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”義民”佐倉惣五郎刑死 承応2年(1653)

2011-06-08 10:45:15 | 歴史隠れ話
歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


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2006年08月04日



”義民”佐倉惣五郎刑死 承応2年(1653)

”義民”佐倉惣五郎の話は、江戸時代に講談や歌舞伎などで広く取り上げられて、世間に広まったので、ご存知の方もいるかと思われるが、一応、あらましを紹介してみよう。

佐倉惣五郎は、本名を木内惣五郎といって、下総国印旛郡公津村の名主である。
惣五郎が33歳の時、下総国も大飢饉に見舞われたことがあった。もちろん、佐倉領も貧窮状態に陥り、そのしわ寄せは農民に回ってきた。佐倉藩の代官は、農民たちの家の財産までも搾り取るように重税を課し、さらに年貢を納められない者を怠納と称して処罰した。

この状況に、惣五郎はたまりかねて他の村の名主たちとも話し合って、代官所への怠納処分の中止を願い出たが、この訴えはむなしく取り下げられ、状況は改善しなかった。

農民たちは、飢饉の苦しみと重税に対する怒りで一斉蜂起に至ろうかというところまで追い詰められていた。しかし、一斉蜂起しても、加担者全員が死罪や永牢などの重刑に処されるばかりである。そこで、惣五郎は、御法度である将軍家への直訴を決めた。惣五郎が代表となれば、代表者への処分だけのすむであろうと考えたからである。

惣五郎は、家族に害が及ばないように、妻に離縁状を渡して江戸に出向。上野東叡山入り口の三枚橋付近で将軍家綱に直訴に及んだ。

かくして佐倉領民の願いは聞き届けられ、3年間の課税免除となったというが、ご法度を犯した以上、惣五郎の処罰は免れない。惣五郎は磔刑、妻子も死罪となった(妻子は死刑にはならなかったともいう)。領内の農民たちは、助命嘆願を行ったというが許されず、公津村の刑場で刑は執行された。

江戸時代には、他にも義民の話がいくつかある。各地の農民は飢饉のたびに飢えと重税に苦しみ、蜂起や嘆願を行ってきた。そして、そのたびに代表者が犠牲になったのである。

⇒佐倉城周辺の地図(livedoor地図情報)

※佐倉惣五郎については、過去には実在が問われたりもしたそうですが、この本の著者によって実在は証明されています。佐倉惣五郎のことをもっと知りたい人にオススメ⇒『佐倉惣五郎』。


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最後の方に書きましたが、他にもこういう話はあります。そのうちの一つがですねー、なんと『少年少女日本の歴史 立ちあがる民衆―室町時代後期』に載っています。どういう話かは読んでみてのお楽しみ。ウフフ…。でも泣く話ですよ。みんなのために犠牲になるのって実は素晴らしいことなんですねぇ。
いや、ホントこの漫画はすごい。わかりやすさ大爆発。小学生~中学生くらいのお子様がいらっしゃる方は絶対オススメ。読ませておけば、テストの点もあがりますよ!多分。


八代将軍吉宗が目安箱設置 享保6年(1721)

2011-06-08 10:41:58 | 歴史隠れ話

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2006年08月02日




八代将軍吉宗が目安箱設置 享保6年(1721)

目安箱というのは、庶民が不満や要望を直接将軍である吉宗に直訴できるという、それまでには考えられなかったシステムである。この目安箱は、将軍吉宗自らの発案で、江戸城竜ノ口評定所の門前の腰掛の上に置かれた。いわゆる「享保の改革」の一つである。

多くの庶民がここぞとばかり、不満や要望をどしどし投書しただろうと思ってしまうが、実は投書にも決まりがあって、何でもかんでも投書するわけにはいかなかった。

決まりというのは、まず第一に「政治に役立つと考えられる意見を投書する」こと。ただ「あれが嫌、これが嫌」と不満だけを書いてもダメなのだ。また、第二に「役人などの悪事・不正の通報」、第三に「訴えたはずなのに、そのまま何も変わらず、放置されている場合の通報」。しかし、投書の際は住所と氏名を明記することになっており、役人の不正通報などの告げ口は、人によっては尻込みしてしまいそうである。

とはいえ、目安箱は錠をかけたまま将軍・吉宗の前まで運ばれ、そこで開錠。必ず吉宗が最初に目を通すことになっていたというから、吉宗なりに庶民のことを考えたシステムであったようだ。(ただし、決まりを守らない投書は全て焼却されることになっていた。)

他にも目安箱は、毎月、2日、11日、21日の3日間のみ設置されることになっており、武士の投書は禁止されていたりしたが、投書を活かした改革もいくつか行われている。その代表的なものとしては小石川養生所の設置が挙げられるであろう。

