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2011-06-07 17:49:34 | 今日は何の日

歴史のウラ話&「今日は何の日」です!

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2006年07月30日


明治天皇崩御 明治45年(1912年)

明治天皇は在位1867.1.9~1912.7.30。45年という長期間在位した近代国家形成期の天皇である。

名を睦仁といい、孝明天皇の第二皇子であった。1860年に親王となって、先代孝明天皇の急死により1867年に践祚して皇位を継承した。江戸幕府の大政奉還は1867年の10月だから、幕末期も経験している天皇なのである。

歴代天皇中、唯一「大帝」と呼ばれる天皇で、ちょうど日本が近代国家として生まれ変わろうとする激動の時代の君主となった。明治天皇は、よく「大政奉還により、政権は天皇に返還され、明治新政府も天皇を頂点とした行政改革を進めたはずであるから、明治天皇は専制君主だった」…と思われがちだが、実際はそうではない。一言で言ってしまえば、基本的には明治維新に功のあった、政府の元老たちがほぼ全ての政治的、外交的、立法的決定を下していたのである。

ただし、これらは明治政府が天皇をないがしろにしていたということではなく、政府および政策・外交が、危機的状況に陥れば天皇が調整していた。特に、松方正義内閣は首相の松方自身が、望まないままに総理大臣の椅子に座ったこともあり、実に危機的状況に陥ることが多かったという。松方内閣は、第一次政権時に、選挙干渉問題で窮地に追い込まれ、松方も辞意を表明したが、この時は天皇に止められた。

結局は薩長首脳の圧力で退陣することになるのだが、少なくとも、最終的には天皇が政府の問題の調整をするということが見てとれる。また、松方内閣は、第二次政権の際にも政党事情から閣内での連立政権の画策などの迷走状態となり、天皇は混乱の元となっていた高嶋陸相と樺山海相と共に松方にも退陣するよう命じている。

天皇の指示による退陣は、この他に昭和4年(1929)の田中義一内閣の退陣があるが、後にも先にもこの2回だけであった。

明治天皇は、国の元首であり、統治権の総攬者とされ、陸海軍の統帥権や文武官の任免権、外交権などあらゆる権利を網羅していたが、実際の決定は政府が下していた。しかし、明治天皇も政治にまったくノータッチだったわけではなく、むしろ政府の先行きに関わる重要な場面での決定は明治天皇が下していたことも多いと言えそうである。

なお、明治天皇は1894年からの日清戦争時にはその軍隊の統帥権を発揮し、広島に置かれた大本営に移って、国務・統帥にあたっている。
明治45年(1912)7月29日、尿毒症によって崩御。ただし、宮内省からの正式発表は30日であったとされる。9月13日大葬。

文明開化のシンボルともされるが、写真などは嫌いで、明治天皇を写した写真も数少ない。

⇒明治天皇陵(伏見桃山御陵)周辺の地図(livedoor地図情報)
⇒明治神宮周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は『明治天皇―幕末明治激動の群像』です。私は読んだ事ないですが、天皇家から見た幕末・明治の時代の本みたいですね。面白そうですね。

※『明治大帝』は、明治天皇について非常に詳しいのでオススメです。ある程度の予備知識がある人にもオススメ。


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(補足情報)

●明治天皇の趣味

趣味とまで言えるかどうかになるとそうでもないのかもしれないが、薩摩琵琶を好んで弾いておられたという。また、犬や馬が好きであられたらしい。
一方で、西洋文化は好まず、写真はもちろん、電灯も嫌ったといわれる。


●誕生日が文化の日

明治天皇の誕生日は5月3日。文明開化のシンボルといわれたため、現在も5月3日は「文化の日」として、国民の祝日に指定されている。

明治天皇は、それまでの天皇に比べれば、はるかに多くの土地を巡幸しておられるが、国民との接点は相変わらず少なかった。それでも、明治という時代は、それまでの武家政権とは根本的に異なるものであり、国民は国家の君主たる天皇を尊敬し崇めた。

