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白虎隊はそのなかでも一番若い16~17歳の少年343名で編成されていた隊である。

2011-06-12 13:20:32 | 江戸時代のビッグ二ユース



歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


2006年08月23日




白虎隊自刃 慶応4年(1868)

幕末の動乱のさなか、会津藩では藩内の軍制を洋式に改め、さらに隊を4隊に分けた。すなわち白虎、朱雀、青龍、玄武の4隊であり、白虎隊はそのなかでも一番若い16~17歳の少年343名で編成されていた隊である。

会津藩は戊辰戦争では幕府軍として戦ったが、会津に攻め込まれる頃にはすでに旗色は悪くなっていた。やがて、会津藩はまさに城下に入られるかどうかの瀬戸際に立たされることになったのである。

「新政府軍は猪苗代から十六橋(猪苗代湖方面から会津に入る時の白河口にあたる重要地)を渡って進攻してくる」という報告を受けた藩首脳部は十六橋死守のため、増援を送ることを決定。これに特に願い出て白虎隊も従軍した。
ところが、到着を前にして悪い報せが届く。「すでに十六橋は突破され、現在戸の口原で応戦中」というのである。白虎隊は藩主・松平容保から戸の口に向かうよう命ぜられた。

白虎隊は一中隊37名で、このときは2中隊が編成されたが、この第二中隊の隊長が、日向内記という人物である。

白虎隊が戸の口についた頃は、ちょうど風雨が強く、一時休戦状態にあった。そこで、日向はこの間に、とりあえず食事をとろうと考えたが、うっかり兵糧を用意してこなかったことに気づいた。そこで、自ら兵糧調達のために本陣に引き返していった。

しかし、日向隊長がまだ戻らない翌日の明け方、戸の口の攻防が再開された。味方の会津兵が戦っているのを隊長不在と言えどもただ見ていられるはずもない。白虎隊も仮の隊長を選定して、ただちに戦闘に加わった。だが、兵数も兵装も差がありすぎる、白兵戦も行われたが、会津藩軍は破れ、白虎隊も20人ほどに減っていた。

生き残った隊士たちは、再起を願って退却。滝沢山麓の灌漑用水路を通って飯盛山に抜けた。白虎隊は、「よもやお城は無事であろうか」と高台に登り、会津鶴ヶ城を遠くに見て愕然とした。「城が燃えている…」。隊士たちは藩の敗北を感じて、失意のうちに次々に切腹したり、刺し違えたりして死んでいった。

しかし、実はまだこの時点では、鶴ヶ城は落城していなかった。城下では火災は発生していたので、その火災を城も燃えていると勘違いしたという。
全員が命を断とうとしたが、近所の女性に発見され、奇跡的に飯沼貞吉という少年だけ、どうにか一命をとりとめた。

なお、戦闘中に捕らえられた隊士たちは耳や鼻をそぎ落とされ、手足を折られるなどの残酷な方法でなぶり殺しにあったという。

※写真は飯盛山にある白虎隊士の墓(上)と、隊士が飯盛山に逃げてくる時に通ったという戸の口水路(下)。
⇒飯盛山白虎隊士の墓周辺の地図(livedoor地図情報)


↑は今なお感動の傑作として高い人気を誇る日テレ時代劇の『白虎隊』。見ると史跡訪問したくなるくらい影響される名作。

※文春新書の『白虎隊』は、一般的に知られる白虎隊ばかりではなく、白虎隊の史実での実像を細かく記した白虎隊のことを知るのに最適な本。安いしね。

※おなじみ歴史群像シリーズ『会津戦争―痛憤白虎隊と河井継之助』なら、白虎隊のみならず、幕末の会津・長岡戦争の詳細が載っています。写真や図も多いので初心者にもオススメ。


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●白虎隊(びゃっこたい)

幕末の会津藩の軍制改革によって編成された年齢別部隊のうちの1隊で、隊長を除いて主に16~17歳の少年たちで編成。なお、このほかの部隊名は、朱雀、青龍、玄武で、聖獣4体の名がとられていることがわかる。

白虎隊は編成当時は343名であったが、若年ということもあって、戦闘への出陣を命ぜられることは少なかったという。しかし、猪苗代方面の要衝・十六橋が突破されると、白虎隊士37名も迎撃に動員された。
そして、戸の口原で友軍と共に新政府軍を相手に戦ったが、兵数はもちろん、兵装にも差がありすぎる(旧式鉄砲と新式など)。ついに会津軍は敗走。白虎隊も生き残りが、飯盛山まで逃れたが、高台から見た城下の焼ける姿に絶望して、総じて自害した。

