いて、戦犯の裁判を行ったり、農地改革に着手するなど、日本の復興にあたった。

※写真は『実録日本占領―GHQ日本改造の七年』。おなじみ歴史群像シリーズです。相変わらず写真や図も豊富で、解説も読みごたえあり。入門編には最適です。


※こちらはマッカーサーの占領政策は詳述した『マッカーサーの二千日』。上記の「日本占領」と合わせて読めば、占領政策について、マッカーサーについての理解もより深まります。


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(キーワード)

●連合国軍総司令官総司令部(れんごうこくぐんそうしれいかんそうしれいぶ)

通称GHQ(General Head quarters of the Supreme Commander for the Allied Powers)。東京日比谷の第一生命ビルに拠点が置かれた。最高司令官は米国陸軍元帥のダグラス=マッカーサー(のちリッジウェイが後任)。「連合国軍」の名を冠しているが、事実上はアメリカ合衆国の単独機関である。

GHQは、最高司令官のマッカーサーを中心として、高級調官にB=M=フィッチ、最高司令官軍事秘書にB=F=フェラーズを配し、参謀長にR=K=サザーランド、以下人事、情報、作戦、補給の各部、さらにその下に民政局や法務局など9つの局を置いた一つの組織で、通常は2千名のスタッフで構成されていたという(一時は6千人とも)。

基本的には占領政策を行うが、目的としているのは日本国の米国への隷属化ではなく、日本の民主化と非軍事化であった。ただし、はじめは連合国による日本の分割統治案も出ていたという(アメリカ、イギリス、ソ連、中国で日本を4分割して占領するというもの)。また、軍政統治案もあったというが、これも予算や準備期間の関係でお流れとなった。ただ、沖縄だけは米軍のアジアの拠点として、沖縄本島の20パーセントほどは今も米軍軍用地のままである。


●五大改革指令(ごだいかいかくしれい)

1945年10月に、連合国軍総司令官であるマッカーサー元帥が時の首相・幣原喜重郎を呼び出して、口頭で伝えた日本民主化のための方針指令。

「五大改革指令」だから、内容も5本の柱で成り立っている。
①婦人参政権の導入による婦人の解放、②労働組合の結成の奨励、③学校教育の自由主義化、④秘密警察などの全廃、⑤財閥、地主制度などを解体し、独占的な経済機構を民主化すること。
以上の5項目。戦後日本の方針はこの指令の中に集約されているといえる。ちなみに⑤については、この後大々的に財閥解体、農地改革が行われていくことになる。


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日本の民主主義化は連合国軍の方針で行われたというわけで、結局あの殺伐とした戦前の軍事国家時代からすっぱり足を洗えたのは、太平洋戦争で敗れたおかげともいえるんですかね。

私なんかは戦争とか嫌いですし、徴兵とかされて行きたくないですから、この流れは歓迎ですが、最近は多少秩序が乱れ始めてきたなあという気もしますね。毎月毎月未成年者の放火とか犯罪とか起こりまくってるしね。

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2011-06-14 19:51:54 | 今日は何の日


歴史かくれ話と今日は何の日


2006年08月29日


家康の正妻・築山殿、夫に殺される 天正7年(1579)

徳川家康は晩年、側室ばかりに子を成したことで知られるが、数回正妻も迎えてはいる。家康の最初の正妻がこの築山殿である。

家康は、まだ今川義元に従属していた時に、義元の仲立ちで築山殿と結婚した。築山殿は義元の妹婿関口氏広の娘で、当時は瀬名姫といった。気位が高く、しかも家康(そのときは元康と名乗っていたが「家康」で統一する)より年上だったので、家康は何かとこの年上の妻に気を使ったという。

ところが、永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれるという変事が起こる。
そのときはまだ今川に属していた家康だったが、義元の世継ぎである氏真は戦国大名としては暗愚で、家康としても氏真にまで従う義理はなかったから、この後すっぱり今川家を見限って、逆に織田家と結んだ。思えば、この行動がそもそも築山殿には気に入らなかったようである。

家康は、このときすでに築山殿を遠ざけるようになっていたが、さらに信長の娘・徳姫と築山殿が産んだ第一子・信康の婚姻を進めたため、これが築山殿にの不満を増大させた。
築山殿にとっては、織田家は伯父の仇。その織田家と同盟だけならまだしも婚姻関係になろうとは。しかも我が息子と織田の姫を結婚させようとは。築山殿の不満は、意に反して仲のよい信康と徳姫を見るに付け増大していった。