それゆえに、明治天皇が崩御された後、明治神宮が創建されたり、明治天皇の誕生日が国民の祝日に指定されたりしたものと思われる。

それまでの長い武家政権から、近代国家への第一歩を踏み出した時代の国家君主たる明治天皇への敬慕の念は、日本人の心に深く刻まれていたことであろう。


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明治天皇は、大変な時代の天皇陛下だと思います。何しろ、根本的な改革の時期ですからね。
明治維新~日清・日露戦争くらいの時代までは新しい日本づくりに大変だった時代です。その時代に日本のトップとして尊崇される立場にいるんですから大変ですよね…。政府の混乱時にきっちり指示を出している点など今でも尊敬します。

昔は勲章みたいのがたくさんついた大元帥服を着て髭を八の字型に生やした明治天皇の肖像を怖いと思ったものですが…いやー当時は私も子供でした…。

パリの凱旋門が完成 1836年(天保7年)

2011-06-07 17:37:52 | 歴史隠れ話
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2006年07月29日


パリの凱旋門が完成 1836年(天保7年)

フランスはパリといえば、シャンゼリゼ通りとエトワール広場(現在はシャルル・ド・ゴール広場という)の凱旋門が有名である。

この凱旋門は、フランスの英雄・ナポレオンが、1805年のアウステルリッツの戦いの勝利の翌年に、パリを世界一の都市にしようと、記念碑的建造物を数多く立てようとしたうちの一つだそうで、現在もシャンゼリゼ通りの西の端にある。

高さは50メートルもあり、四面には精細なレリーフが施され、そのなかにはローマ皇帝を模したナポレオンのレリーフもある。また、凱旋門は屋上に登ることもできる。入門料を支払って、中に入ると螺旋階段があって、そこを登って屋上に行けるらしい。(頂上からの眺めなど、写真は他の多くの旅写真掲載サイトが掲載されているので、グーグルで「凱旋門」をキーワードに検索すれば、いろいろ見ることができます。)

ところで、この凱旋門、ナポレオンが命じて起工したのだが、ナポレオン存命中には完成しなかった。ナポレオンは、1813年にドイツのライプツィヒの戦いで破れた後、反フランス連合軍のフランス侵入を招き、1814年の3月まで各地で連戦したが、ついに3月31日にパリを奪われ、4月にはエルバ島へ追放されてしまった。このため、工事も中止されてしまったのである。

ナポレオンは、その後エルバ島を脱出し、テュイルリー宮に帰還。兵を集めて再起をはかる。しかし、ワーテルローの戦いでまたしても反フランス連合に敗北。俗に言う「ナポレオンの百日天下」で、今度はセントヘレナ島へ追放となった。そして、同地で1821年5月5日に死去した。

しかし、ナポレオンの死後にこの凱旋門工事は再開される。1825年、ブルボン家のシャルル10世が工事を再開。そして、1836年、オレルアン家のルイ・フィリップの復古王政の時代に完成を見た。

ナポレオンは、1840年に遺骨を祖国移送され、その際にこの凱旋門をようやくくぐったという。なお、ナポレオンの遺骨は遺志により、アンヴァリッドに安置された。

※写真はナポレオンのアルプス越え…のパズル。⇒『1000ピース ナポレオンのアルプス越え』。完成させる楽しさと飾る喜びをあなたに(笑)。

※ナポレオンの本は『ナポレオン言行録』や、『ナポレオン―英雄の野望と苦悩〈上〉(下巻もあります)』などが詳細に記述されていてオススメです。

※あと、海外旅行に無料で行ける極秘マニュアルなんてのがあるようです↓




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あ、二日連続で外国史ネタに…。日本ネタもあるにはあったんですが…微妙に興味を惹かれなかったので、むしろ興味を惹かれた凱旋門完成を採用してみました。

ナポレオンについてはよく知らないですが、調べてみると面白そうですね。登りつめたのに没落してしまうということだけ知ると、「間に何があったんだ!」というのが気になります。