しかし、この惨劇はすぐに発見され、飯沼貞吉という少年だけは一命を取り留めた(基本的に「蘇生」とされるので、ほぼ死亡状態だったものと思われる)。


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白虎隊は、中学生くらいのときに始めて興味を持ちました。こういう悲劇的な歴史にはいろいろな意味で興味を引かれるんですね。すぐ発見されて、一人だけ蘇生したというのは不幸中の幸いというところでしょうか。

今、飯盛山に行くと、山の中腹には観光者向けの商店が並び、山上までのスロープコンベアなどもあり、かなり賑やかです。
面白いのは「さざえ堂」なる螺旋状の建物。なんじゃこりゃ。

鼠小僧刑死 天保3年(1832)

2011-06-11 16:22:56 | 江戸時代のビッグ二ユース

歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


2006年08月19日


鼠小僧刑死 天保3年(1832)

鼠小僧といえば、盗んだ金を貧しい人にばらまく義賊としてよく知られているが、実際はそうではない。彼もどうということはなく、自己の欲望から盗みを働く盗賊だった。

鼠小僧を義賊としたのは、彼の処刑後に出た講談本などであった。なぜ義賊となったかについては、鼠小僧が盗みに入ったのが、武家屋敷ばかりだったからだと言われる。
つまり、当時は身分制度が厳しく、大いばりだった武家の屋敷が荒らされることに痛快感を持っていたというわけだ。だから、そういう事実としての話に、いろいろ尾ヒレがついて盗んだ金をばら撒くなどという「実はいい人」的な人物像が出来上がったのであろう。

では、なぜ彼は盗みを働いたのか。なぜ武家屋敷ばかりを狙ったのか。

これについても、盗みの動機は単に「博打にはまってカネがなくなったから」であり、武家屋敷ばかりを狙った理由は「外見は警備が厳重だが、一旦中に入ればこれほど手薄な屋敷もないから」だという。
商人の家などは、カネの管理も厳重で、中に入ってからもカネを盗むのは容易じゃないが、武家は屋敷に入るまでのセキュリティが頑丈な分、内部のカネの管理は割と杜撰だったらしい。

鼠小僧は実は、生涯で2度捕まっている。1度はもちろん処刑された時だが、その時とは別にもう一回ある。ただ、その時はまだ盗んではいなかったので、なんとか言いくるめて、賭博の罪だけ認めて3ヶ月の入牢となった。その後入墨(前科者としての墨)、追放処分となっている。

処刑された時の盗みのターゲットは松平宮内少輔宅。この時も順調に盗めるかと思ったのだが、運悪く持病の喘息の発作が出た。それで、思わず声を出してしまいあえなく御用となってしまった。

鼠小僧の盗みの被害は実に99件3千両(単純な当時の両替推測で1億2千万円くらい?)以上という。北町奉行所のお白州で、これらすべての盗みについてペラペラとあっさり白状した鼠小僧は、刑の執行の日、特に頼み込んで顔に薄化粧をさせてもらい、衣装も派手なものを着せてもらった。そして、江戸市中引き廻しの上、鈴ヶ森の刑場で、磔、獄門に処された。


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●鼠小僧次郎吉(ねずみこぞうじろきち)

江戸時代後期の大泥棒として知られる。盗んだ金を貧しい人にばら撒いたという義賊的な知られ方をしているが、それはすべて講談の中での話しである。

実状の彼の経歴は詳しくはわかっていないのだが、一説を紹介しておこう。
生まれは寛政9年(1797)。江戸中村座の木戸番・定七の長男として生まれ、建具屋の住み込み奉公や鳶人足をやっていたらしいが、やがて博打を覚えて堕落し、親から勘当されたという。そして、博打の金欲しさについに盗みをはたらくのである。

次郎吉のターゲットは主に武家ばかりで、狙っては99件、3千両を盗んで、100件目の松平宮内少輔の屋敷で持病の喘息の発作が出て不覚をとった。

鳶職をやっていたから、身のこなしがあざやかで、すばしっこく、そんなところからついた異名が「鼠小僧」だったという。
江戸市中引き廻しの上、磔、獄門。辞世は、「天の下 ふるきためしは 白波の みこそねずみと あらはれにける」。


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鼠小僧というと、なんとなくほっかむりのあのわかりやすい泥棒スタイルを思い浮かべますが、実際にもあんなにわかりやすかったんですかね~…。あれだと私は泥棒ですと言ってるようなもんだ。

