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版籍奉還 明治2年(1869)

2011-06-29 11:27:15 | 歴史隠れ話

2006年06月17日






版籍奉還 明治2年(1869)

版籍奉還とは、徳川時代の全国の支配単位であった藩の土地と人民を朝廷に奉還させる政策である。「版」は版図のことで、土地を意味し、「籍」とは戸籍であるから、人民を意味する。これらを「奉還」、すなわち元々の持ち主であるはずの朝廷に返上する。

明治維新成ったあとも、全国各地は諸藩の支配体制が続き、依然として藩主というものは存在していた。このことは、「新政府」を樹立するうえでこの上ない障害となっていた。この支配体制が維持されている限り、新政権は意味を成さないことになるのである。新政府による新体制に期待していた民衆は、依然徳川時代の支配体制が続いていることに不満を漏らし、各地で打ち壊しや一揆が相次いでいた。

そんな中、新政府は財政難が続き、政府内でも穏健派と急進派の対立が深まっていた。このままでは新政府は早々に倒れてしまうかもしれない――。

そこで、木戸孝允や大久保利通、板垣退助、大隈重信らが協議し、各藩主にその支配域と土地に住む人民を天皇(朝廷)に返上するよう呼びかけた。
彼らは、まずそれぞれの主であった薩摩、長州、土佐、肥前の各藩主たちを説き、版籍奉還に同意させ、彼らが率先する形で朝廷に版籍奉還の旨を記した上奏文を提出しした。明治2年(1869)1月23日のことである。薩摩、長州、土佐、肥前といずれをとっても、幕末の雄藩であり、他の藩もこぞってこれに倣い、4月までには全国の大部分の藩が上奏文の提出を完了した。

そして、版籍奉還の実行が正式に許されたのが明治2年(1869)6月17日である。版籍奉還後は、元大名たちは東京に移住となり、そのまま藩知事に任命された。

しかし、版籍奉還にも問題点はある。藩の持っていた土地と人民は新政府が統合して統治することになったものの、それは表向きの話で、実際には藩がそのまま存在し、しかも旧藩主が藩知事になったので、人民には体制の変化がいま一つわかりづらかったため、徳川時代の主従関係の解消が成ったとはいえなかった。
このため、のちに新政府は廃藩置県を実施することになるのである。

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幕末維新が好きなら、まずハマると思うゲームです。ぜひ一度プレイしてみてください。


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明治維新もここまでくると、大方まとまりがついたかな、という頃かと思っていたんですが、なんの維新の苦労はここからですね。

そもそも今までにない政策を実施しないといけないわけですから、その苦労は半端じゃないと思います。

今の歴史も将来教科書などに書かれるわけですが、小泉首相の評価はどんな感じになるのかなあ。あと人の批判ばっかりで実績のない議員とか。教科書にも一行くらいしか載らなかったりしてね(笑)。

それにしても最近微妙に忙しくて、なかなか更新できないです。すいません。来週もこんなことになるかも…。

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伊藤博文暗殺 明治42年(1909)

2011-06-25 17:34:21 | 歴史隠れ話

歴史かくれ話と今日は何の日



「「今日は何の日?」明治時代」カテゴリ 記事一覧

・伊藤博文暗殺 明治42年(1909)
・鳥居耀蔵没す 明治7年(1874)
・黄海海戦 明治27年(1894)
・大村益次郎襲撃される 明治2年(1869)
・「君が代」が正式に国家となる 明治26年(1893)
・ちょんまげを落とすことを認められる 明治4年(1871)
・明治天皇崩御 明治45年(1912年)
・廃藩置県の詔書出る 明治4年(1871)
・明治天皇に国産ビールが献上される 明治10年(1877)
・版籍奉還 明治2年(1869)


2006年10月26日




伊藤博文暗殺 明治42年(1909)



この暗殺事件が起きたのは日本国内ではなく、満州のハルピンであった。

伊藤博文は、南満州鉄道などの権益の確認のために満州に渡っていたが、日露戦争の敗戦後もロシアは不凍港を求めて東進を狙っていたため、伊藤はこの時にロシア側の要人と会談を行って、利害関係の調整をすることになった。

