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細川勝元が三度管領職につく

2011-06-03 11:39:07 | 今日は何の日

2006年07月10日




 応仁2年(1468)

1468年といえば、誰もが学校で習う「応仁の乱」勃発の年の翌年である。この年、勝元は管領職につくことになる。勝元が管領職につくのは、実はこれが3回目で、過去2回は、文安2年(1445)に16歳で就任し、宝徳元年(1449)まで。さらに享徳元年(1452)11月から寛正5年(1464)まで管領を務めていた。

時の将軍足利義政は、政治をほとんどかえりみず、屋敷の建築や美術工芸品の収拾などばかりに精を出し、その妻の富子も金儲けのことばかり考えている有り様だった。義政にはこの時、男子がいなかったので、出家していた弟を還俗させて、義視と名乗らせ養子とし、次期将軍とした。この後見人にあたったのが細川勝元である。

ところが、その翌年に富子が男子(のちの義尚)を出産。富子は何としても生まれてきた我が子を次期将軍にと、山名宗全に強力を求めた。宗全は、1441年の嘉吉の乱で赤松氏討伐に多大な功を挙げ、8ヶ国の太守となっていた守護大名で、かつては勝元と協力体勢をとっていたが、斯波氏の内部争いに介入した際、山名氏のさらなる権力拡大を危ぶむ勝元と対立するようになった。

当初は、この将軍家の跡継ぎ争いは激化するものと見られたが、文正元年(1466)、勝元に強力していた政所執事伊勢貞親が、義視を排斥し義尚の擁立に回った。勝元はただちに義政に働きかけ、貞親を放逐したが、宗全はこれを機会に権力強化しようともくろみ、今度は管領畠山政長を出仕停止にし、かわってかねてより支援していた斯波義廉を管領に据えた。

この動きに、勝元も黙っておらず、軍勢を集めて上洛。義政を擁して、応仁元年(1467)5月26日早朝、山名方を攻撃し、ついに応仁の乱の火蓋が切られることになるのである。

勝元はこの大乱の続く中で3度目の管領に就任。1473年に死没するまで管領職を務めた。勝元の通算管領就任期間は21年に及ぶ。

⇒応仁の乱勃発地の碑がある上御霊神社周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は小学館版学習まんが日本の歴史9巻。(『立ちあがる民衆―室町時代後期』)応仁の乱は、権力関係の点などが、冗談抜きでややこしいうえに良書が少ないのですが、これはさすがに小学生向けなのでわかりやすい。内容もしっかりしており、バカにしたものではありません。小学生くらいのお子様がいらっしゃる方にはオススメですよ。
日本史好きな方や、学校で習ったことくらいはある程度覚えているという方は『山名宗全と細川勝元』を読むと、応仁の乱がよくわかります。多分。


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●細川勝元(ほそかわかつもと)

室町中期の武将。幼名聡明丸。持之の子。
文安2年(1445)に、わずか16歳で管領となった。以後、三管領の回り持ちで管領職を務めたため、就任は3回に及ぶ。

嘉吉の乱の時に赤松氏討伐に功のあった山名宗全の女婿となって、畠山氏の内訌に介入。宗全と共に政長を支援して、義就の追放に一役買う。このように、当初は、宗全との強力体勢をとることによって、権力の拡大をはかっていたが、やがて山名氏の勢力拡大を危ぶみ、これを阻止しようと策動するようになる。

勝元は、政所執事であった伊勢貞親と組んで、赤松氏を再興させたり、斯波氏の内訌に介入して、宗全の支援する義廉と対立していた義敏を支援したりした。また、将軍家でも家督争いが発生すると、勝元は8代義政の弟・義視を支援し、宗全は義政の子である義尚を支援。ここでも対立の根は深まった。

ところが、結んでいたはずの伊勢貞親が義視を排斥し、義尚をたてた。これにより、勝元はただちに義政に働きかけて貞親を放逐させる。ここで、宗全は一気に権力を握ろうとかねてより支援していた斯波義廉を管領にしたため、勝元もいよいよ危機感を募らせ、軍勢を集めて入洛。義政を擁立して、山名氏に対して攻撃を仕掛けた。これに山名氏も応戦したことから応仁の乱が始まる。

有力な守護大名たちは、細川、山名のいずれかにつき激しく争い、京都は灰燼に帰すことになったのである。しかし、決定的な決着をみることなく、山名宗全は文明5年(1473)に没。続いて勝元も同年5月に没した。享年44歳。