捕まってから妙に潔い鼠小僧。後で義賊に仕立て上げられたことなんて知らないわけですが、知ったら大喜びするだろうか。

徳川吉宗が八代将軍になる 享保元年(1716)

2011-06-10 11:10:13 | 江戸時代のビッグ二ユース

歴史かくれ話と今日は何の日


2006年08月13日


徳川吉宗が八代将軍になる 享保元年(1716)

徳川吉宗といえば、TVドラマ「暴れん坊将軍」や、大河ドラマ「八代将軍吉宗」などで主人公に取り上げられている、よく知られている将軍だ。

しかし、この吉宗、実は徳川宗家(家康の直系)の人間ではなく、御三家の一つである紀州徳川家の人間である。しかも吉宗は、四男であり、本来であれば将軍職どころか紀州和歌山藩を継ぐこともなく、一生を部屋住みで終えてもおかしくない境遇であった。

吉宗の父は、紀州家2代藩主の徳川光貞という人で、吉宗は光貞のお手つきとなった低い身分の女性の子であるという。そのため、吉宗は3人の兄とは差別されて育った。

不遇の少年期を過ごした吉宗であったが、14歳のときに江戸で当時の将軍綱吉に気に入られて、なんと越前丹生郡3万石を与えられた。一躍大名になることができたのだ。これだけでもなかなかの強運だが、さらに、宝永2年(1705)には、父・光貞、長兄・綱教、三兄・頼職が相次いで死去した(次兄はもっと早くに死亡している)。この間、わずかに4ヶ月ほどである。これにより、吉宗は和歌山藩主の座につくことになった。

吉宗の強運はさらに続く。折りしも6代将軍・家宣の死期が近づいていたのである。家宣は将軍職を子の家継に譲るとしていたが、家継はまだ4歳で、しかも病弱だったので、家宣は尾張・紀伊・水戸の御三家に家継の補佐を命じた。やがて、家宣が亡くなると、御三家はその遺言に従って家継を補佐したが、こともあろうにその家継もわずかに8歳でこの世を去ってしまう。

8歳では当然ながら継嗣はいない。となると、初代家康の定めた決まりに従って将軍を選出することになる。すなわち、「宗家に子のなき時は、御三家より将軍にふさわしき者を選ぶべし」である。

ただちに御三家の状況を鑑みて将軍の選出が行われた。
まず、御三家筆頭尾張藩は、ちょうど同時期に全藩主の死により、傍系の継友が後を継いだばかりだからダメ。紀州の吉宗は藩政も優れているというので、これは候補の一人。もう一つの御三家である水戸藩主の綱条(つなえだ)は、この年62歳で将軍職を今から継ぐには高齢すぎる。こういう事情で、ついに吉宗は将軍にまでなることができたのである。

吉宗は強運の持ち主であったようだが、兄弟の相次ぐ死などは不自然な点でもあると指摘もされている。果たして吉宗は運よく将軍になれたのか…それとも、自らも手を汚してなるべくしてなったのか…。

⇒吉宗の出身地である和歌山藩の和歌山城周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は1995年の大河ドラマ『八代将軍 吉宗 総集編』。「病気が治ると突然西田敏行」で有名(笑)な名作大河。ジェームス三木の脚本は、時代背景に沿っていながら、笑えるシーンもあって見ていて楽しい大河です。近松門左衛門=江守徹の語りもサイコー。平均視聴率26.4%の好評作です。総集編はちょっと物足りないですが、時間のない方にはオススメ。

※本としては個人的には『徳川吉宗のすべて』がいいと思うんですが、あまり評判はよろしくないです…。
※健康状態に言及した『徳川将軍家十五代のカルテ』もオススメ。他の将軍のこともわかりますよ!


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●御三家(ごさんけ)

橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦の3人…ではなく、郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎の3人…でもない。

徳川将軍家の一族のうち、尾張、紀伊、水戸に領地を持つ3家を指す。徳川宗家に後継者がいなくなった場合には御三家から将軍を出すと決められていた。

尾張は61万石で、初代藩主は家康の9男である義直。紀伊は55万石で、初代は家康の10男頼宣。水戸は35万石で、初代は家康の11男頼房であった。御三家の中でも石高順に尾張、紀伊、水戸の順の格式で呼ぶことが多い。
用意周到な家康らしく、宗家に継嗣がいない場合には後継者となれる資格を有するが、基本的には将軍家の補佐役であった。ただし、親藩大名としても別格なのは言うまでもなく、特別待遇を受けたりもしていた。


