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白虎隊はそのなかでも一番若い16~17歳の少年343名で編成されていた隊である。

2011-06-12 13:20:32 | 江戸時代のビッグ二ユース



歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


2006年08月23日




白虎隊自刃 慶応4年(1868)

幕末の動乱のさなか、会津藩では藩内の軍制を洋式に改め、さらに隊を4隊に分けた。すなわち白虎、朱雀、青龍、玄武の4隊であり、白虎隊はそのなかでも一番若い16~17歳の少年343名で編成されていた隊である。

会津藩は戊辰戦争では幕府軍として戦ったが、会津に攻め込まれる頃にはすでに旗色は悪くなっていた。やがて、会津藩はまさに城下に入られるかどうかの瀬戸際に立たされることになったのである。

「新政府軍は猪苗代から十六橋(猪苗代湖方面から会津に入る時の白河口にあたる重要地)を渡って進攻してくる」という報告を受けた藩首脳部は十六橋死守のため、増援を送ることを決定。これに特に願い出て白虎隊も従軍した。
ところが、到着を前にして悪い報せが届く。「すでに十六橋は突破され、現在戸の口原で応戦中」というのである。白虎隊は藩主・松平容保から戸の口に向かうよう命ぜられた。

白虎隊は一中隊37名で、このときは2中隊が編成されたが、この第二中隊の隊長が、日向内記という人物である。

白虎隊が戸の口についた頃は、ちょうど風雨が強く、一時休戦状態にあった。そこで、日向はこの間に、とりあえず食事をとろうと考えたが、うっかり兵糧を用意してこなかったことに気づいた。そこで、自ら兵糧調達のために本陣に引き返していった。

しかし、日向隊長がまだ戻らない翌日の明け方、戸の口の攻防が再開された。味方の会津兵が戦っているのを隊長不在と言えどもただ見ていられるはずもない。白虎隊も仮の隊長を選定して、ただちに戦闘に加わった。だが、兵数も兵装も差がありすぎる、白兵戦も行われたが、会津藩軍は破れ、白虎隊も20人ほどに減っていた。

生き残った隊士たちは、再起を願って退却。滝沢山麓の灌漑用水路を通って飯盛山に抜けた。白虎隊は、「よもやお城は無事であろうか」と高台に登り、会津鶴ヶ城を遠くに見て愕然とした。「城が燃えている…」。隊士たちは藩の敗北を感じて、失意のうちに次々に切腹したり、刺し違えたりして死んでいった。

しかし、実はまだこの時点では、鶴ヶ城は落城していなかった。城下では火災は発生していたので、その火災を城も燃えていると勘違いしたという。
全員が命を断とうとしたが、近所の女性に発見され、奇跡的に飯沼貞吉という少年だけ、どうにか一命をとりとめた。

なお、戦闘中に捕らえられた隊士たちは耳や鼻をそぎ落とされ、手足を折られるなどの残酷な方法でなぶり殺しにあったという。

※写真は飯盛山にある白虎隊士の墓(上)と、隊士が飯盛山に逃げてくる時に通ったという戸の口水路(下)。
⇒飯盛山白虎隊士の墓周辺の地図(livedoor地図情報)


↑は今なお感動の傑作として高い人気を誇る日テレ時代劇の『白虎隊』。見ると史跡訪問したくなるくらい影響される名作。

※文春新書の『白虎隊』は、一般的に知られる白虎隊ばかりではなく、白虎隊の史実での実像を細かく記した白虎隊のことを知るのに最適な本。安いしね。

※おなじみ歴史群像シリーズ『会津戦争―痛憤白虎隊と河井継之助』なら、白虎隊のみならず、幕末の会津・長岡戦争の詳細が載っています。写真や図も多いので初心者にもオススメ。


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(キーワード)

●白虎隊(びゃっこたい)

幕末の会津藩の軍制改革によって編成された年齢別部隊のうちの1隊で、隊長を除いて主に16~17歳の少年たちで編成。なお、このほかの部隊名は、朱雀、青龍、玄武で、聖獣4体の名がとられていることがわかる。

