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徳川吉宗が八代将軍になる 享保元年(1716)

2011-06-10 11:10:13 | 江戸時代のビッグ二ユース

歴史かくれ話と今日は何の日


2006年08月13日


徳川吉宗が八代将軍になる 享保元年(1716)

徳川吉宗といえば、TVドラマ「暴れん坊将軍」や、大河ドラマ「八代将軍吉宗」などで主人公に取り上げられている、よく知られている将軍だ。

しかし、この吉宗、実は徳川宗家(家康の直系)の人間ではなく、御三家の一つである紀州徳川家の人間である。しかも吉宗は、四男であり、本来であれば将軍職どころか紀州和歌山藩を継ぐこともなく、一生を部屋住みで終えてもおかしくない境遇であった。

吉宗の父は、紀州家2代藩主の徳川光貞という人で、吉宗は光貞のお手つきとなった低い身分の女性の子であるという。そのため、吉宗は3人の兄とは差別されて育った。

不遇の少年期を過ごした吉宗であったが、14歳のときに江戸で当時の将軍綱吉に気に入られて、なんと越前丹生郡3万石を与えられた。一躍大名になることができたのだ。これだけでもなかなかの強運だが、さらに、宝永2年(1705)には、父・光貞、長兄・綱教、三兄・頼職が相次いで死去した(次兄はもっと早くに死亡している)。この間、わずかに4ヶ月ほどである。これにより、吉宗は和歌山藩主の座につくことになった。

吉宗の強運はさらに続く。折りしも6代将軍・家宣の死期が近づいていたのである。家宣は将軍職を子の家継に譲るとしていたが、家継はまだ4歳で、しかも病弱だったので、家宣は尾張・紀伊・水戸の御三家に家継の補佐を命じた。やがて、家宣が亡くなると、御三家はその遺言に従って家継を補佐したが、こともあろうにその家継もわずかに8歳でこの世を去ってしまう。

8歳では当然ながら継嗣はいない。となると、初代家康の定めた決まりに従って将軍を選出することになる。すなわち、「宗家に子のなき時は、御三家より将軍にふさわしき者を選ぶべし」である。

ただちに御三家の状況を鑑みて将軍の選出が行われた。
まず、御三家筆頭尾張藩は、ちょうど同時期に全藩主の死により、傍系の継友が後を継いだばかりだからダメ。紀州の吉宗は藩政も優れているというので、これは候補の一人。もう一つの御三家である水戸藩主の綱条(つなえだ)は、この年62歳で将軍職を今から継ぐには高齢すぎる。こういう事情で、ついに吉宗は将軍にまでなることができたのである。

吉宗は強運の持ち主であったようだが、兄弟の相次ぐ死などは不自然な点でもあると指摘もされている。果たして吉宗は運よく将軍になれたのか…それとも、自らも手を汚してなるべくしてなったのか…。

⇒吉宗の出身地である和歌山藩の和歌山城周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は1995年の大河ドラマ『八代将軍 吉宗 総集編』。「病気が治ると突然西田敏行」で有名(笑)な名作大河。ジェームス三木の脚本は、時代背景に沿っていながら、笑えるシーンもあって見ていて楽しい大河です。近松門左衛門=江守徹の語りもサイコー。平均視聴率26.4%の好評作です。総集編はちょっと物足りないですが、時間のない方にはオススメ。

※本としては個人的には『徳川吉宗のすべて』がいいと思うんですが、あまり評判はよろしくないです…。
※健康状態に言及した『徳川将軍家十五代のカルテ』もオススメ。他の将軍のこともわかりますよ!


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●御三家(ごさんけ)

橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦の3人…ではなく、郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎の3人…でもない。

徳川将軍家の一族のうち、尾張、紀伊、水戸に領地を持つ3家を指す。徳川宗家に後継者がいなくなった場合には御三家から将軍を出すと決められていた。

尾張は61万石で、初代藩主は家康の9男である義直。紀伊は55万石で、初代は家康の10男頼宣。水戸は35万石で、初代は家康の11男頼房であった。御三家の中でも石高順に尾張、紀伊、水戸の順の格式で呼ぶことが多い。
用意周到な家康らしく、宗家に継嗣がいない場合には後継者となれる資格を有するが、基本的には将軍家の補佐役であった。ただし、親藩大名としても別格なのは言うまでもなく、特別待遇を受けたりもしていた。


●徳川吉宗(とくがわよしむね)

江戸幕府8代将軍。暴れん坊将軍としても有名だが、実際にはもちろんあれほど暴れん坊ではない。

もともと紀州の徳川分家の子で、将軍になった経緯もかなりのラッキー男と言える。定免法の採用や、倹約令、目安箱、足し高の制などの構造改革・享保の改革で幕府の財政建て直しに奮闘、それなりの結果を残した。目安箱や倹約令での自身の質素ぶりが民衆にも評判で、将軍にしては庶民的な印象があるらしい。

だが、暴れん坊将軍は庶民的すぎて、いつか斬られないかと不安でならない。


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徳川吉宗は、江戸幕府の15人の将軍の中でも有名なほうですよね。名前に「家」の字がつかないし…。