伊藤博文は部下と共に奉天からの列車に乗って、午前9時にハルピンに到着。ハルピンではロシア側とハルピン駐在の警備員、ロシアの軍楽隊などが待っており、列車が到着するとロシアの使者であるココチェプ財務大臣が列車の中に入っていって、伊藤に挨拶をして連れ立って列車を出たという。

ホームで軍楽隊の演奏が鳴り、伊藤は儀杖兵を閲兵、列国外交官らの挨拶を受けた後、ロシア兵の前のさしかかった。

その時銃声が響いた。まず3発。人々がざわめく中でさらに4発。弾丸は伊藤と側近に命中しており、伊藤はうめき声をあげて崩れた。

その直後である。ロシア兵の後ろから一人の東洋人が「朝鮮万歳!」と叫んで拳銃を高々とあげると、それを捨てた。この男こそ、伊藤博文暗殺の犯人とされる安重根30歳であった。

撃たれた伊藤はすぐに列車内のベッドに運ばれた。意識はあったので、勧められたブランデー一杯を飲み干した。
「誰がやったのか?」
「朝鮮人のようです。」
それを聞いた伊藤は愕然として「馬鹿な…」と言いかけて絶命したという。

安重根はただちに取り押さえられていた。カトリック教徒だった彼は、伊藤の死を聞かされると、神に感謝の言葉を捧げた。安重根は以前から反日運動を繰り広げていた男で、今回も伊藤を狙ったものである。旅順の監獄に投獄された後、翌年3月26日に処刑された。
その行動から朝鮮では英雄として扱われている。

※写真は『伊藤博文を撃った男―革命義士安重根の原像』。暗殺事件の詳細を遺品資料と、地道な取材で追うノンフィクション。事件に興味がある方は必見。


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(補足情報)

●巻き添えで重傷を負った人
安重根の放った弾は全部で7発。伊藤の側にいた人間にも当たった。
被害者は、ハルピン駐在総領事川上俊彦、宮内大臣秘書官森泰次郎、満鉄理事田中清次郎の3人。


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伊藤をはじめ日本政府は、朝鮮のためとうたって朝鮮に介入していたんですが、朝鮮人にとっては、はた迷惑な話だったのかもしれませんね。当時の日本は日清戦争、日露戦争と意外な大勝利。ちょっといやらしい言い方をすると、のぼせていたのかもしれませんねぇ。

大村益次郎襲撃される 明治2年(1869)

2011-06-25 17:29:39 | 歴史隠れ話

大村益次郎襲撃される 明治2年(1869)




大村益次郎は、幕末期を代表する軍政家で、もと医師。実家が医者の家だが、村医者であり、特に裕福というわけでもなかったらしい。

そんな益次郎だが、緒方洪庵の適々斎塾で、医学以外に兵学や築城学、砲術などを学んで、兵法家の道も切り開いた。益次郎は、実はこの後、故郷に戻って実家の医業を継ぐのだが、幕末の動乱のなか、益次郎の才能は伊予宇和島藩に聞こえていて、やがて招かれて宇和島藩で兵法家として活躍することになる。

紆余曲折あって、37歳で故郷の長州藩に仕えてその兵法や軍政の才能を発揮する運びとなった。益次郎の兵法、軍政は素晴らしく、戊辰戦争における上野彰義隊討伐、続く会津戦争、函館五稜郭と新政府軍の本部で辣腕を振るい、新政府軍の中心人物となっていった。

益次郎が襲撃されたのは維新成った明治2年。維新が成ったと言っても、まだまだ改革の途上であった。明治維新は、根本的に世の中の仕組みを変えるという一大改革であったから、新体制で不利を得る者は、改革に反対意見を唱えるものもいた。そして、その改革を主導した人物が狙われることもあったわけである。その風潮の中で大村益次郎も襲われた。

益次郎は、軍政家であったから、改革でも兵制の改革に取り組んだ。そして、こういう方針を打ち立てた。「武士の軍隊の解散と廃刀」である。これが、旧藩士の連中に猛反対された。武士の特権がなくなるわけだから、まあ当然といえば当然である。

益次郎が襲撃されたのは、軍事施設調査のために京阪地方に来ていた時であった。
益次郎が京都木屋町に旅館に帰ると、静間彦太郎、安達幸之助、山田善次郎などが訪ねてきた。いずれも益次郎の知人で、静間は大隊司令官、安達は英学教授であった。そして、明るいうちであったが、酒宴を催しながら談笑に及んでいたらしい。

