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慶長遣欧使節の支倉常長が帰国する 元和6年(1620)

2011-06-13 09:47:12 | 今日のNO1二ユース


歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


2006年08月26日



慶長遣欧使節の支倉常長が帰国する 元和6年(1620)

慶長遣欧使節とは、奥州王・伊達政宗がイスパニヤ(スペイン)との通称貿易を期待して派遣した使節である。その使節の代表格が仙台の下級藩士だった支倉常長である。また、使節団は、政宗が信頼してよく話を聞いていた宣教師ルイス・ソテロが正使とされており、政宗の意向をスペイン国王に伝えるのに尽力した。

使節団は、慶長18年(1613)10月28日、今の宮城県月の浦をサン・ファン・バウティスタ号に乗って出航。太平洋を横断して、メキシコを目指した。当時のメキシコは「ノビスパニヤ」といって、スペインの植民地であった。

使節団が翌年1月25日にアカプルコに上陸して、徒歩や馬でメキシコ市に移った時、使節団はスペインの副王グアタルカサール候に謁見した。その後、前途揚々で、5月23日にはメキシコ市を出航して、いよいよスペイン本国へ向かった。スペインでは熱烈な歓迎を受け、マドリードではキリスト教への洗礼の儀式までした。

スペイン国王フェリペ3世にも謁見し、さらに日を置いてヨーロッパに足跡を残して、バチカンではローマ教皇にも謁見した。使節団一向は、ヨーロッパ諸国の権力者たちとの直接の謁見を実現しているし、その意味ではかなりの功績を挙げていると言えそうだが、使節を派遣した政宗の希望は「通商」だったから、これを了承してもらわないと、支倉常長としても目的を達したことにはならない。

しかし、当時の日本では、禁教令が発布されたころで、キリシタンの迫害も始まっていた。そういう背景を重んじたスペイン国王は、政宗の希望への返書をしたためることに難色を示していたのである。

そして、使節団にも帰国を命じたが、常長とて役目を果たさずに帰れない。ロレト修道院に一年以上も留まり、貧窮生活を送りながら、さんざん返事をもらえるよう嘆願した。だが、ついに返事はもらえず、1617年には国外追放処分となってしまう。

そのため、再び来た時と同じようにメキシコに戻り、アカプルコでサン・ファン・バウティスタ号に乗り、元和4年(1618)、フィリピンのマニラに到着した。しかし、常長はすぐには帰国を許されなかった。常長が使節団として遠くヨーロッパに行っている間に日本の状勢は大きく変化していたのである。

まず、政宗の使節派遣を支援していたといわれる大御所・徳川家康が亡くなっていた。さらに、禁教令は強化されて、しかも海外貿易にも制限が設けられていたのである。政宗は、当然この幕府の方針で問題になった。

だが、政宗の使節派遣には家康が後押ししたということもあったので、政宗はそれを切り札に老中・土井利勝を説得し、今回の使節派遣を認めさせた(これは、政宗自身の保身を目的としたものである)。説得には実に1年半の月日がかかったらしく、常長がマニラからの帰国を許されたのは元和6年(1620)になってからであった。常長は帰国してから、幕府の禁教令と政宗のキリシタン弾圧のせいで息を潜めて生活し、帰国の2年後に没したという。

常長の使節派遣は、成果を挙げられなかったが、それは日本が急速に新しい支配秩序に変わろうとしていた時期だからこそとも言えそうである。

⇒使節出航地・月ノ浦周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は『支倉常長―慶長遣欧使節の悲劇』。著者の大泉光一氏は、慶長遣欧使節研究の第一人者。詳しいところまでわかるし、値段は安めだしオススメ。
もう少し突っ込んだところまでいくと、『支倉常長 慶長遣欧使節の真相―肖像画に秘められた実像』というのもある。著者が同じなので仕方ないけど、記述内容が似通っているところもあるので、コアな方は両方読んでみてもいいと思います。

※おなじみ吉川弘文館の人物叢書もあります。⇒『支倉常長』文字が大きくて読みやすく、本を読むと目が疲れるというお父さんにもオススメです。通勤電車内とかでも読めますよ。


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●慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)

慶長18年(1613)、仙台藩の伊達政宗が通商などを目的としてメキシコ~スペインに派遣した使節。政宗の代理人として、政宗の信頼を受けていた宣教師ルイス・ソテロ、仙台藩士の支倉常長などが渡航した。