徳川将軍って、家のつく人で有名なのって家康と家光だけ?っぽくないっスか?個人的には、家康、家光、綱吉、吉宗、慶喜の5人がよく知られた将軍だと思っているんですが、5人中3人は「家」がつかない。でも、徳川将軍家全体で見ると、15人中実に11人が「家」のつく人々。これはなかなか奇妙な確立…。まあ知られていれば、いい政治をしていたというわけでもないですがね。

「君が代」が正式に国家となる 明治26年(1893)

2011-06-10 10:59:17 | 重大ニユース

歴史かくれ話と今日は何の日


2006年08月12日


「君が代」が正式に国家となる 明治26年(1893)

「君が代は 千代に八千代に 細石の 巌となりて 苔のむすまで」

これが日本の国家・君が代の歌詞である。君が代は、もとは祝祭日の祝礼儀式に選定唱歌が必要だったため、文部省が選定して国家となったものだという。

歌詞は「主君(我が君)の寿命(御代)が、千代にも八千代にも末永く続きますように。小石がやがて大岩となって、そこに苔が生えるようになる時までも」という意味で、つまり、主君の命(統治時代)の永遠を願う歌というわけである。

この歌詞には原型があって、それが歴史上の著名な歌集に収録されている和歌であるらしい。代表的なものとして二首が挙げられるが、その一つ目は奈良時代に編集された『万葉集』の228「妹が名は 千代に流れむ 姫鳥の 小松がうれに 苔生すまでに」。もう一つは平安時代の『古今和歌集』の巻第七賀歌343「わが君は 千代に八千代に 細れ石の いはほとなりて 苔のむすまで」。

ただし、これらの他に、平安時代の『和漢朗詠集』の下巻には、今記載した『古今和歌集』に出ている歌の「わが君」の部分が「君が代」になっている歌が記載されているらしく、「君が代」の原典はこれであるとも言われる。

要するに国家制定当時の国民感情が、この歌にぴったりであったということであろう。

君が代には、はじめ英国調の曲がついていたという。これはイギリスの軍楽長だったジョン・ウイリアム・フェントンという人が作ったもので、薩摩藩の幹部が彼の指揮する軍楽を大変気に入り、頼み込んで作ってもらったものらしい。

しかし、やはりイギリス人のつくったものでもあるし、英国調の曲であったため、和歌にはいま一つしっくりこないということで、明治9年ごろ、海軍の中村祐庸という人物が、「新たな楽譜の作成の建議を」と申し出た。そこで、海軍が依頼して宮内省が作曲にあたることになったのである。

現在もそのときに作られた曲が歌われているが、これは林廣守作曲、ドイツ人のエッケルト編曲のものである。

⇒君が代の由来となったといわれるさざれ石がある岐阜県のさざれ石公園周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は君が代を様々なバージョンで収録した最強の君が代CD『君が代のすべて』。こんなん売っていたんですね~。CDショップで3年くらいバイトしてたことありますけど、こいつは知りませんでしたよ。なんかウイリアム氏の作った君が代初期バージョンも収録されているっぽいですよ。(確認はしてないので気になる方は問い合わせてから購入してネ。)

※君が代歌唱強制問題についての本⇒『「日の丸・君が代」強制の次に来るもの』。


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君が代は、今は学校の卒業式なんかで「歌いたくない」と言って、歌わない先生や生徒もいるようです。それで処分を受けた人もいるんですよね。拒否の理由は詳しくはわかりませんが、歌詞の内容の解釈によっては、「そのような内容の歌を強制的に歌唱せねばならないというのはおかしい」ともなるのかもしれないですね。私は特に気になりませんけど…。

歌詞の内容に関することでの歌唱拒否となると、やはり根本的な問題ですからね。今後は、いろいろと協議しなくてはならないようにも思います。


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足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられる 延元3年・暦応元年(1338)

2011-06-10 10:36:43 | 江戸時代のビッグ二ユース



歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


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2006年08月11日


足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられる 延元3年・暦応元年(1338)

足利尊氏は室町幕府の初代将軍として知られているが、もとは鎌倉幕府の有力御家人である。足利家は関東の下野(栃木県)などを領する源氏の一族で、尊氏は、最初は「高氏」と書いた。

当時、鎌倉幕府の事実上の権力者である執権は、14代北条高時だったが、高時は政治を顧みず、闘犬など趣味に夢中になって、世間の評判を大いに落としていた。
この状況を何とかしようと、討幕を考えたのが後醍醐天皇だ。後醍醐天皇は民のため、幾度か失敗しながらもついに討幕を成功させるが、この時鎌倉幕府の中にも高時の堕落ぶりを憂い、天皇に味方したものがいた。その一人が足利高氏である。

高氏は、倒幕に成功した後も後醍醐天皇の建武政権に従った。天皇からの信頼も厚く、天皇の諱である「尊治」から一字を賜り、「尊氏」と名乗ることを許されるほどであった。

ところが、建武政権の理想は、かつての天皇親政で善政を強いていた時代にあり、公家を中心としたものであったため、公家に比べて武家は冷遇され、武士たちの間には不満の声が聞こえ始めていた。やがて、これらの武士たちは、源氏の血を引く有力武士である尊氏の決起に期待するようになっていった。