応仁の乱の戦火は全国各地に広がり、国人層の台頭を招いた。これ以降、諸国は弱肉強食の戦国時代の様相を呈してくるのである。


●管領(かんれい)

室町幕府の役職。将軍を補佐して幕政を統轄する。最初は執事と呼ばれる役職だったが、2代将軍の足利義詮が斯波義将を任命した際、「管領」と改められた。
基本的には足利一族である細川・斯波・畠山の3氏が交替で役職にあたったので、「三管領」と呼ばれる。


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メインの話題は細川勝元が3度目の管領職に就任したことなのに…応仁の乱の記事みたいになっちゃった。いえね、勝元というと応仁の乱のことしか知らなかったし、応仁の乱のイメージしかないんですよ。だから…。

なんか調べてみたら、応仁の乱に至るまでいかに宗全と対立したかって感じだったので、まあ勝元といえば応仁の乱ってことでいいんじゃないでしょか…。ダメ…?…デ、アルカ…。

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日本惣船印にいわゆる日の丸を採用 

2011-06-03 11:28:05 | 今日は何の日

2006年07月09日




日本惣船印にいわゆる日の丸を採用 嘉永7年(1854)

幕府は開国後、大船建造禁止令を撤廃し、諸外国に洋式帆船や軍艦の建造を発注した。これにより、幕府としても「日本国」の証である旗を掲げる必要が出てきた。そして、この日、老中阿部正弘が採用したのが、現在の日の丸である日章旗である。

この日の丸は、日本では古くは697年~707年在位の文武天皇の時代、元旦の朝賀の儀式の時に、似たようなデザインのシンボルを用いていたという。そして、源平合戦や戦国時代などを代表する戦乱の時にも旗印として用いられていた。また、初めて外征を実行した豊臣秀吉が朝鮮征伐軍の船に掲げていたのも日の丸だったという。

嘉永7年のこの時に、日の丸を惣船印にすることを主張したのは、薩摩藩の島津斉彬であるという話は割と有名らしいが、斉彬がそれを主張したのも、島津家が、豊臣秀吉の外征以来、江戸時代を通して自国船に日の丸をつけており、薩摩といえば、「丸に十字紋(島津家家紋)か、日の丸か」というくらい日の丸=薩摩・島津のイメージであったからだとも言われている。

だから、実は、幕府内には日の丸採用反対論もあった。しかし、阿部正弘は、幕府のご意見番・水戸藩の徳川斉昭に相談し、斉昭が賛成であったことから、日の丸採用を決定したのである。

蛇足であるが、幕府は、後の戊辰戦争でも日の丸を掲げた。天皇家の錦旗を掲げる新政府軍は日の丸めがけて砲撃し、日の丸を踏みつぶして新政権を確立したのである。しかし、後日、明治政府もこの日の丸を使用した。明治3年(1870)には、寸法も決めて、商船旗として定めたのだった。

※写真はこの話しが載っている『風雲児たち 幕末編 7 (7)』。この漫画はマジでオススメ。けっこう細かいことまで史実に忠実なのに、基本的にはギャグ漫画。絵もそれなりに肖像画を意識しつつもギャグ調。特に30代くらいの人には笑えるギャグネタが多めです。ついでに江戸時代を学校で習っている学生諸君にもオススメよ。今は幕末編で9巻まで出ていますが、これの前身『ワイド版 風雲児たち 全20巻』もイイ!!


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今日は江戸時代中期の出来事・荻原重秀の貨幣改鋳というネタもあったんですが、詳しく調べないとよくわからないので、途中でやめてこっちのネタにしました。こっちのネタは『風雲児たち 幕末編 7 (7)(AA)』。に載っていて知っていたもので(笑)。

広く日本の国旗として後世に残ることを考えると、この時の決定が決め手となたというのは、感慨深いものがありますな。

…という記事を更新した気になっていたら、下書き投稿になってた…。ブログやってる皆様、更新後の確認は毎回した方がいいですよ。…え、当然毎回してるって?あ、じゃあ問題ないです、はい…。

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豊臣秀吉の刀狩り令が発布される

2011-06-03 10:59:30 | 今日は何の日

豊臣秀吉の刀狩り令が発布される。 天正16年(1588)

戦国時代は、全国各地で戦国大名による領土争いが起こった時代であり、農民たちも自衛の手段として、また、領主の苛烈な取立てに抵抗するため、武器を所持していることが多かった。そして、武士は武士で、農民たちの徒党を組んだ反抗=一揆に悩まされていたのである。