牡鹿半島の月ノ浦を出航し、太平洋を横断。メキシコを経由してスペインに渡り、スペイン国王フェリペ3世に謁見する。さらに、ローマまで足を伸ばし、ローマ教皇パウロ5世との謁見も叶えたが、日本本国の幕府による禁教令などの政策がネックとなり、ついに通商開始の返事は得られなかった。

一説には政宗は、当時世界に名を馳せていたスペインの無敵艦隊の話を聞いて、これの力を借りて幕府を倒そうとしていたとも言われる。ただ、使節の派遣については家康の同意を得ていたという史料もあるといい、真意は定かではない。

いずれにしても、政宗が国力をさらに高めるべく派遣したであろうことは間違いないであろう。

●支倉常長(はせくらつねなが)

通称六右衛門。実父は山口常成だが、伯父忠正の養子となって家を継いだ。伊達家家臣だが身分は高くない。慶長遣欧使節としての経歴以外はよくわかっていない。

伊達政宗が欧州との通商を企図して派遣を決めた慶長遣欧使節の代表格として、特に政宗の命を受けてノビスパン(メキシコ)、スペイン他ヨーロッパに渡ったが、目的を達成させることはできなかった。それどころか、常長渡航中に、幕府による禁教令や、海外貿易の制限政策などが強化され、簡単には帰国できなかった。

帰国後はひっそりと暮らしたというが、約2年後に没しているため、暗殺されたという説もある。なお、政宗は常長が帰国する頃には幕府の方針に従い、それまで保護していたキリシタンの弾圧を始めたため、常長も暗殺されたとすれば、政宗によるものとも考えられる。


●ルイス・ソテロ(るいす・そてろ)

ソテーロともいう。スペイン出身のフランシスコ会宣教師。
慶長8年(1603)にフィリピン総督使節として来日して、各地で布教活動を行ったが、幕府は次第にキリシタン弾圧に政策を傾けていったため、1613年に江戸にいたソテロも捕らえられ、死刑を宣告されたが、伊達政宗のとりなしで釈放された。

その後は、政宗の側に仕え、やがて政宗と共に慶長遣欧使節の計画を練る。使節の正使とされ、もともとスペイン人であったから、渡航後の交渉などはソテロが行ったという。

しかし、結局使節の目的であった通商関係の樹立と、ソテロ自身が目的にしていたという日本布教における援助などはすべて叶えられなかった。ソテロはその後日本に戻ってきて薩摩に潜伏。だが、見つかって、たちどころに処刑されてしまった。


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命令で渡航したはいいけど、向こうに行っている7年の間に、日本の政治状況は一気にキリシタン禁止で確立してしまったため、常長たち使節も危ういことに…。浦島太郎みたいな状態ですなあ…。帰ってみたら様子がすっかり変わっていたなんて…。

しかし帆船であの太平洋横断というのがすげえな…。幕末の咸臨丸の時だって、勝海舟は散々な目にあったらしいし…。かなりの苦労があったんでしょうかね。

禁門とは京都の禁裏御所の外郭の門の一つで、別名を蛤御門という。

2011-06-05 10:22:07 | 今日のNO1二ユース

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2006年07月19日


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禁門の変勃発 元治元年(1864)

禁門とは京都の禁裏御所の外郭の門の一つで、別名を蛤御門という。この禁門の変における戦火でちょうど蛤が火にあぶられて口を開くように初めて開いたゆえにこう呼ばれるという。

文久3年(1863)、8月18日の政変により、長州藩の勢力は京都を追われた。三条実美ら7人の長州派公卿も京都退去を余儀なくされ、長州を目指して落ちていった(七卿落ち)。これにより、京都では反幕勢力が一応息を潜め、公武合体派が勢力を広げたため、幕府はこの機に乗じて不逞浪士の取り締まりを強化した。そして、その動きの中で有能な志士を一網打尽にしたのが、元治元年(1864)6月5日の池田屋事件であった。

池田屋事件では、長州藩も吉田稔麿や広岡浪秀といった志士を失い、池田屋事件の報を受けた長州藩の藩論は一気に京都進発に決した。そこで長州藩では、集めた軍勢をいくつかに分隊し、福原越後をはじめとする三家老などに預け、計1600人ほどで京都に向けて出発した。