そんな折、北条高時の遺児・時行が東国で反乱を起こした(中先代の乱)。後醍醐天皇は、満を持して尊氏にこれの討伐に向かうよう命を出したので、尊氏はそれならばと、征夷大将軍の位を望んだ。
征夷大将軍とは、もともと朝廷に反抗する東国の夷荻討伐の司令官としての任であり、そのための称号であったから好都合だと思ったのであろう。しかし、後醍醐天皇は尊氏の任官は許さなかった。天皇もこの頃には尊氏を警戒していたのである。

実はこの時点では、尊氏本人にはまだ後醍醐天皇に叛くという明確な意思はなかったようであるが、弟・直義などから説得され、中先代の乱を鎮圧後も、尊氏は京都に戻らなかった。そして、間もなく、天皇に対して叛旗を翻すのである。

尊氏は、天皇軍の北畠顕家、新田義貞、楠木正成などと戦い、その間に光明天皇を即位させる。後醍醐天皇も状況を鑑みて、一旦はこれを認めるそぶりを見せたが、すぐに密かに大和(奈良県)の吉野に脱出し、吉野を都と定め、自身が正式の天皇であると主張した。これにより、南北朝の動乱が始まるのである。

尊氏が征夷大将軍に任じられたのは、こうした激動の時代の真っ最中。北畠顕家や新田義貞を敗死させた後、ついに光明天皇から征夷大将軍に任じられたのだ。しかし、この時点では、すでに尊氏はほぼ政権を手中にしており、征夷大将軍への補任は、名目をも備えたにすぎないとも言える。


※写真は尊氏の小説『風の群像―小説・足利尊氏〈上〉』。この小説は、時代背景をあまり知らなくて、読みながらわかっていくので問題ないという、面白くて知識も増える良質な小説です。尊氏・直義を中心に人物の描写も個性的で生き生きとしており、個人的にお気に入りの作品です。
…今、この記事書くのに本棚あさったんですが、上巻しか見つからないんですが…。下巻どこいったんだろ…。最悪買いなおしか…!!?


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●足利尊氏(あしかがたかうじ)

足利幕府初代将軍。初名は高氏。貞氏の子。「尊氏」の「尊」は後醍醐天皇の諱「尊治」の一字である。

元は鎌倉幕府の将であったが、14代執権北条高時の堕落ぶりから幕府に見切りをつけて、当初倒幕計画を進めていた後醍醐天皇に寝返って、京都の六波羅探題を攻略した。

その後、後醍醐天皇の建武の新政に従うが、これも尊氏の理想とは異なるものだったため、北条高時の遺児・時行の乱(中先代の乱)の討伐のため東国に下った際、そのまま東国に残って、間もなく反後醍醐天皇の兵を挙げる。
1336年、新しく持明院統の光明天皇をたてて、幕府を開く目的のもとに、当面の政治方針を明らかにした建武式目を発表。しかし、後醍醐天皇も自身の親政を諦めてはおらず、吉野に移って正当な皇位は自分にあることを主張したため、ここに南北朝の動乱が勃発する。

尊氏は、1338年、ついに光明天皇から念願の征夷大将軍に任じられ、弟の直義と共に政治をとった。しかし、直義と、尊氏の執事で幕府内でも大きな発言力を持っていた高師直の意見が衝突。この対立の構図は、やがて尊氏と直義の対立にシフトしていき、ついに1350年、骨肉の争いに発展してしまった(観応の擾乱)。この乱は、結局和睦となったが、その後、直義の存在を危ぶんだ尊氏が直義を毒殺したと言われている。

有名な髷を落とした尊氏画像があるが、あれは、中先代の乱の後、当初は後醍醐天皇に叛く気はなかった尊氏が、直義らの説得を受けて、京都に帰ろうかどうしようか迷っているうちに天皇が尊氏を本格的に疑い始めたと聞いて、「髷を落として謝罪する」と言い出して落としたものであるという。結局直義らの説得を受けて後醍醐天皇に叛くのだが、勢いで切った髷はどうにもならないので、そのままだというわけだ。
ただし、この画像については、近年「尊氏ではなく、高氏(こうし:師直の一族)の誰かだ」という指摘が成されている。どうやら腰に指している刀の柄に高氏の家紋があるというのがその根拠であるようだ。うーむ、真実は如何に…??


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尊氏像と伝わる画像は実はあの画像だけではないのですが、尊氏といえば、あの顔を思い浮かべてしまいます。今更「実は違う人でした」って言われてもなあ。ピンとこないよ。あの顔はやっぱり尊氏でこそピンとくるッス。

ちなみに尊氏の他にも源頼朝像が実は足利直義と言われていたり、武田信玄像が実は能登半島の大名・畠山義継であると言われていたりします。あと、お札にもなった聖徳太子像が「本当は太子じゃなくて中国の偉い人じゃないの?」とかいう説もあるとか。…どないやねん