そこで、ついに不満は頂点に達し、築山殿はとんでもない計画を立てた。「家康を亡き者にして信康に後を継がせ、武田勝頼と呼応して仇敵信長を討つ」。実際にこういう計画があって、築山殿が武田と内通していたかについては、確かな史料がないため断定はできないが、あるいはそういう動きもあったかもしれないという。

しかし、徳姫が築山殿につらくあたられていたのは事実のようである。何かにつけて信康との夫婦仲を裂くような行為をされた徳姫は、耐え切れなくなって、父・信長へ12ヶ条の讒訴状を送った。
その中に、信康と築山殿が武田に内通しているという項目があった。これを見た信長のもとは、事実関係の確認のため、徳川家の説明を求めたが、その使者となった家康の重臣・酒井忠次はこの徳姫の書状にある内容のほとんどを認めてしまった。

そのため、ついに信長は、家康に2人を殺すよう命令。家康は泣く泣く将来を期待していた信康を切腹させ、築山殿も家臣に暗殺させた。ちなみに家康の命で築山殿を襲撃した人物は、野中三五郎、岡本平右衛門らである。

この時、信長への使者となった酒井忠次が、うまく釈明していればあるいは信康を殺さずにすんだかもしれない。その後の忠次は遠ざけられたわけではなかったが、重臣の家柄にしてはやや不遇な扱いを受けている。のちに忠次の息子・家次の禄高が少ないと家康に文句を言った時には「おまえでも息子はかわいいのか」などと皮肉を言われたという。

なお、この事件は信長が信康の器量を恐れてあれこれ理由をつけて殺させたという説もある。いずれにせよ、この時点では家康もここまで苦渋の決断をせねばならなかったということで、家康のまだ磐石ではない立場が察せられる。

⇒築山殿の首塚がある岡崎市の八柱神社周辺の地図(livedoor地図情報)
⇒墓はこちら(livedoor地図情報)

※写真は1983年の『NHK大河ドラマ 徳川家康 完全版 第壱集』。家康は最後まで善人としての描かれ方をしますが、家康の波乱に満ちた一生がリアルに描かれており、毎年やる大河の中でも屈指の名作だと思いますヨ。家康役は滝田栄。これがけっこうはまってます。築山殿事件ももちろん描かれています。
⇒『NHK大河ドラマ 徳川家康 完全版 第弐集』もどうぞ。
※ちなみに↑の完全版のBOXはたぶん限定生産です(単品も売ってます)。BOX購入を検討中の方はお早めに~。


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(キーワード)

●築山殿(つきやまどの)

瀬名姫。駿河御前。徳川家康の正室。父の関口氏広は今川義元の妹婿だから、義元の姪にあたる。

弘治3年(1557)に、そのとき今川家の人質状態だった松平元康(のちの徳川家康)に嫁ぐ。しかし、築山殿は気位が高く、「なんで私がこんな人質の居候に嫁がねばならんのか」と結婚そのものに不満たらたらだったらしい。

とはいえ、夫婦は夫婦。やがて嫡男・信康と長女・亀姫を産んだ。

永禄3年(1560)、今川義元が桶狭間の合戦で討たれたのち、家康は旧領である三河の岡崎城に戻って今川氏からの独立を宣言したが、築山殿はこれが気に入らなかったらしく、遅れて岡崎城に入った。のち、家康が遠江を併合して浜松に移った際には、岡崎城は信康に与えられたため、信康と共に岡崎に残るなど、家康との仲はずっとあまりよろしくなかったようである。

やがて織田信長から信康もろとも武田家との内通を疑われる。築山殿は釈明しようとして浜松に向かう途中、遠江富塚で、夫の家康からの刺客に襲われて殺された。享年は38歳といわれる。

家康は、これ以降、身分の高い女性は好まず、死ぬまでに複数置いた側室も、割と低い身分の出身者が多かったという。トラウマだったとすれば、築山殿パワーはすごいね。


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私はお嬢様は苦手です。

家康の息子の秀忠公の嫁さんも年上の恐妻家ですね。まあ家康みたいな不満たらたらの恐妻家ではなくて、愛があったっぽいからいいですが。でも、秀忠公は、結局生涯正式には側室を持てなかったみたいですね。嫁さん怖くて。