●徳川吉宗(とくがわよしむね)

江戸幕府8代将軍。暴れん坊将軍としても有名だが、実際にはもちろんあれほど暴れん坊ではない。

もともと紀州の徳川分家の子で、将軍になった経緯もかなりのラッキー男と言える。定免法の採用や、倹約令、目安箱、足し高の制などの構造改革・享保の改革で幕府の財政建て直しに奮闘、それなりの結果を残した。目安箱や倹約令での自身の質素ぶりが民衆にも評判で、将軍にしては庶民的な印象があるらしい。

だが、暴れん坊将軍は庶民的すぎて、いつか斬られないかと不安でならない。


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徳川吉宗は、江戸幕府の15人の将軍の中でも有名なほうですよね。名前に「家」の字がつかないし…。

徳川将軍って、家のつく人で有名なのって家康と家光だけ?っぽくないっスか?個人的には、家康、家光、綱吉、吉宗、慶喜の5人がよく知られた将軍だと思っているんですが、5人中3人は「家」がつかない。でも、徳川将軍家全体で見ると、15人中実に11人が「家」のつく人々。これはなかなか奇妙な確立…。まあ知られていれば、いい政治をしていたというわけでもないですがね。

足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられる 延元3年・暦応元年(1338)

2011-06-10 10:36:43 | 江戸時代のビッグ二ユース



歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


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2006年08月11日


足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられる 延元3年・暦応元年(1338)

足利尊氏は室町幕府の初代将軍として知られているが、もとは鎌倉幕府の有力御家人である。足利家は関東の下野(栃木県)などを領する源氏の一族で、尊氏は、最初は「高氏」と書いた。

当時、鎌倉幕府の事実上の権力者である執権は、14代北条高時だったが、高時は政治を顧みず、闘犬など趣味に夢中になって、世間の評判を大いに落としていた。
この状況を何とかしようと、討幕を考えたのが後醍醐天皇だ。後醍醐天皇は民のため、幾度か失敗しながらもついに討幕を成功させるが、この時鎌倉幕府の中にも高時の堕落ぶりを憂い、天皇に味方したものがいた。その一人が足利高氏である。

高氏は、倒幕に成功した後も後醍醐天皇の建武政権に従った。天皇からの信頼も厚く、天皇の諱である「尊治」から一字を賜り、「尊氏」と名乗ることを許されるほどであった。

ところが、建武政権の理想は、かつての天皇親政で善政を強いていた時代にあり、公家を中心としたものであったため、公家に比べて武家は冷遇され、武士たちの間には不満の声が聞こえ始めていた。やがて、これらの武士たちは、源氏の血を引く有力武士である尊氏の決起に期待するようになっていった。

そんな折、北条高時の遺児・時行が東国で反乱を起こした(中先代の乱)。後醍醐天皇は、満を持して尊氏にこれの討伐に向かうよう命を出したので、尊氏はそれならばと、征夷大将軍の位を望んだ。
征夷大将軍とは、もともと朝廷に反抗する東国の夷荻討伐の司令官としての任であり、そのための称号であったから好都合だと思ったのであろう。しかし、後醍醐天皇は尊氏の任官は許さなかった。天皇もこの頃には尊氏を警戒していたのである。

実はこの時点では、尊氏本人にはまだ後醍醐天皇に叛くという明確な意思はなかったようであるが、弟・直義などから説得され、中先代の乱を鎮圧後も、尊氏は京都に戻らなかった。そして、間もなく、天皇に対して叛旗を翻すのである。

尊氏は、天皇軍の北畠顕家、新田義貞、楠木正成などと戦い、その間に光明天皇を即位させる。後醍醐天皇も状況を鑑みて、一旦はこれを認めるそぶりを見せたが、すぐに密かに大和(奈良県)の吉野に脱出し、吉野を都と定め、自身が正式の天皇であると主張した。これにより、南北朝の動乱が始まるのである。

尊氏が征夷大将軍に任じられたのは、こうした激動の時代の真っ最中。北畠顕家や新田義貞を敗死させた後、ついに光明天皇から征夷大将軍に任じられたのだ。しかし、この時点では、すでに尊氏はほぼ政権を手中にしており、征夷大将軍への補任は、名目をも備えたにすぎないとも言える。


※写真は尊氏の小説『風の群像―小説・足利尊氏〈上〉』。この小説は、時代背景をあまり知らなくて、読みながらわかっていくので問題ないという、面白くて知識も増える良質な小説です。尊氏・直義を中心に人物の描写も個性的で生き生きとしており、個人的にお気に入りの作品です。
…今、この記事書くのに本棚あさったんですが、上巻しか見つからないんですが…。下巻どこいったんだろ…。最悪買いなおしか…!!?