詳しく知りたいけど…ややこしいことはわからんぜよ…。

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第一次世界大戦勃発 1914年(大正3年)

2011-06-07 17:31:29 | 歴史隠れ話


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2006年07月28日


第一次世界大戦勃発 1914年(大正3年)

第一次世界大戦の直接の原因は「サラィエボ事件」というオーストリア皇太子の暗殺事件であった。

サラィエボ事件については、よろしければ、後記の「キーワード」を参照していただければと思うが、ともかく、皇太子を殺されたオーストリアはおさまらない。オーストリアは、スラブ主義の中心にもなっていたセルビア国を訴えた。

サラィエボ事件が、セルビア人学生による犯行とはいえ、国の方針、指示などではなかったようだが、オーストリアは「セルビア国政府は、陰謀へ加担したか、もしくは陰謀を知っていて見逃した」と主張。セルビア政府に反オーストリア民族運動の弾圧と、オーストリア政府が事件の犯人である学生の裁判に関与することなどを要求した。

しかし、これだけでは世界規模の大戦にはならない。世界規模の大戦になるに至るまでに、もっと強力な軍事力をもった国家が関与してくるのである。それがドイツとロシアであった。

当時のドイツは、ロシアの動きに注視しながら、さらに領土拡大の機会を狙っていた。ドイツは、事前にこのセルビアへの要求内容を知らされていたものの、ロシアは関与してこないであろうと楽観視して、安易にオーストリア支持の声明を出してしまっていた。

そして、ドイツの支持を得られたオーストリアも、セルビアに対してますます強気になり、セルビア政府がほとんどの要求を呑んだのにも関わらず、7月28日にセルビアに宣戦布告した。

ところが、ここにきてロシアが動く。なんとロシアはセルビアを支持して参戦してきたのであった。この動きを見て、ドイツも参戦を決断。まずは、8月1日にロシアに宣戦した。さらにドイツは、かねてより考案していたシェリーフェン・プランという方針を実行に移した。
これは、東のロシアと西のフランスと同時に撃破していこうとする二正面作戦である。わざわざ二正面作戦にするのは、フランスがロシアと同盟をしているため、そういう方針をとらざるを得ないからだったらしい。

ともかく、ロシアに宣戦したドイツは、フランスも攻撃するべく、永世中立国のベルギーに侵攻した。すると、今度は、そのドイツのベルギー侵攻に対して、イギリスが異議を唱えて参戦。

さらに、こうしたヨーロッパの混乱を見ていた東洋の島国・日本もアジアのドイツ領を占領しようと8月23日にドイツに宣戦した。ここに至って、二国間の問題であったはずのサラィエボ事件は、ついに世界大戦に発展したのである。

しかし、もともとバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」などと呼ばれ、一触即発の状態であったようであるので、導火線に火をつけた以上は、大規模な戦争となることは時間の問題だったのかもしれない。

※写真は『写真が語る第一次世界大戦』大型本なので、本としては見にくいことは見にくいですが、タイトルどおり図や写真が豊富でわかりやすくなっています。その臨場感は博物館にいるが如し!

※ちなみに私は、↑は持っていないので、今回は『世界史100の大事件―これだけは知っておきたい!』を参考にしました。こちらも世界史全般が好きな人にオススメ。


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(キーワード)

●サラィエボ事件(さらぃえぼじけん)

一言で言えば、「第一次世界大戦の引き金となったオーストリア皇太子暗殺事件」である。

サラィエボ事件は、文字通りボスニアの首都・サラィエボで起こった。1914年の6月28日、このサラィエボの地で行われたボスニア駐屯オーストリア陸軍の大演習の閲兵に来ていたオーストリア皇太子夫妻が、隣国セルビアの学生にピストルで撃たれて死亡したのである。

皇太子夫妻は、閲兵を終えた後、市役所へ表敬訪問に向かう途中に爆弾を投げつけられており、この時は、夫妻には大事なかったものの、従者や民衆に死傷者が出たため、病院に見舞いに向かおうとしていた途中だったという。犯人のセルビア人学生は、「黒い手」という反オーストリア民族運動の秘密結社の一員だった。