やがて暗くなり始めたころに8人の刺客の襲撃を受けたのである。刺客の目標はもちろん益次郎で、真っ先に狙われた。益次郎は初太刀で額に浅傷を負う。そして、咄嗟ににとった刀で次太刀を受けようとしたが、振り下ろされた刀は鞘を伝って、右膝に骨まで刺さる重傷を負った。しかし、益次郎はそこでは死ななかった。うまく隠れて難を逃れたのである。他の3人はあえなく斬殺されたのだが。

だが、益次郎の膝の傷はやがて破傷風となり、右大腿部を切断。その後再び悪化して11月5日に死亡した。ちなみに刺客の8人は全員逮捕されて、斬首になっている。

⇒大村益次郎殉難碑周辺の地図(livedoor地図情報)
※地図にはありませんが、この辺にあります。

※写真は『風雲児たち 幕末編 8 (8)』。表紙が益次郎です。「歴史大河ギャグ」の本作ですが、割と細かいことまで描かれています。この巻は表紙になっているだけあって、最初の方は益次郎が多めに登場。この他に『風雲児たち 幕末編 5 (5)』にも登場して、シーボルトの娘・イネにいい台詞を言ってくれます。ちなみに『風雲児たち 幕末編 (9)』にも登場。

※大村益次郎を主人公とした大河ドラマもあります。司馬遼太郎原作の『NHK大河ドラマ総集編 花神』。大河の幕末モノはヒットしないというジンクスがあるようですが、…まあこの作品も地味といえば地味ですかね…(笑)。幕末好きなら絶対面白いと思うんですがねぇ。
原作はこちらです⇒『花神〈上〉』、『花神 (中)』、『花神 (下巻)』


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(キーワード)

●大村益次郎(おおむらますじろう)

村田良庵、村田蔵六と称し、のち大村益次郎。

緒方洪庵の適塾の門下生で、塾頭にまでなった傑物。宇和島藩の伊達宗城に招かれ出仕し、藩の蘭学推進や西洋船建造計画に力を尽くした。この頃、シーボルトの娘イネに医学を教授したという。

のち、幕府に出仕し、蕃書調所教授手伝、講武所教授。1860年には萩藩(長州)に迎えられ、66年の幕府による第二次長州征伐で、軍略の冴えを見せつけた。次いで、戊辰戦争でも軍略面で活躍し、明治維新後は、新政府の軍制改革を提案した。しかし、革新的な発言をしてきたため、守旧派からは恨まれ、69年9月、京都木屋町の旅館で襲撃を受け、11月に没した。

肖像画を見ると、やたら額が広く、頭がでかい。脳みそギッシリなのね。
⇒肖像画を見たい方はこちらへ(国立国会図書館『近代日本人の肖像画』様)。


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大村益次郎は、私は『風雲児たち』で詳しく知りました。すごいカタブツとして描かれてましたがマジなのかな…?
しかし、襲撃の様子がどことなく坂本龍馬と似ているような…。書き方ひとつで変わるというヤツですかねえ。

「君が代」が正式に国家となる 明治26年(1893)

2011-06-25 17:26:03 | 歴史隠れ話

2006年08月12日






「君が代は 千代に八千代に 細石の 巌となりて 苔のむすまで」

これが日本の国家・君が代の歌詞である。君が代は、もとは祝祭日の祝礼儀式に選定唱歌が必要だったため、文部省が選定して国家となったものだという。

歌詞は「主君(我が君)の寿命(御代)が、千代にも八千代にも末永く続きますように。小石がやがて大岩となって、そこに苔が生えるようになる時までも」という意味で、つまり、主君の命(統治時代)の永遠を願う歌というわけである。

この歌詞には原型があって、それが歴史上の著名な歌集に収録されている和歌であるらしい。代表的なものとして二首が挙げられるが、その一つ目は奈良時代に編集された『万葉集』の228「妹が名は 千代に流れむ 姫鳥の 小松がうれに 苔生すまでに」。もう一つは平安時代の『古今和歌集』の巻第七賀歌343「わが君は 千代に八千代に 細れ石の いはほとなりて 苔のむすまで」。