そこで、支配者層である武士が、被支配者層である農民から武器を取り上げる政策が「刀狩り」である。
武士たちの考えは、「農民たちは農業に従事していればよい」というものであったことは明白で、農民から武器を取り上げることで、より支配体制を強固なものにしていったのであった。

であるからして、この「刀狩り」は何も豊臣秀吉が始めて行った政策ではない。古くは土地ごとの領国分割統治体制が確立された鎌倉時代にはもうすでに行われていたという。

戦国時代にも行っていた大名はおり、秀吉と同じく織田信長に仕えていた柴田勝家なども刀狩りを実行していた。刀狩りというと、豊臣秀吉のものが有名であるが、それは、秀吉の刀狩りが天下人として行った政策の一つであったからであろう。

秀吉の刀狩りは、いろいろ理屈っぽい文句が並べられて発布されている。例えば、「農民が刀を持って支配者層に反抗し、成敗されるようなことになれば、田畑不作の原因となる。」とか、「差し出された武器は、今度の大仏建立の材料とする。武器を出せば現世でも来世でも幸福になれるぞ」とか、「農民は農業に従事することで、子々孫々まで栄えることができる。であるから、これは農民が農業に専念できるようにという、お上(秀吉あるいは支配者層)のはからいなのだ。」などなど。おどしたり、安心させたり、恩着せがましく言ってみたり…。特に、農民たちに納得させようとしたのか、わざわざ「集めた武器は大仏建立の材料にする」と言っているあたりは秀吉らしい人心掌握術と見ることができる。

秀吉は、農民出身の割には農民からはできるだけ自由を奪おうとしたような一面があり、この刀狩りもそうだが、農民が田畑を捨てて出稼ぎしたり、内職をしたりすることも禁じた。しかし、これにより、「普段は農業に従事し、合戦時には武器をとって兵士となる」という半農状態が見直され、兵農分離が進んだことは言うまでもない。
ちなみに、刀狩りには不満を持つ者も多く、武器を隠し持つ農民もいたらしい。

※写真は、豊臣秀吉のことがよくわかるおなじみ『歴史群像シリーズ戦国セレクション驀進豊臣秀吉―日本一の出世人』。例によって、写真や図も豊富でいい本です。入門編として最適。
『兵農分離と地域社会』という、兵農分離のことをピンポイントに研究したズバリな本もありました。ただクソ高い。専門的な知識を欲する、セレブたちにオススメ(笑)。


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●兵農分離(へいのうぶんり)
戦国末期~江戸初期に、武士は武士、農民は農民と身分をはっきりと区別した政策。またはその一環の流れ。武士による支配体制を確立するために少しづつ構築されていった。

戦国時代の武士は、屋敷に部下を雇い、普段は農業や開発に従事させ、また、領内に住む百姓を統治した。しかし、ひとたび合戦となれば、彼らを従者として、自領の石高に見合った主君への兵役の義務を果たすべく出陣するものであった。この基本的なシステムを変えようとしたのが、織田信長である。

信長は、家臣を城下及び城内に屋敷地を与えて集住させ、また、商人や職人も城下町に集めた。必然的に農村部は都市部とは分けて支配していくことになったのである。

ここで、さらに豊臣秀吉が、そのシステムをさらに押し進め、刀狩りや検地を行う。刀狩りで、農民たちの戦闘力を奪い、検地で、土地の所有者と支配者を明確にしたのである。秀吉はこれに加え、極めつけとして、天正19年(1591)に身分統制令を発布し、農民から自由を奪い、支配者層と被支配者層の揺るぎない身分差を確立した。

江戸時代は、この体勢を引き継ぎ、士農工商などとさらに明確な身分制度を作って、幕藩体制の構築に利用している。


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兵農分離については、もっと細かい説明の方がよりシステムが明確になるんですが、わかりにくいし、うまく書く自信がないので、上の記事で許してください。兵農分離ってのは、だいたい上の記事のようなもんなんで…。

しかし、秀吉は農民出身のクセに、「農民は農業に従事することで子々孫々まで幸せになれる」なんてどういうことだ!じゃああんたも農民続けてたらよかったじゃない!…と一瞬思ったんですが…、秀吉の子・秀頼は徳川家康に攻められて、1615年に豊臣家滅亡してます!…うーむ、たしかに農業に従事しなかった農民(秀吉)の家は子々孫々まで栄えなかったなあ…。当たってる…。