当初は、長州藩主の赦免の嘆願を目的にしていたため、京都へ続く街道に陣を張って、何度か赦免嘆願を行っていたが、朝廷側では、禁裏守衛総督の一橋慶喜が、長州を撤兵させることを主張。慶喜自ら長州の説得に当たったが、長州としても目的が達せられないまま引き上げるわけにはいかず、交渉は決裂。武力行使の様相にかわっていった。

そしてついに、長州が進軍を開始。福原越後の率いる隊は、京都市街地に侵入しようとするが、各地で大垣藩、彦根藩、会津藩などの藩に阻まれて敗れ、京都郊外の山崎に撤退した。

しかし、一方で、来島又兵衛や国司信濃らの隊は、それぞれ蛤御門(⇒地図)や中立売御門(⇒地図)に向かい、会津藩、筑前藩、桑名藩、福井藩、薩摩藩などの諸藩と激戦となった。とはいえ、御所周辺には公卿の屋敷が多く立ち並び、戦闘は思うに任せず、ひたすら門の攻防となった。

やがて、各門で長州が一時優勢となったが、薩摩藩の増援が乾御門(⇒地図)を通って到着し、攻撃を開始。長州軍の来島又兵衛が戦死して形勢逆転。優勢にあった長州軍は撤退していった。

そのころ、山崎に撤退していた部隊も駆けつけ、堺町御門(⇒地図)のすぐとなりの関白鷹司邸に立てこもったが、すでに長州軍は劣勢となっており、鷹司邸も破壊されてしまう。なお、このとき、長州の天才・久坂玄瑞が戦死。真木和泉ら17人が、天王山まで退いて自刃したという話はよく知られている。

戦闘は禁裏のすぐそばで行われたため、砲弾や銃弾が禁裏内に入ってくることもあったという。また、長州兵が隠れたというので、近隣の民家や長州藩邸に放火が行われ、この火が飛び火して、京都全域に及ぶ大火となってしまった。
火は2日間燃え続け、21日に消し止められたというが、3万世帯が罹災した。戦闘時間としては、7月19日の夜明けごろから始まり、午前中に決着がついたというが、むしろ被害はその後の火事にあったといえるかもしれない。

なにはともあれ、長州軍は敗れて今度は完全に京都を追われた。以後、長州は朝敵と見なされ、維新のなる時まで苦難が続くことになる。

※写真は現在の蛤御門。
⇒蛤御門周辺の地図(livedoor地図情報)

※文中の地図へのリンクは、すべてlivedoor地図情報の現代の地図へリンクしています。位置確認の参考にしてください。

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●八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)

発生したのが文久三年(1863)なので、「文久三年八月十八日の政変」とフル呼びすることもある。

事件そのものは会津や薩摩の公武合体派が、尊攘派の長州藩などを京都から追放した事件。会津や薩摩を動かしたのは、公武合体派の公卿・諸大名たち。会津は京都守護職だったため、薩摩は長州と対立していたためにそれぞれ請われて、クーデターの実行にあたった。

発生したのは、言うまでもなく8月18日。会津&薩摩の両藩に御所の九門を警固させたうえで、公武合体派の公卿のみを集めて朝議を一変させた。これにより、攘夷は天皇の望むところではないとされ、攘夷論を展開していた長州藩は、御所の警備を解任され、京都から退去するよう命じられた。また、三条実美や、錦小路頼徳ら尊攘派の公卿7名は長州に逃走した(七卿落ち)。

事件の結果、公武合体派が発言力を強め、幕府もこれにより、不逞浪士の取り締まりを強化することになる。


●池田屋事件(いけだやじけん)

⇒こちらの記事を参照


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蛤御門かあ。名前はシャレみたいなつけられ方してるけど、事件の方はかなりの大事ですね。
しかし、このとき長州と薩摩は因縁みたいに仲が悪いのに、この2~3年後には薩長同盟⇒倒幕派として共闘になっていくんだから歴史の流れというのは恐ろしいですな。…と同時に薩長同盟の立役者・坂本龍馬はやっぱり偉大ですな。(←龍馬好き)

歴史かくれ話と今日は何の日

2011-06-01 20:18:58 | 今日のNO1二ユース

歴史かくれ話と今日は何の日





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2006年07月03日




小野妹子が遣隋使として隋に渡る 推古天皇15年(607)