ただし、これらの他に、平安時代の『和漢朗詠集』の下巻には、今記載した『古今和歌集』に出ている歌の「わが君」の部分が「君が代」になっている歌が記載されているらしく、「君が代」の原典はこれであるとも言われる。

要するに国家制定当時の国民感情が、この歌にぴったりであったということであろう。

君が代には、はじめ英国調の曲がついていたという。これはイギリスの軍楽長だったジョン・ウイリアム・フェントンという人が作ったもので、薩摩藩の幹部が彼の指揮する軍楽を大変気に入り、頼み込んで作ってもらったものらしい。

しかし、やはりイギリス人のつくったものでもあるし、英国調の曲であったため、和歌にはいま一つしっくりこないということで、明治9年ごろ、海軍の中村祐庸という人物が、「新たな楽譜の作成の建議を」と申し出た。そこで、海軍が依頼して宮内省が作曲にあたることになったのである。

現在もそのときに作られた曲が歌われているが、これは林廣守作曲、ドイツ人のエッケルト編曲のものである。

⇒君が代の由来となったといわれるさざれ石がある岐阜県のさざれ石公園周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は君が代を様々なバージョンで収録した最強の君が代CD『君が代のすべて』。こんなん売っていたんですね~。CDショップで3年くらいバイトしてたことありますけど、こいつは知りませんでしたよ。なんかウイリアム氏の作った君が代初期バージョンも収録されているっぽいですよ。(確認はしてないので気になる方は問い合わせてから購入してネ。)

※君が代歌唱強制問題についての本⇒『「日の丸・君が代」強制の次に来るもの』。


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君が代は、今は学校の卒業式なんかで「歌いたくない」と言って、歌わない先生や生徒もいるようです。それで処分を受けた人もいるんですよね。拒否の理由は詳しくはわかりませんが、歌詞の内容の解釈によっては、「そのような内容の歌を強制的に歌唱せねばならないというのはおかしい」ともなるのかもしれないですね。私は特に気になりませんけど…。

歌詞の内容に関することでの歌唱拒否となると、やはり根本的な問題ですからね。今後は、いろいろと協議しなくてはならないようにも思います。

楠木正成の挙兵 元弘元年・元徳3年(1331)

2011-06-25 00:48:23 | 歴史隠れ話

歴史かくれ話と今日は何の日


2006年09月14日


楠木正成の挙兵 元弘元年・元徳3年(1331)


鎌倉幕府の悪政に心を痛めていた後醍醐天皇は、ついに笠置山で挙兵した。これに呼応して赤坂城で挙兵したのが、悪党としても名高かった楠木正成である。正成は、これ以降、後醍醐天皇に味方して、鎌倉幕府の滅亡に一役買い、さらに後に反旗を翻すことになる足利尊氏とも戦うことになる。

赤坂城は、特にこれといった防御施設のない小さい城だったが、正成はゲリラ戦術を展開して、幕府軍を散々翻弄した。その上で、一週間くらいしてから兵糧が尽きると、さっさと城に火を放って退却した。風雨の激しい夜の撤退劇だったという。

⇒赤坂城跡周辺の地図(livedoor地図情報)


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(その他の9月14日の出来事)

●熊谷直実没 承元2年(1208)
⇒熊谷直実は、源頼朝の御家人だったが、一ノ谷の合戦で平敦盛を討った話は平家物語などでも有名。のち出家して蓮性と名乗った。

●春日局没 寛永20年(1643)
⇒3代将軍徳川家光の乳母。実は明智光秀の家来・斉藤利三の娘である。

●山崎闇斎没 天和2年(1682)
⇒江戸前期の儒学者・神道家。垂加神道の提唱者である。

●ムシ歯の原因判明 1683年
⇒ムシ歯は、口腔内の微生物による酸化作用のためと考えられているが、これを発見したのがオランダの博物学者・レーウエンフクという人物だったという。


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楠木正成といえば、すごい戦術に長けていたというイメージですが、要は掟破りの実用的な作戦を立てて戦ったということなんですよね。あまりにも型にはまらない戦いぶりだったために、まったく予想もできずに敵は倒れていくという…。

事によっては、ルールどおりにやっていればいいというもんでもないですなあ