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●足利尊氏(あしかがたかうじ)

足利幕府初代将軍。初名は高氏。貞氏の子。「尊氏」の「尊」は後醍醐天皇の諱「尊治」の一字である。

元は鎌倉幕府の将であったが、14代執権北条高時の堕落ぶりから幕府に見切りをつけて、当初倒幕計画を進めていた後醍醐天皇に寝返って、京都の六波羅探題を攻略した。

その後、後醍醐天皇の建武の新政に従うが、これも尊氏の理想とは異なるものだったため、北条高時の遺児・時行の乱(中先代の乱)の討伐のため東国に下った際、そのまま東国に残って、間もなく反後醍醐天皇の兵を挙げる。
1336年、新しく持明院統の光明天皇をたてて、幕府を開く目的のもとに、当面の政治方針を明らかにした建武式目を発表。しかし、後醍醐天皇も自身の親政を諦めてはおらず、吉野に移って正当な皇位は自分にあることを主張したため、ここに南北朝の動乱が勃発する。

尊氏は、1338年、ついに光明天皇から念願の征夷大将軍に任じられ、弟の直義と共に政治をとった。しかし、直義と、尊氏の執事で幕府内でも大きな発言力を持っていた高師直の意見が衝突。この対立の構図は、やがて尊氏と直義の対立にシフトしていき、ついに1350年、骨肉の争いに発展してしまった(観応の擾乱)。この乱は、結局和睦となったが、その後、直義の存在を危ぶんだ尊氏が直義を毒殺したと言われている。

有名な髷を落とした尊氏画像があるが、あれは、中先代の乱の後、当初は後醍醐天皇に叛く気はなかった尊氏が、直義らの説得を受けて、京都に帰ろうかどうしようか迷っているうちに天皇が尊氏を本格的に疑い始めたと聞いて、「髷を落として謝罪する」と言い出して落としたものであるという。結局直義らの説得を受けて後醍醐天皇に叛くのだが、勢いで切った髷はどうにもならないので、そのままだというわけだ。
ただし、この画像については、近年「尊氏ではなく、高氏(こうし:師直の一族)の誰かだ」という指摘が成されている。どうやら腰に指している刀の柄に高氏の家紋があるというのがその根拠であるようだ。うーむ、真実は如何に…??


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尊氏像と伝わる画像は実はあの画像だけではないのですが、尊氏といえば、あの顔を思い浮かべてしまいます。今更「実は違う人でした」って言われてもなあ。ピンとこないよ。あの顔はやっぱり尊氏でこそピンとくるッス。

ちなみに尊氏の他にも源頼朝像が実は足利直義と言われていたり、武田信玄像が実は能登半島の大名・畠山義継であると言われていたりします。あと、お札にもなった聖徳太子像が「本当は太子じゃなくて中国の偉い人じゃないの?」とかいう説もあるとか。…どないやねん

源頼朝が征夷大将軍に任命される

2011-06-04 15:57:02 | 江戸時代のビッグ二ユース

2006年07月12日




源頼朝が征夷大将軍に任命される 建久3年(1192)

「1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府」で有名な鎌倉時代が幕を開けたのは、この頼朝の征夷大将軍就任によってである。頼朝は征夷大将軍に任ぜられてから鎌倉に幕府を開くが、これは日本初の武家政権であったわけだから、日本の大変革の日であったとも言える。

そもそも、頼朝はかねてより征夷大将軍の位を熱望していた。しかし、後白河法皇が反対し、なかなか実現しなかったのである。法皇の反対の理由は、「征夷大将軍とは、天皇の信頼厚い「廷臣」を任命すべきである。」というものである。頼朝は、鎌倉から動かなかったから、廷臣ではないというわけだ。

しかし、頼朝にも考えがあった。征夷大将軍は、元々東北の蛮人・蝦夷討伐のための役職であったので、頼朝は、この役職の職務を朝権代行職として置き換えて考えていた。これはつまり、東国の最高責任者としての名目になるということである。

だが、後白河法皇は、廷臣以外に征夷大将軍の位を与えるのは朝廷外に新しい権力を産むようなものだとして、一向に許可を出さなかった。とはいえ、源義仲の討伐、平氏討伐で功のある頼朝に何も報いないわけにもいかないので、法皇は右近衛大将という官職を頼朝に与えた。ところが、頼朝は再び征夷大将軍の位を望む大義名分を手に入れる。奥州平泉の制圧である。