養生所の設置についての懸案を投書したのは、江戸小石川伝通院前で町医者をしていた小川笙船という人物であった。彼は、江戸にいる身寄りのない人や貧困者のための医療施設を建てたいと考えたが、自分だけの力ではどうにもならず、目安箱へ投書したのである。

この投書を見た吉宗は、さっそく意見を取り上げ、町奉行大岡越前(忠相)に設置の検討をするよう命じた。大岡越前は、投書した小川笙船と何度か話し合いながら、計画を進め、ついに小石川養生所の開設に至ったのである。

他にも、江戸は火事が多いので、街割りごとに江戸市中の防火方針を定めたり、上総と下総に新田開発可能な土地があるということで、さっそく調べさせてそれを発見し、新田開発にとりかかったというような例もある。また、目安箱は「庶民の意見を聞く」というもともとの目的以外にも役立っている。役人たちが「庶民に自分のことを投書されたら処罰されてしまう」と恐れていたらしい。つまり綱紀粛正に役立っていたわけである。

しかし、目安箱の設置で必ずしも庶民の不満が取り除かれたわけではなく、設置当初こそ採用されるような建設的な意見もあったが、以降はあまりいい意見は挙がらなかったようである。しかし、制度自体はその後も続けられ、京都、大坂、駿府、甲府などにも目安箱が置かれていた。

ちなみに目安箱は、吉宗が和歌山藩主だった時代にも和歌山城の門前に置かれていたという史料もあるが、これは事実かどうか疑わしいという。


※写真は『吉宗と享保の改革』。「享保の改革」と将軍吉宗がよくわかる入門編としても適当な本です。エピソードまじりでそれなりに読みやすいですよ。

※目安箱については、やはり研究本『目安箱の研究』です。かなり細かく研究されています。使用史料も豊富。クソ高いので、目安箱にかなり興味のある人向きかもしれないですが、全部通しで読んでみたい本ではありますね。(私はパラパラ立ち読みしただけです…。)


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(キーワード)

●享保の改革(きょうほうのかいかく)

江戸徳川幕府八代将軍、吉宗が行った改革。
年貢の取り立て法を検見法から、定免法に改め、目安箱の設置や、足し高の制の制定、上米の制、また、公事方御定書を作らせるなど、新感覚の政治に富んでいた。
この改革は吉宗自身の質素倹約の志も功を奏し、一時的に幕府の財政の建てなおしに成功した。


(まめちしき)

●定免法(じょうめんほう)

年貢の取り立て方の一種。江戸時代に用いられた。
一定の率を決めて、毎年、その分だけ取り立てるということ。例えば、年貢率を4割とすると、その年にとれた米のうち4割を年貢として納める。豊作の年は例年並の年より、多く農民の所に残るってことだね。これが、検見法だと、その年の豊作・不作によって、年貢率が変わるのだ。ちなみに定免法の場合、不作の場合も、年貢率は一定なの?という疑問が出るが、不作の場合は貸し付けを行ったりするので、心配はいらないらしい。
でも、その場合は、もともと貧しい人たちには、やはり重税となるってこと…?…合掌。


●足高の制(たしだかのせい)

享保の改革の政策のうちの一つ。能力のあるものならば、その身分よりも高い職でも与え、その職についている間は給料もあがるよ、という制度。
幕府の役職につくには、能力もそうだが、ある程度の地位が必要で、そのために、能力のあるものが、高い地位につけないような事態もあったため、これの改善を狙った。これも概ねは成功したといえ、町奉行の大岡越前守忠相も、この足し高の制で、取り立てられたクチ。


●上米の制(あげまいのせい)

享保の改革の政策のうちの一つ。幕府が米不足のために、一万石以上の各大名に百石の米の差出を命じた政策。代わりに、参勤交代の江戸在府期間が半年になる。
多少おいしいだろうが、江戸まで行き来するための交通費は、今まで通りにかかるので、手放しで喜んでいる場合ではない。どうせなら、「江戸にこなくてもいい!」、とか「交通費支給!」の方がウケがよかったかもしれない。


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目安箱は、最初は「訴状箱」と呼ばれていたそうですね。そのまんま…。あまりにひねりのない名前…。「訴状箱」だと、役人の不正の告げ口はしづらさがアップするなあ。だから「目安箱」なんていう当たり障りのない名前に変えたのかな…。

吉宗の改革は、成果のないものもあったそうですが、結果的には傾きかけた幕府財政を一時的にとはいえ立て直したそうです。この将軍様自らの「質素倹約」の志…。この志を赤坂にドカンとでかい議員宿舎建てて、家賃6~7万で入ろうとしている国会議員に特に見習っていただきたいですな。内閣府のHPにメールで投書しよかな…。

