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室町幕府最後の将軍・足利義昭没す 慶長2年(1597)

2011-06-13 13:20:27 | 重大ニユース

歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


2006年08月28日




室町幕府最後の将軍・足利義昭没す 慶長2年(1597)

室町幕府を滅亡させた張本人はあの織田信長である。細かい紆余曲折や様々な見解を省けば、信長は義昭を利用するために征夷大将軍の座につかせ、用が済んだから切り捨てたといえる。
義昭がずっと言いなりになっていればよかったんだろうが、義昭は単に将軍の座を望んでいたのではなく、あくまでも将軍権威の回復を目指していた。だから、あれこれ積極的に動いた。それが信長にとっては「無能の傀儡のくせに」となってしまったのかもしれない。

しかし、義昭の執念はすさまじい。信長に追放された後も、なおも将軍復帰を目指して各地を転々とするのである。

追放された直後の天正元年(1573)から数年間は河内、和泉(大阪府)から紀伊(和歌山県)など畿内を転々とし、同地の大名三好氏を頼り、天正4年(1576)には備後(岡山県)の鞆に移って中国地方に勢力を伸ばしていた毛利氏を頼った。

この地で義昭は各地の大名にも書状を送り、将軍家再興を目指して精力的に活動していた。越後(新潟県)の有力大名上杉謙信などがこれに呼応する動きを見せるなど、義昭に風も吹いたが、戦国時代は刻々と動き、いつしか義昭の存在はかすんでいってしまった。

天正12年(1584)、天下取りへの心を明らかにした秀吉は、自身の卑賤な経歴を覆って征夷大将軍になろうとして、義昭の養子になろうとした。

いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの秀吉の養父になれば、権威失墜による貧乏生活からも抜け出せることは言うまでもなかったが、義昭はこれを拒否した。秀吉の実力を認めていないわけではなかったと思われるから、名門としてのプライドがそれを許さなかったのであろう。

結局、天正15年(1587)に秀吉に許可を得て、京都に戻り、翌年出家。やがて秀吉から山城国槙島1万石を宛がわれ、秀吉の話し相手として、ひっそりと暮らした。文禄元年(1592)3月には朝鮮出兵のため、肥前名護屋に向かう秀吉に同行しているから、関係は良好だったようである。

慶長2年(1597)8月28日、大坂で没。死因は腫物によるという。享年61歳。
傀儡だったとはいえ、将軍にまでなった男。そのプライドをかけて将軍職への復帰を目指して奔走したその行動力は見習いたいところだ。

⇒足利義昭の木像がある京都等持院周辺の地図(livedoor地図情報)


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今年の大河「功名が辻」では、足利義昭役は三谷幸喜さん。徹底的に間抜けキャラになってしまっていたように思いましたが、まああれはあれで面白かったし、いいのかな…。
信長死んでから出てこないですね。歴史上でもまだ生きてるのになあ。1996年の「秀吉」の時は、玉置浩二さんがやっていたんですが、どちらかといえば玉置さんの方がイメージにあっていた感じでした。私の中ではね。秀吉の時は、秀吉が天下をとってからも蹴鞠の相手として出てきたので、今年ももう一回くらい出てきてほしいですね。

記白村江の戦いで大和朝廷軍が敗れる 天智天皇2年(663)</事のタイトルを入力してください(必須)

2011-06-13 09:54:07 | 歴史隠れ話



歴史かくれ話と今日は何の日


2006年08月27日


白村江の戦いで大和朝廷軍が敗れる 天智天皇2年(663)

白村江というのは、現在の大韓民国の中央を流れる綿江のことである。この河の河口付近で、大和朝廷軍と、唐・新羅連合軍の戦いが行われた。

背景として、まずは朝鮮半島の当時の状況を簡単に整理してみると、まず当時の朝鮮半島には3つの勢力があったことがわかる。すなわち高句麗、新羅、百済である。

はじめ、新羅が高句麗に対抗しようとして、大和朝廷に協力を求めてきたため、大和朝廷は援軍を送って高句麗と戦い、確保した任那国に出先機関として日本府を置いた。
ところが、しばらくして、新羅はこの日本府を潰してしまう。大和朝廷はこれに怒って、今度は百済と組んで新羅と戦う。しかし、新羅は新羅で唐(中国)と結んだため、百済は滅ぼされてしまった。

しかし、百済にも忠誠の厚い遺臣である福信という男が生き残っており、再興を願って大和朝廷を頼ってきた。大和朝廷では、朝鮮半島の背後に立つ巨大な唐の影に危機感を持っていたため、百済再興に力を貸すことにする。

時の天皇は女帝・斉明天皇であったが、渡海を前にして崩御なされた。皇太子だった中大兄皇子は、すぐには即位はせず、皇太子のまま遠征の準備を進めた。周到な準備を重ね、ついに663年3月、2万7千の大軍が朝鮮半島に渡る。