この反オーストリア民族運動の発生源は、スラブ系民族の糾合(スラブ主義)を目指したところからであるらしい。要するに、オーストリアがバルカン半島のボスニアを占領したことが、他民族国家の流入ということになり、反発を招いたのであろう。


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厳密に言うと、7月28日の時点では、オーストリアがセルビアに宣戦布告しただけなので、まだ「世界大戦勃発」ではないんですが、この後、わずかな期間で一気に世界大戦になっていくので、これを持って「世界大戦勃発」としました。まあ、そんなようなもんでしょう。

しかし、一際妙な動きを見せているのがやはり日本ですよねぇ。まあ混乱に乗じて、ドイツを叩こうというのは、よくいえば「機を見るに敏」なのでしょうが、ヨーロッパの混乱にも首を突っ込むなんて、でしゃばり野郎のような気もする…。
当時の日本は、20年前の日清戦争、10年前の日露戦争では、要所要所で、それぞれ手堅い勝利を治めて、有利な講和をしているから、ノリノリのイケイケだったんですかね。

平家一門都落ち 寿永2年(1183)

2011-06-07 17:25:05 | 歴史隠れ話

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2006年07月25日


平家一門都落ち 寿永2年(1183)

栄華を誇った平家一門が木曾義仲によって京都を追われたのが、寿永2年のこの日であった。平家は再起をはかるべく、西国に落ちていったが、源氏の勢いはやむことなく、この2年後に源義経によって、周防国(山口県)の壇ノ浦で滅亡するのである。

平家都落ちについては、この2年前に死亡した平家隆盛の立役者・平清盛が死ぬ前からすでに前兆が見られていた。「平家にあらずんば人にあらず」とまで驕り昂ぶる平家を憎む者は多く、各地で反平家の挙兵が相次いでいたのである。そして、その中には以仁王の令旨を受けた源氏も含まれていた。

その源氏の中で、いち早く頭角を現したのが、木曾義仲である。義仲は、越中(富山県)の国境にある倶利伽羅峠で、追討軍の平惟盛を破ってから俄然勢いづき、じわじわと京都に迫っていた。

そして、寿永2年(1183)の7月23日になって、いよいよ事態は緊張し始めた。義仲の軍勢は、丹波路や大和方面、比叡山などをおさえ、都を囲むようにして迫っていたのである。平家は、平知盛、重衡ら3千騎を勢田方面、平忠度が1千騎を率いて淀方面へ出陣したが、もはや焼け石に水であった。

清盛の死後、平家の棟梁を継いでいた宗盛は、義仲の動きの報せにすっかり戦意を喪失してしまい、あっさりと京都を捨てると言い出した。平家一門の中には反対する者もいたが、ここにきて、またしても平家にとって予想外のことが起こる。24日になってから、平家が担ぎあげていた後白河法皇が、数人の共を連れただけで鞍馬方面へ逐電してしまったのである。

この影響もあって、ついに平家一門は、京都を捨てて西国へ落ちていくことになった。平家がいなくなったため、義仲はゆうゆうと入京。最初は喜ばれたが、義仲の軍勢もしょせんは田舎から出てきたあらくれ集団に過ぎず、京都の民衆に散々乱暴を働いたらりしたので、評判は悪かったという。


※写真は初心者にもオススメ…というか初心者にオススメの古典「平家物語」本『ビギナーズ・クラシックス 平家物語』。「ビギナーズ」ですから、内容もわかりやすくなっています。原文の読み下しもついてますが、訳文が先に載っているので、訳文とコラムだけ読んでも充分平家物語の世界を味わうことができます。「平家物語」に興味を持ったら、まずは読んでみるのもいいと思います。


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平家は「かむろ」というおかっぱ頭に赤い服を着た少年スパイを町に放って、平家の悪口を言う者を処罰したそうですね。そこまでするなら、悪口聞いて我がフリ直せよ…と思いますが…(笑)。まあ、そんなだから結局没落しちゃうんでしょうかねぇ。