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2011-06-08 10:38:25 | 今日は何の日

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2006年08月01日


筑紫国造磐井が反乱を起こす 継体天皇21年(527)

「筑紫国造磐井の乱(つくしのくにのみやつこいわいのらん)」と言っても、あまり知られている事件ではないので、多くの方にとってピンとこない事件ではないだろうか。

この乱は、聖徳太子の時代よりもさらに古い、527年に起きている。当時の日本は、いわゆる「古墳時代」で、各地の有力豪族たちが勢力を広げようとして、中国などの力を借りて争っていた。

争いは大王の跡継ぎを巡ってのものとなったが、やがて勢力を伸ばしていた越の国(当時の北陸地方の国)の男大迹王(おおとのきみ:継体天皇)が大和朝廷の大王として大和に迎えられる。これでひとまず、国内の混乱は終息したように見えた。

ところが、ここで朝鮮半島に重大な変化が訪れる。中国との貿易などで関係の深かった朝鮮半島南部の伽耶(伽羅ともいう)が、隣国の新羅に攻められ危機的状況に陥ったのである。

男大迹王は、ただちに援軍を派遣して、新羅を討つことを決定し、近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)という人物に命じて、軍隊を派遣したが、さらに九州北部で強い勢力を持っていた筑紫国造磐井にも兵を出すよう命令した。しかし、この命令に磐井が反抗。筑紫の隣国である火(肥)の国(熊本県あたり)や豊の国(福岡県あたり)に援軍を頼んで、大反乱を起こしたのである。

磐井は手始めに進軍してきた近江毛野臣の軍を攻撃し、大和朝廷の新羅進攻軍の進軍を阻んだが、これを知った大和朝廷も黙ってはいない。大和朝廷では、大王自ら物部麁鹿火(もののべあらかひ)に磐井を討つための斧鉞を与え、彼を磐井討伐軍の総大将とした。麁鹿火はただちに軍勢を率いて筑紫に出向。磐井の軍と激戦を繰り広げた。

磐井の乱は一年半の長きに渡って続いたが、継体天皇22年(528)の11月、筑紫御井郡で磐井と麁鹿火は最後の決戦に及んだ。ここでとうとう磐井は討ち取られてしまう。斬殺だったというが、一説には磐井は落ち延びたとも伝えられ、真相は不明である。ちなみに磐井の子である葛子は、筑前糟屋の屯倉を大和朝廷に差し出して、死罪を免れた。

なお、『日本書紀』などによると、磐井の乱は、以前から大和朝廷に反抗的だった磐井が、やはり以前から新羅の援助を受けており、この時、大和朝廷の軍勢が新羅を攻撃することを決めたことを受けて、新羅が磐井に進軍を食い止めて欲しいと依頼したものであるともいう。つまり磐井と新羅はグルだったということだ。
日本書紀の記述は、歴史書としては伝承的な部分も多いが、磐井は生前から自身のためのものと思われる巨大な古墳を築いたりしていたので、ありえる話ではあるだろう。

※この乱の勃発日については別説もあります。

⇒磐井の墓と伝えられている岩戸山古墳周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は『筑紫君磐井の戦争―東アジアのなかの古代国家』。多くの文献にあたっている本格的な研究書です。


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(キーワード)

●筑紫国造磐井(つくしのくにみやつこいわい)

筑紫磐井、筑紫君石井ともいう。「筑紫国造」は、大和朝廷の職名。要するに地方政治を委任されている豪族ということである。

経歴については詳細はわかっていないが、継体天皇の新羅討伐軍参加への命令を拒否して反乱を起こし、約一年半に渡って大和朝廷軍と戦ったことがよく知られている。最終的には物部麁鹿火に討たれて斬殺されたようだが、落ち延びて姿を消したとも言われている。

「筑後国風土記」の逸文には、磐井が生前から巨大な墳墓を築いていたという伝承が記載されており、そこには石づくりの埴輪が並べられていたという。このことから、磐井はこの地に絶大な勢力を誇っており、かねてより大和朝廷に反乱を起こすことを目論んでいたとも考えられる。なお、この墳墓は現在の岩戸山古墳ではないかとされている。


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教科書では、「磐井が反乱を起こした」程度にしか習わないですよね。乱があったことは知っていたんですが、その中身はさっぱり…。今回調べてみて大まかなところはわかりました。

しかし、もし磐井が勝っていたら、日本の天皇制が揺らいでしまうのか…と思いましたが、磐井は磐井で応神天皇の子孫を名乗っていたそうです。一応、血のつながりはあるってことで、劇的な変化はない…のかな?