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いろいろ忙しくて更新が飛び飛びになってしまってます。どうもすみません。

2011-06-15 11:13:39 | お詫びとお知らせ

歴史かくれ話と今日は何の日


2006年09月06日


お知らせ

ブログ村 歴史ブログ

いろいろ忙しくて更新が飛び飛びになってしまってます。どうもすみません。もうしばらくこの状態が続きそうです。でも、できるだけ更新できるようにがんばります。

(お知らせ)


■簡易年表実装しました

このたび、日本史簡易年表を実装しました。(⇒簡易年表へ)
年表から各記事へのリンクを貼るようにしますので、時代の流れを見ながら、気になった記事だけ詳細を見るというような使い方ができます。

とりあえず鎌倉時代まで先行作成しました。
その後の時代も、随時できそうな時に追加していく予定です。

なお、年表の記載事項は、記事を追加していくたびに増やしていきます。(だんだん年表が充実していくというわけ。)


■検討中

忙しいからと言って、あんまりほったらかしというのはアレなんで、できれば「その日何があったか」という出来事だけでも日々更新するようにしていこうかなと思っています。

ただ、まだ検討中です。どうするか決めたらまたお知らせしますネ

大村益次郎襲撃される 明治2年(1869)

2011-06-15 11:06:08 | 幕末のヒーロー

歴史かくれ話と今日は何の日


2006年09月04日


大村益次郎襲撃される 明治2年(1869)

ブログ村 歴史ブログ

大村益次郎は、幕末期を代表する軍政家で、もと医師。実家が医者の家だが、村医者であり、特に裕福というわけでもなかったらしい。

そんな益次郎だが、緒方洪庵の適々斎塾で、医学以外に兵学や築城学、砲術などを学んで、兵法家の道も切り開いた。益次郎は、実はこの後、故郷に戻って実家の医業を継ぐのだが、幕末の動乱のなか、益次郎の才能は伊予宇和島藩に聞こえていて、やがて招かれて宇和島藩で兵法家として活躍することになる。

紆余曲折あって、37歳で故郷の長州藩に仕えてその兵法や軍政の才能を発揮する運びとなった。益次郎の兵法、軍政は素晴らしく、戊辰戦争における上野彰義隊討伐、続く会津戦争、函館五稜郭と新政府軍の本部で辣腕を振るい、新政府軍の中心人物となっていった。

益次郎が襲撃されたのは維新成った明治2年。維新が成ったと言っても、まだまだ改革の途上であった。明治維新は、根本的に世の中の仕組みを変えるという一大改革であったから、新体制で不利を得る者は、改革に反対意見を唱えるものもいた。そして、その改革を主導した人物が狙われることもあったわけである。その風潮の中で大村益次郎も襲われた。

益次郎は、軍政家であったから、改革でも兵制の改革に取り組んだ。そして、こういう方針を打ち立てた。「武士の軍隊の解散と廃刀」である。これが、旧藩士の連中に猛反対された。武士の特権がなくなるわけだから、まあ当然といえば当然である。

益次郎が襲撃されたのは、軍事施設調査のために京阪地方に来ていた時であった。
益次郎が京都木屋町に旅館に帰ると、静間彦太郎、安達幸之助、山田善次郎などが訪ねてきた。いずれも益次郎の知人で、静間は大隊司令官、安達は英学教授であった。そして、明るいうちであったが、酒宴を催しながら談笑に及んでいたらしい。

やがて暗くなり始めたころに8人の刺客の襲撃を受けたのである。刺客の目標はもちろん益次郎で、真っ先に狙われた。益次郎は初太刀で額に浅傷を負う。そして、咄嗟ににとった刀で次太刀を受けようとしたが、振り下ろされた刀は鞘を伝って、右膝に骨まで刺さる重傷を負った。しかし、益次郎はそこでは死ななかった。うまく隠れて難を逃れたのである。他の3人はあえなく斬殺されたのだが。

だが、益次郎の膝の傷はやがて破傷風となり、右大腿部を切断。その後再び悪化して11月5日に死亡した。ちなみに刺客の8人は全員逮捕されて、斬首になっている。

⇒大村益次郎殉難碑周辺の地図(livedoor地図情報)
※地図にはありませんが、この辺にあります。

※写真は『風雲児たち 幕末編 8 (8)』。表紙が益次郎です。「歴史大河ギャグ」の本作ですが、割と細かいことまで描かれています。この巻は表紙になっているだけあって、最初の方は益次郎が多めに登場。この他に『風雲児たち 幕末編 5 (5)』にも登場して、シーボルトの娘・イネにいい台詞を言ってくれます。ちなみに『風雲児たち 幕末編 (9)』にも登場。

※大村益次郎を主人公とした大河ドラマもあります。司馬遼太郎原作の『NHK大河ドラマ総集編 花神』。大河の幕末モノはヒットしないというジンクスがあるようですが、…まあこの作品も地味といえば地味ですかね…(笑)。幕末好きなら絶対面白いと思うんですがねぇ。
原作はこちらです⇒『花神〈上〉』、『花神 (中)』、『花神 (下巻)』


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(キーワード)

●大村益次郎(おおむらますじろう)

村田良庵、村田蔵六と称し、のち大村益次郎。

緒方洪庵の適塾の門下生で、塾頭にまでなった傑物。宇和島藩の伊達宗城に招かれ出仕し、藩の蘭学推進や西洋船建造計画に力を尽くした。この頃、シーボルトの娘イネに医学を教授したという。

のち、幕府に出仕し、蕃書調所教授手伝、講武所教授。1860年には萩藩(長州)に迎えられ、66年の幕府による第二次長州征伐で、軍略の冴えを見せつけた。次いで、戊辰戦争でも軍略面で活躍し、明治維新後は、新政府の軍制改革を提案した。しかし、革新的な発言をしてきたため、守旧派からは恨まれ、69年9月、京都木屋町の旅館で襲撃を受け、11月に没した。