これに対し、唐・新羅連合軍も動く。連合軍の水軍は、8月17日、劉仁軌の率いる170艘が白村江の河口に布陣した。そして、はじめ、半島南部で転戦していた大和朝廷の蘆原君(いおはらのきみ)の水軍が、最初にこれと激突。しかし、旗色は悪かった。万全の状態で待ち受ける連合軍に転戦で疲弊していた大和朝廷軍は苦戦させられたのである。

その後も大和朝廷軍は攻撃を繰り返したが、やがて包囲されて火攻めにあった。決定的な戦闘力の差を見せつけられて日本軍は大敗を喫したのである。

白村江での大敗により、百済にも再興の目はなくなった。やがて新羅は半島南部を統一する。

※写真は『図説韓国の歴史』。朝鮮半島の歴史が豊富な図や写真と、解説でよくわかります。活字の苦手な方には最適。
白村江の記述はほとんどないので、白村江についての本なら↓を。

※『白村江―古代東アジア大戦の謎』という本も、新書なので、値段が安いのが魅力的。私は読んだことないんですが、レビューを見るとそこそこの評価です。日本よりも朝鮮半島の歴史を知りたい人にオススメ。


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(キーワード)

●新羅(しらぎ)

4世紀ごろから10世紀ごろまで朝鮮半島南部に勢力を広げた古代国家。「しんら」ともいう。日本とは戦争もしたが、交流もあった。

成立当初は、北朝鮮の強国・高句麗の従属下だった国だが、6世紀ごろまでにめきめきと勢力を伸ばし、高句麗、百済と共に朝鮮半島の三国時代を形成した。高句麗・百済との抗争に当たっては、大陸の唐と同盟して、660年に百済、668年には高句麗と、一挙に朝鮮半島の覇権を掌握し、統一政権を樹立させた。

8世紀後半から中央貴族の反乱などで弱体化し、地方豪族も自立するようになって、935年に北に成立した高麗に降伏して滅亡した。


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素直に読めば「はくそんこう」ですが、学校では「はくすきのえ」とも読むと習った気がします。当時はそう読んだということなのだろうか…。

慶長遣欧使節の支倉常長が帰国する 元和6年(1620)

2011-06-13 09:47:12 | 今日のNO1二ユース


歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


2006年08月26日



慶長遣欧使節の支倉常長が帰国する 元和6年(1620)

慶長遣欧使節とは、奥州王・伊達政宗がイスパニヤ(スペイン)との通称貿易を期待して派遣した使節である。その使節の代表格が仙台の下級藩士だった支倉常長である。また、使節団は、政宗が信頼してよく話を聞いていた宣教師ルイス・ソテロが正使とされており、政宗の意向をスペイン国王に伝えるのに尽力した。

使節団は、慶長18年(1613)10月28日、今の宮城県月の浦をサン・ファン・バウティスタ号に乗って出航。太平洋を横断して、メキシコを目指した。当時のメキシコは「ノビスパニヤ」といって、スペインの植民地であった。

使節団が翌年1月25日にアカプルコに上陸して、徒歩や馬でメキシコ市に移った時、使節団はスペインの副王グアタルカサール候に謁見した。その後、前途揚々で、5月23日にはメキシコ市を出航して、いよいよスペイン本国へ向かった。スペインでは熱烈な歓迎を受け、マドリードではキリスト教への洗礼の儀式までした。

スペイン国王フェリペ3世にも謁見し、さらに日を置いてヨーロッパに足跡を残して、バチカンではローマ教皇にも謁見した。使節団一向は、ヨーロッパ諸国の権力者たちとの直接の謁見を実現しているし、その意味ではかなりの功績を挙げていると言えそうだが、使節を派遣した政宗の希望は「通商」だったから、これを了承してもらわないと、支倉常長としても目的を達したことにはならない。

しかし、当時の日本では、禁教令が発布されたころで、キリシタンの迫害も始まっていた。そういう背景を重んじたスペイン国王は、政宗の希望への返書をしたためることに難色を示していたのである。

そして、使節団にも帰国を命じたが、常長とて役目を果たさずに帰れない。ロレト修道院に一年以上も留まり、貧窮生活を送りながら、さんざん返事をもらえるよう嘆願した。だが、ついに返事はもらえず、1617年には国外追放処分となってしまう。

そのため、再び来た時と同じようにメキシコに戻り、アカプルコでサン・ファン・バウティスタ号に乗り、元和4年(1618)、フィリピンのマニラに到着した。しかし、常長はすぐには帰国を許されなかった。常長が使節団として遠くヨーロッパに行っている間に日本の状勢は大きく変化していたのである。