なぜ平泉を制圧することになったかといえば、平泉には、平氏討伐後の紆余曲折で朝敵となっていた頼朝の弟・義経が匿われていたからだった。また、平泉は、中央の影響が薄いうえに金の産出量が多い。さらに、大陸との交易も行い、独自の文化を築いていったため、見方によっては独立国家としての体勢を整えようとしていると見えたであろう。ゆえに、これの討伐は、征夷大将軍の役目にぴったりである。頼朝はそう思っていたのかもしれない。

しかし、頼朝の思惑が読めている後白河法皇は、それでも頼朝を征夷大将軍に任じようとはしなかった。あくまでも政治は皇室が、公家中心で行うものという考え方である。少し前まで、貴族に雇われる身分にすぎなかった武士の政権というのは、さすがに想像できないであろうから、後白河法皇の考え方も、まったく仕方ないところではないだろうか。

結局、後白河法皇は、崩御するまで頼朝を征夷大将軍に任ずることを許さなかったが、法皇の崩御後に即位した後鳥羽天皇は、ついに頼朝を征夷大将軍に任じ、公家政権は終わりを告げることとなったのである。

⇒鎌倉の中心・鶴岡八幡宮周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は、『頼朝の天下草創』。シリーズ日本の歴史の鎌倉編。シリーズだけに鎌倉時代の流れも載っているので、頼朝以外のこともわかります。まあこれを気に入った場合、シリーズを全部買いたくなりますが…(笑)。
安い新書では、『源頼朝―鎌倉殿誕生』というのもあります。私は読んでないんですが、レビューを見ると割りと好評ですね。
小説もあります。山岡荘八の『源頼朝〈1〉』が私は好きです。


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●源頼朝(みなもとよりとも)

鎌倉幕府の創始者。源氏の棟梁。義朝の三男。
父・義朝が、平治の乱で敗れた際、義朝と共に逃げる途中ではぐれ、平清盛に捕らえられる。清盛は最初、頼朝を殺そうとしたが、清盛の母・池禅尼がが命乞いをしてくれたので、伊豆の蛭ヶ小島に流されることになった。伊豆では、北条時政が頼朝を監視しており、頼朝は毎日お経を読む生活をしていたらしい。

以仁王の令旨を受けた頼朝は、監視役ながら平氏をよく思っていなかった北条時政の援助を受けて挙兵。一時、石橋山の合戦で大庭景親に破れ窮地に陥るが、難を逃れ、安房(千葉県)に逃げ延びた。以後は、関東武士団を率い、奥州から参陣した弟の義経を大将に、平氏討伐をすすめ、1185年にこれを達成。しかし、義経とは対立し、旧知の奥州藤原氏を頼って落ち延びた義経を討つべく、奥州征伐を断行し奥州も平定した。

1192年、征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開く。1199年、落馬がもとで死去したとされるが、死因については史書によって様々であるという。


●征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)

基本的には武家の棟梁を表す役職というべきか。
もとは、蝦夷討伐のために、平安時代に設けられた役職で、初代は大伴弟麻呂がつとめたが、平安時代の征夷大将軍といったら、何と言っても坂上田村麻呂が有名であろう。

その後、武家の棟梁を指す役職となり、これになると幕府を開くようになった。「源氏の頭領のみが役職につける」といわれるが、特別そういう規則があるというわけでもないらしい。ちなみに足利・徳川は共に源氏の子孫(徳川の方は自称)。秀吉は百姓の子だけど、さる公家の養子に無理矢理なって藤原姓を名乗ったことはある。でも、征夷大将軍にはなれないので、関白職についた。一説には、公家から「関白の方が征夷大将軍よりも上ですよ」と言われて関白になったともいう。


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個人的に頼朝ってあんまり好きじゃないんですよねぇ。別に判官びいきってわけじゃないですけど、なんというかこう…自分勝手なヤツというイメージがありまして…。

でも去年の大河「義経」の頼朝=中井貴一はなかなかよかったです。個人的にイメージにあっていて…。あ、だけど役柄的にはあんまり好きじゃないですよ。ただ役柄にマッチした演技だったなあ…ということでありんす。

昔、芳賀研二が浮気したときに誠意を見せるとか言って、「誠意大将軍」とか言ってたなあ。何とかけてんだ。何と。恐れ多いものとかけるな!

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