義仲も相当評判は悪かったようです。兵士たちはやりたい放題。義仲は義仲で、ろくに作法を知らないで公卿に会うもんだから、「ド田舎の無礼者」扱いだったようですね。いやー、まともなヤツいないですなあ…。(←当時の京都人の心の叫び)


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zuihitu at 03:33│トラックバック(0)│「今日は何の日?」平安時代
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コメント一覧


1. Posted by 35式 2006年07月27日 22:53

平家の栄華も案外短い運命でしたね。
武家なのに貴族化したのが原因なのかなと思います。
その点、頼朝は都から離れた鎌倉に本拠を構えて武家政権であることを明確にアピールしたのはエライと思います。
もっともそんな彼の血筋はすぐに絶えちゃうわけですが・・・。
難しいものです。

2. Posted by ぴの 2006年07月28日 20:19

>35式様
源平の時代は、やっぱり初の武家政権ということで、舵取りが難しかったんですかねぇ。部下が力を持ちすぎているのも考え物だし…。でも、こういう先人たちの経験が、後世になって一つずつ活かされていくんですね。
「はじめての」がつく功績を残した人はやっぱりすごいですよね。

小山評定は、この年9月の関ヶ原の合戦に関わってくると言っていい、重大な評定であった。

2011-06-07 17:11:52 | 歴史隠れ話



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2006年07月24日


小山評定 慶長5年(1600)

小山評定は、この年9月の関ヶ原の合戦に関わってくると言っていい、重大な評定であった。

徳川家康は、慶長3年(1598)の豊臣秀吉の死後、着々と豊臣家から天下を掠め取る準備を進めていた。その動きは、あからさまな時もあり、石田三成他、この家康の動きに大きな危機感を持つものも少なくなかった。

とはいえ、家康は豊臣政権下でも随一の実力者で、しかも筆頭家老である。反家康派としてもうかつには動けない。一方の家康も、そういう反家康派を牽制しながら動くため、一気に動くことができないでいた。

そして、ついに慶長5年(1600)に入って、家康は会津の上杉景勝に謀反の疑いをかけて征伐することを宣言した。一般的には、家康本人がわざと中央から遠く離れた会津の地に出陣することで、反家康派の中央での挙兵を狙ったものとされる。これにより挙兵した敵を討つという大義名分が得られるからである。

そして、案の定そうなった。家康が、下野国(栃木県)小山に着陣すると急報が入る。「石田三成、大谷吉継らが上方(大坂)にて挙兵。」家康は、この急報を諸将に伝えるため軍議を開いた。その軍議というのが、後世「小山評定」と呼ばれる軍議なのである。

家康は、軍議の席で、並み居る諸将に三成挙兵の事実を伝えたうえで、こう付け加えた。
「妻子を大坂に人質にとられているものもいるであろう。ご心中お察しする。もし思うところあらば、早々にここの陣を引き払い、大坂に戻っても構わぬ。そのことについて、この家康がなんら恨みに思うことはない。我が領内においては、道中の心配も必要ない。大坂に戻らんと思う方は遠慮なくお申し出なされ。」

一言で言えば、「理由はともかく、三成たちに味方したいと思う者は引き止めないよ。」ということである。諸将たちは少しの間沈黙した。悩んでいるのである。
家康の言うように、妻子のこともあるが、情勢的にどちらに味方するのが得策なのかを測りかねていたものであろう。誰もが言葉を発さなくなっていた。

そんななか、福島正則が口を開いた。
「わしは、内府どの(家康の官職名)にお味方致す!」
福島正則は、「豊臣秀吉子飼いの武将」と言われるほどの男で、豊臣家への忠誠は絶対の男であったが、石田三成とはいろいろ確執があり、三成が大嫌いであった。正則は、三成の挙兵を三成自身の天下への野心によるものと捉えて、家康に味方することを宣言したのである。