まず、政宗の使節派遣を支援していたといわれる大御所・徳川家康が亡くなっていた。さらに、禁教令は強化されて、しかも海外貿易にも制限が設けられていたのである。政宗は、当然この幕府の方針で問題になった。

だが、政宗の使節派遣には家康が後押ししたということもあったので、政宗はそれを切り札に老中・土井利勝を説得し、今回の使節派遣を認めさせた(これは、政宗自身の保身を目的としたものである)。説得には実に1年半の月日がかかったらしく、常長がマニラからの帰国を許されたのは元和6年(1620)になってからであった。常長は帰国してから、幕府の禁教令と政宗のキリシタン弾圧のせいで息を潜めて生活し、帰国の2年後に没したという。

常長の使節派遣は、成果を挙げられなかったが、それは日本が急速に新しい支配秩序に変わろうとしていた時期だからこそとも言えそうである。

⇒使節出航地・月ノ浦周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は『支倉常長―慶長遣欧使節の悲劇』。著者の大泉光一氏は、慶長遣欧使節研究の第一人者。詳しいところまでわかるし、値段は安めだしオススメ。
もう少し突っ込んだところまでいくと、『支倉常長 慶長遣欧使節の真相―肖像画に秘められた実像』というのもある。著者が同じなので仕方ないけど、記述内容が似通っているところもあるので、コアな方は両方読んでみてもいいと思います。

※おなじみ吉川弘文館の人物叢書もあります。⇒『支倉常長』文字が大きくて読みやすく、本を読むと目が疲れるというお父さんにもオススメです。通勤電車内とかでも読めますよ。


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(キーワード)

●慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)

慶長18年(1613)、仙台藩の伊達政宗が通商などを目的としてメキシコ~スペインに派遣した使節。政宗の代理人として、政宗の信頼を受けていた宣教師ルイス・ソテロ、仙台藩士の支倉常長などが渡航した。

牡鹿半島の月ノ浦を出航し、太平洋を横断。メキシコを経由してスペインに渡り、スペイン国王フェリペ3世に謁見する。さらに、ローマまで足を伸ばし、ローマ教皇パウロ5世との謁見も叶えたが、日本本国の幕府による禁教令などの政策がネックとなり、ついに通商開始の返事は得られなかった。

一説には政宗は、当時世界に名を馳せていたスペインの無敵艦隊の話を聞いて、これの力を借りて幕府を倒そうとしていたとも言われる。ただ、使節の派遣については家康の同意を得ていたという史料もあるといい、真意は定かではない。

いずれにしても、政宗が国力をさらに高めるべく派遣したであろうことは間違いないであろう。

●支倉常長(はせくらつねなが)

通称六右衛門。実父は山口常成だが、伯父忠正の養子となって家を継いだ。伊達家家臣だが身分は高くない。慶長遣欧使節としての経歴以外はよくわかっていない。

伊達政宗が欧州との通商を企図して派遣を決めた慶長遣欧使節の代表格として、特に政宗の命を受けてノビスパン(メキシコ)、スペイン他ヨーロッパに渡ったが、目的を達成させることはできなかった。それどころか、常長渡航中に、幕府による禁教令や、海外貿易の制限政策などが強化され、簡単には帰国できなかった。

帰国後はひっそりと暮らしたというが、約2年後に没しているため、暗殺されたという説もある。なお、政宗は常長が帰国する頃には幕府の方針に従い、それまで保護していたキリシタンの弾圧を始めたため、常長も暗殺されたとすれば、政宗によるものとも考えられる。


●ルイス・ソテロ(るいす・そてろ)

ソテーロともいう。スペイン出身のフランシスコ会宣教師。
慶長8年(1603)にフィリピン総督使節として来日して、各地で布教活動を行ったが、幕府は次第にキリシタン弾圧に政策を傾けていったため、1613年に江戸にいたソテロも捕らえられ、死刑を宣告されたが、伊達政宗のとりなしで釈放された。

その後は、政宗の側に仕え、やがて政宗と共に慶長遣欧使節の計画を練る。使節の正使とされ、もともとスペイン人であったから、渡航後の交渉などはソテロが行ったという。

しかし、結局使節の目的であった通商関係の樹立と、ソテロ自身が目的にしていたという日本布教における援助などはすべて叶えられなかった。ソテロはその後日本に戻ってきて薩摩に潜伏。だが、見つかって、たちどころに処刑されてしまった。


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命令で渡航したはいいけど、向こうに行っている7年の間に、日本の政治状況は一気にキリシタン禁止で確立してしまったため、常長たち使節も危ういことに…。浦島太郎みたいな状態ですなあ…。帰ってみたら様子がすっかり変わっていたなんて…。

しかし帆船であの太平洋横断というのがすげえな…。幕末の咸臨丸の時だって、勝海舟は散々な目にあったらしいし…。かなりの苦労があったんでしょうかね。