肖像画を見ると、やたら額が広く、頭がでかい。脳みそギッシリなのね。
⇒肖像画を見たい方はこちらへ(国立国会図書館『近代日本人の肖像画』様)。


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大村益次郎は、私は『風雲児たち』で詳しく知りました。すごいカタブツとして描かれてましたがマジなのかな…?
しかし、襲撃の様子がどことなく坂本龍馬と似ているような…。書き方ひとつで変わるというヤツですかねえ。


比企能員は、源頼朝の乳母である比企禅尼の甥であり、養子である。

2011-06-15 10:53:06 | 歴史隠れ話

歴史かくれ話と今日は何の日

2006年09月02日


比企能員殺される 建仁3年(1203)

ブログ村 歴史ブログ

比企能員は、源頼朝の乳母である比企禅尼の甥であり、養子である。さらに、能員自身、頼朝の挙兵以来数々の功のあった男であり、それだけに頼朝の信任も厚く、能員の妻が頼朝の嫡子・頼家の乳母に任ぜられるほどだった。

さらに、能員は自分の娘(若狭局)を頼家の妻とし、しかも頼家の子・一幡を産んでいたから、鎌倉御家人のなかでもその地位は抜きん出ていた。

しかし、出る杭は打たれるのが世の常である。例外ではなく能員も打たれることになる。

初期の鎌倉幕府は、御家人の権力争いの激しい組織だった。力を合わせて平家を滅亡に追いやると、今度は仲間だった者同士で、一番になろうとする。頼朝もこれをまとめきらないうちに死んでしまったから、争いはますます激化していった。この比企能員殺害事件はその中でも初期に起こった事件であった。

能員を討ったのは、北条時政である。時政は頼朝の妻・政子の父親で、まさに能員と権力を二分する地位にいる男だった。もともと能員を出し抜いて、トップに立ちたいという意欲の旺盛な男であったと思われるが、都合よくその機会が転がり込んできた。

それは頼家の病である。病は重く、一時は助からないとさえ思われた。そこで、時政は早急に次の幕府のトップを決めてしまう。通常であれば、頼家には一幡という子供がいるのだから、この一幡が将軍職を継ぐのだが、北条時政は、娘の政子が頼朝の未亡人であることを利用して、関東28ヶ国の地頭職と惣守護職を一幡に、関西38ヶ国の地頭職を千幡(実朝:頼家の弟)に譲ると発表した。将軍権力を2分しようとしたのである。

当然ながら能員はこれに不満を持った。そこで、娘の若狭局を通して奇跡的に病が快癒に向かいかけていた頼家に、事の次第を訴えた。頼家もこれには怒り、ただちに時政を追討するよう命じた。ところが、これを隣室で北条政子に聞かれていた。

政子はすぐに父・時政にこのことを報告。時政は一計を案じた。「頼家の病気平癒祈願のため、名越の北条屋敷で供養を行うから参加してほしい」と能員を呼び寄せたのである。能員の子息らは、「罠に相違ありませぬ」と能員を止めたが、能員は「供養の席で罠もあるまい」と言って、出かけていってしまった。

北条屋敷で部屋に通された能員は、突然天野遠景に抱きつかれて身動きが取れなくなったところを、仁田忠常に刺し殺された。

さらに時政は、これと同時に能員の屋敷に軍勢を派遣しており、若狭局、一幡他比企一族100余名が一網打尽に殺害されたという。

⇒比企一族の墓がある妙本寺周辺の墓(livedoor地図情報)



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(キーワード)

●比企能員(ひきよしかず)

生年不詳。鎌倉時代前期の武将。通称藤四郎。源頼朝の御家人。阿波国出身。

比企能員は、頼朝の乳母をつとめ、伊豆に頼朝が幽閉されている時も傍に付き従った比企禅尼の甥であり、養子である。そして、自分も頼朝の挙兵に参加して、平家追討に尽力した。

頼朝の信頼も厚く、寿永元年(1182)10月に頼朝の嫡子・頼家が生まれると、能員の妻が頼家の乳母に任命されている。能員自身は、主に源範頼(頼朝の弟)に従って、平家追討戦で転戦した。さらに、奥州藤原氏の追討の際には、北陸道大将軍となり、出羽を平定。建久元年(1190)には、出羽で叛乱を起こした大河兼任を鎮圧した。

同年12月に右衛門尉に任じられ、頼朝の側近として大きな権力を得る。

娘・若狭局が頼家に嫁いだため、頼家の舅となり、その発言力はさらに強まったが、これを快く思わない者がいた。北条時政である。

やがて時政は、能員を除く計画を実行に移す。能員が頼みとしている頼家の病気にかこつけて、頼家の弟・千幡(のちの実朝)と頼家の子の一幡の2人へ将軍権力を分断しようとしたのである。能員は当然これを了承しなかった。

そこで、時政は「頼家様の病気平癒祈願」と称して能員を自邸に呼び出して殺害した。
比企一族は、一幡や若狭局も含めて、これに連座してのきなみ殺害されてしまったのである。


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鎌倉時代初期の権力闘争はどろどろしすぎです。特にこの北条時政ってヤツがやることえげつないんだよねぇ。下手すると、こいつさえいなければ、もう少しまとまっていたかもしれないのになあという気さえするほど。あと政子様ね。

頼朝も意外と優柔不断な面があったといいますが、とにかく政子に頭があがらない。これがいかんですよね。政子の親父の時政は、自分の家来のはずなのに、やっぱり政子の地位を利用して大きく出ようとしてくるんだから。
でも、北条一族がいなかったら幕府はどうなっていたんだろう…。