そして、この福島正則の発言を受けて、堰を切ったように諸将たちも家康に味方することを表明しだした。山内一豊などは、家康に味方することを表明しただけでなく、
「それがしの城は、東海道上の掛川城ですから、進軍の際には我が城を存分にお使いください。」
とまで言った。これまた、この後に他の東海道上に城を持つ武将たちも「わしも」「それがしも」と続いた。

こうして、参陣していたほとんどの武将が家康に味方することを表明(ただ一人、田丸直昌という武将だけは、この時家康に味方せず、軍を離れた)。家康は、諸将に礼を述べると、ただちに今後の指示を出した。小山の陣には息子の結城秀康、徳川秀忠ほか数部隊を残し、残りの部隊にはただちに西上するよう命じたのである。

そして、この約2ヶ月後、徳川家康の東軍と石田三成の西軍は関ヶ原の地で激突することになるのである。

※写真は『大いなる謎 関ヶ原合戦 家康暗殺計画から小早川裏切りの真相まで』。関ヶ原合戦の謎に深く迫る本です。関ヶ原の合戦の概要みたいなことは書いていないので、予備知識のある人向きですが、内容はかなり細かくてナイスです。小山評定についても、詳しく書いてありますヨ。


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(キーワード)

●福島正則(ふくしままさのり)

戦国時代の武将。幼名市松。左衛門大夫。のち広島城主。尾張(愛知県)海東郡の出身。母親は、秀吉の母・大政所の妹という説があるが、定かではない。

幼少期より秀吉に仕えて、主に武勇を発揮して活躍する。1583年の賤ヶ岳の合戦では、のちに「賤ヶ岳の七本槍」とまで称されるほどの勇猛果敢な働きを見せ、しかも、その七本槍のなかでも秀吉に特に激賞されて、他の者より2千石多い5千石を賜った。

これに続けて、翌年の小牧・長久手の戦い、紀州の雑賀衆討伐でも功を挙げ、伊予(愛媛県)今治に11万石余を賜る。さらに、1590年の小田原征伐にも参戦している他、朝鮮出兵でも半島に渡海して活躍。これらの功により、1595年には尾張清洲に24万石を賜った。

慶長4年(1599)、慕っていた大納言前田利家の死後、久しく対立していた石田三成を同僚6名と共に襲撃。この時は家康の仲介があって、事なきを得たが、三成との対立はその後も続いた。

慶長5年(1600)、家康の会津征伐軍に従軍。小山評定では真っ先に家康に味方することを宣言し、諸将の決断に影響を与えたとされている。小山評定後、家康の命を受けて、ただちに西進を開始。先鋒部隊として、西軍の拠点を次々に攻略した。そして、関ヶ原の戦い当日も、先陣を任されて参戦。関ヶ原の中央に布陣し、2倍以上の兵力を誇る西軍・宇喜多秀家の軍と戦闘を繰り広げた。

戦後、安芸広島49万8千石に加増されたが、もともと豊臣系の大名であるため、家康からは警戒され、慶長20年(1615)の大坂の陣の時には江戸城留守居役とされた。

元和5年(1619)6月、広島城を無断改築したとみなされて改易となったが、すぐに信濃(長野県)川中島に4万5千石を与えられ、家名の存続も許された。
寛永元年(1624)7月13日没。享年64歳。

※正則については、7月13日の記事「福島正則没」もあります。よかったら参考にしてください。


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小山評定は、家康があらかじめ仕組んでいたという話もあります。先に自分に味方することを表明していた黒田長政に命じて、事前に福島正則を説得させて、評定の席で「家康どのに味方する」と切り出してもらおうと仕組んでいたというわけです。

しかし、そうだとしてもやはりうまくいったのにはいくらか運はあると思います。いかに正則の発言まではうまく言っても、そこから先は諸将次第ですからねぇ。

まあ…「おれ、あんたには味方できない」って言ったのが一人だけでホントは安心してたんじゃないんですか?家康さんよお!


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