白虎隊は編成当時は343名であったが、若年ということもあって、戦闘への出陣を命ぜられることは少なかったという。しかし、猪苗代方面の要衝・十六橋が突破されると、白虎隊士37名も迎撃に動員された。
そして、戸の口原で友軍と共に新政府軍を相手に戦ったが、兵数はもちろん、兵装にも差がありすぎる(旧式鉄砲と新式など)。ついに会津軍は敗走。白虎隊も生き残りが、飯盛山まで逃れたが、高台から見た城下の焼ける姿に絶望して、総じて自害した。

しかし、この惨劇はすぐに発見され、飯沼貞吉という少年だけは一命を取り留めた(基本的に「蘇生」とされるので、ほぼ死亡状態だったものと思われる)。


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白虎隊は、中学生くらいのときに始めて興味を持ちました。こういう悲劇的な歴史にはいろいろな意味で興味を引かれるんですね。すぐ発見されて、一人だけ蘇生したというのは不幸中の幸いというところでしょうか。

今、飯盛山に行くと、山の中腹には観光者向けの商店が並び、山上までのスロープコンベアなどもあり、かなり賑やかです。
面白いのは「さざえ堂」なる螺旋状の建物。なんじゃこりゃ。

藤原定家は、日本を代表する古典勅撰和歌集の8部作「八代集」の一つ、『新古今和歌集』の選者

2011-06-12 13:08:42 | 歴史隠れ話


歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


2006年08月20日


藤原定家死去 仁治2年(1241)
藤原定家は、日本を代表する古典勅撰和歌集の8部作「八代集」の一つ、『新古今和歌集』の選者として知られる。

彼は16歳頃から歌道の世界に入り、歌人として高い評価を得ているが、歌道だけでなく、文学の方にも明るく、晩年は古典研究などもしている。また、彼の書いた日記『明月記』は、1180年から1235年までという長期間にわたって残されており、しかも定家が朝廷や鎌倉幕府の要人にも知り合いが多かったため、同時代のことを知る貴重な史料となっている。

天才的な才能をもって、順風満帆の人生だったろうと思ってしまうが、実は定家にも弱みはある。それは少年期に重病を二つも患っていることだ。

定家は、14歳で赤斑瘡で生死の境をさまよい、16歳では天然痘にかかった。どちらもなんとか快癒したが、後者の後は呼吸器に病をもったらしく、この病には逐一悩まされたという。

『明月記』の中でも、自分の体の衰えを嘆いて、「毎年、冬になると体調が悪くなる」などと記しているというが、定家が死亡したのは、なんと80歳のときであった。病気がちだっただけに、健康には人一倍気を使っていたのかもしれない。


※写真は岩波文庫の『新訂 新古今和歌集』。当代随一の歌人だった定家の選ぶ名歌を知りたいなら、やっぱり原典。

※『「明月記」をよむ―藤原定家の日常』は、定家の生きた時代背景もわかる明月記の研究本。私は読んだ事ないですが、この本の出版社である三一書房はいい本が多いので、一応オススメしておきます。


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●藤原定家(ふじわらのさだいえ)

鎌倉時代を代表する歌人。京都中納言。俊成の子。名前は「ていか」とも読む。
定家は、少年期に二度も病で生死の境を彷徨っている。14歳で赤斑瘡、16歳で天然痘である。さらに、呼吸器にも病を得て苦しめられたという。

定家は、16歳の頃に父の影響で詠作を始め、歌人としての階段を登り始める。後鳥羽上皇にも作品を高く評価され、勅撰和歌集である『新古今和歌集』の選者の一人となった。また、九条良経らのもと新風和歌を開拓。歌人としての名声も高まったが、にわかに後鳥羽上皇の怒りを買って閉門となってしまった。

1233年出家。35年には『新勅撰集』を自分一人で撰進。晩年は古典研究など文学関係の分野にも足跡を残している。著書に『近代秀歌』、『詠歌大概』などがある他、50年以上の記録が残っているという日記『明月記』も史料として高い評価を受けている。

仁治2年(1241)8月20日死去。享年80歳。


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私は「ふじわらのていか」って覚えてましたけど、事典には「さだいえ(ていかとも)」で載っているようですね。生死に関わる病をやっていたことなどは知りませんでした。でも80歳…。
徳川家康もかなり健康に気を使っていたといいますが、死亡時の年齢は75歳です。うーむ…。