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という書き出しで有名な聖徳太子の書を隋の煬帝に持っていった時の遣隋使が、小野妹子であり、その小野妹子が派遣されたのがこの日である。

煬帝は、この書を見て「無礼千万」と激怒したと言われる。煬帝にしてみれば、当時の日本など「東夷(東方異民族・野蛮人)」の一つに過ぎず、そんな国が隋と対等の国交を持とうというだけでも腹立たしいのに、「日没する処」とは何事かという気持ちなのであろう(一説には「日出ずる処云々…」の書き出しはほとんど問題になっておらず、むしろ日本が対等の立場に立とうとしたことにのみ腹を立てたともいう)。

しかし、煬帝はこれを完全無視はしなかった。一年ほど妹子を国内に留めたが、一年後、一応答礼使として裴世清という男を遣わしたのである。この時、妹子も煬帝から国書を授かり、共に帰国したのだが、帰国後、天子に伺候した妹子はとんでもないことを言い出した。なんと、帰国の途上、朝鮮半島にある百済の国で、煬帝の国書を紛失(奪われた)したというのである。

もともと、今回の遣隋使派遣は、強大になりすぎた蘇我氏ら豪族たちの勢力を牽制し、天子の権力を高めようと聖徳太子が考えたものであったと言われ、この妹子の「なくしました発言」もそのための発言だという。すなわち、煬帝の国書には、日本を属国となすような文言が書かれていたため、そんなものを蘇我氏らに見られれば、ますます天子の威勢が弱まってしまうと考えた結果、なくしたことにしてしまったというのである。

しかし、国書は「なくしました」でよくても、答礼使・裴世清の発言までは制限できない。ところが、裴世清は、天子に充分に敬意を表したから、諸豪族には、「天子は隋と対等な付き合いをしている」という印象を与えることができたという。おそらく、裴世清にしてみれば、自らは使者にすぎない身分で一国の王という人物に会ったのだから、礼を尽くして当然である、ということだったのだろうが、思わぬところで聖徳太子の意に沿った行動をしていたのであった。

聖徳太子は、裴世清の帰国の際、「国書紛失犯」であるはずの小野妹子の罪を許して、またしても隋に派遣している。また、その時は留学生として、高向玄理や南渕請安なども同行した。以後も、遣隋使から遣唐使と、大陸文化吸収のための使者派遣は続いていき、日本の文化の形成に大きな影響を与えることになる。


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●遣隋使(けんずいし)
隋は中国の王朝名。隋に派遣された公式の使節が、遣隋使である

遣隋使の派遣は『日本書紀』によれば、計6回。
600年が初回で、607年が小野妹子が煬帝な無礼な書を渡した回。
608年に2回、この時は隋の裴世清と共に小野妹子も再度渡海しているが、高向玄理や南渕請安、僧・旻などの留学生も渡海。中国文化の特色を勉強して、帰国してから、大化の改新後の日本の文化の発展に貢献したとされる。

他に610年と614年に1回ずつ派遣されたらしい。ただし、派遣回数については諸説ある。

●小野妹子(おののいもこ)
7世紀前半の豪族。聖徳太子の命により、遣隋使として隋に渡った。

聖徳太子から遣隋使に任命され、607年に隋に渡る。
当時の隋皇帝・煬帝に太子から授かった国書(「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」で始まる国交樹立を請う書)をわたして、煬帝から大いに怒りを買う。一年間ほど隋に留め置かれた後、ようやく答礼使の裴世清と共に帰国した。

妹子はこの時、煬帝から国書を授かっていたのだが、帰国後に天子へ奏上した際は、帰国途中に朝鮮半島の百済で盗まれたと供述した。これは一説に、煬帝の国書が天子および太子にとって不都合な内容であったため、なくしたことにしたという「気を利かせた説」があるが、国書の中身を途中で見てしまう点あたりはいただけないと思う。

国書紛失で罪に問われるが、なぜか翌年の裴世清の帰国時にはあらためて遣隋使に任命され、裴世清と共に再び隋に渡った。
ちなみに607年の渡海は、遣隋使としては2回目の派遣。1回目は600年に派遣された。また、小野妹子については、この他の事績はほとんどわかっていない。まさに遣隋使の男。

女みたいな名前だが、当然女ではない(笑)。