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2011-06-14 19:51:54 | 今日は何の日


歴史かくれ話と今日は何の日


2006年08月29日


家康の正妻・築山殿、夫に殺される 天正7年(1579)

徳川家康は晩年、側室ばかりに子を成したことで知られるが、数回正妻も迎えてはいる。家康の最初の正妻がこの築山殿である。

家康は、まだ今川義元に従属していた時に、義元の仲立ちで築山殿と結婚した。築山殿は義元の妹婿関口氏広の娘で、当時は瀬名姫といった。気位が高く、しかも家康(そのときは元康と名乗っていたが「家康」で統一する)より年上だったので、家康は何かとこの年上の妻に気を使ったという。

ところが、永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれるという変事が起こる。
そのときはまだ今川に属していた家康だったが、義元の世継ぎである氏真は戦国大名としては暗愚で、家康としても氏真にまで従う義理はなかったから、この後すっぱり今川家を見限って、逆に織田家と結んだ。思えば、この行動がそもそも築山殿には気に入らなかったようである。

家康は、このときすでに築山殿を遠ざけるようになっていたが、さらに信長の娘・徳姫と築山殿が産んだ第一子・信康の婚姻を進めたため、これが築山殿にの不満を増大させた。
築山殿にとっては、織田家は伯父の仇。その織田家と同盟だけならまだしも婚姻関係になろうとは。しかも我が息子と織田の姫を結婚させようとは。築山殿の不満は、意に反して仲のよい信康と徳姫を見るに付け増大していった。

そこで、ついに不満は頂点に達し、築山殿はとんでもない計画を立てた。「家康を亡き者にして信康に後を継がせ、武田勝頼と呼応して仇敵信長を討つ」。実際にこういう計画があって、築山殿が武田と内通していたかについては、確かな史料がないため断定はできないが、あるいはそういう動きもあったかもしれないという。

しかし、徳姫が築山殿につらくあたられていたのは事実のようである。何かにつけて信康との夫婦仲を裂くような行為をされた徳姫は、耐え切れなくなって、父・信長へ12ヶ条の讒訴状を送った。
その中に、信康と築山殿が武田に内通しているという項目があった。これを見た信長のもとは、事実関係の確認のため、徳川家の説明を求めたが、その使者となった家康の重臣・酒井忠次はこの徳姫の書状にある内容のほとんどを認めてしまった。

そのため、ついに信長は、家康に2人を殺すよう命令。家康は泣く泣く将来を期待していた信康を切腹させ、築山殿も家臣に暗殺させた。ちなみに家康の命で築山殿を襲撃した人物は、野中三五郎、岡本平右衛門らである。

この時、信長への使者となった酒井忠次が、うまく釈明していればあるいは信康を殺さずにすんだかもしれない。その後の忠次は遠ざけられたわけではなかったが、重臣の家柄にしてはやや不遇な扱いを受けている。のちに忠次の息子・家次の禄高が少ないと家康に文句を言った時には「おまえでも息子はかわいいのか」などと皮肉を言われたという。

なお、この事件は信長が信康の器量を恐れてあれこれ理由をつけて殺させたという説もある。いずれにせよ、この時点では家康もここまで苦渋の決断をせねばならなかったということで、家康のまだ磐石ではない立場が察せられる。

⇒築山殿の首塚がある岡崎市の八柱神社周辺の地図(livedoor地図情報)
⇒墓はこちら(livedoor地図情報)

※写真は1983年の『NHK大河ドラマ 徳川家康 完全版 第壱集』。家康は最後まで善人としての描かれ方をしますが、家康の波乱に満ちた一生がリアルに描かれており、毎年やる大河の中でも屈指の名作だと思いますヨ。家康役は滝田栄。これがけっこうはまってます。築山殿事件ももちろん描かれています。
⇒『NHK大河ドラマ 徳川家康 完全版 第弐集』もどうぞ。
※ちなみに↑の完全版のBOXはたぶん限定生産です(単品も売ってます)。BOX購入を検討中の方はお早めに~。


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●築山殿(つきやまどの)

瀬名姫。駿河御前。徳川家康の正室。父の関口氏広は今川義元の妹婿だから、義元の姪にあたる。

弘治3年(1557)に、そのとき今川家の人質状態だった松平元康(のちの徳川家康)に嫁ぐ。しかし、築山殿は気位が高く、「なんで私がこんな人質の居候に嫁がねばならんのか」と結婚そのものに不満たらたらだったらしい。

とはいえ、夫婦は夫婦。やがて嫡男・信康と長女・亀姫を産んだ。

永禄3年(1560)、今川義元が桶狭間の合戦で討たれたのち、家康は旧領である三河の岡崎城に戻って今川氏からの独立を宣言したが、築山殿はこれが気に入らなかったらしく、遅れて岡崎城に入った。のち、家康が遠江を併合して浜松に移った際には、岡崎城は信康に与えられたため、信康と共に岡崎に残るなど、家康との仲はずっとあまりよろしくなかったようである。

やがて織田信長から信康もろとも武田家との内通を疑われる。築山殿は釈明しようとして浜松に向かう途中、遠江富塚で、夫の家康からの刺客に襲われて殺された。享年は38歳といわれる。

家康は、これ以降、身分の高い女性は好まず、死ぬまでに複数置いた側室も、割と低い身分の出身者が多かったという。トラウマだったとすれば、築山殿パワーはすごいね。


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私はお嬢様は苦手です。

家康の息子の秀忠公の嫁さんも年上の恐妻家ですね。まあ家康みたいな不満たらたらの恐妻家ではなくて、愛があったっぽいからいいですが。でも、秀忠公は、結局生涯正式には側室を持てなかったみたいですね。嫁さん怖くて。

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2011-06-08 10:38:25 | 今日は何の日

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2006年08月01日


筑紫国造磐井が反乱を起こす 継体天皇21年(527)

「筑紫国造磐井の乱(つくしのくにのみやつこいわいのらん)」と言っても、あまり知られている事件ではないので、多くの方にとってピンとこない事件ではないだろうか。

この乱は、聖徳太子の時代よりもさらに古い、527年に起きている。当時の日本は、いわゆる「古墳時代」で、各地の有力豪族たちが勢力を広げようとして、中国などの力を借りて争っていた。

争いは大王の跡継ぎを巡ってのものとなったが、やがて勢力を伸ばしていた越の国(当時の北陸地方の国)の男大迹王(おおとのきみ:継体天皇)が大和朝廷の大王として大和に迎えられる。これでひとまず、国内の混乱は終息したように見えた。

ところが、ここで朝鮮半島に重大な変化が訪れる。中国との貿易などで関係の深かった朝鮮半島南部の伽耶(伽羅ともいう)が、隣国の新羅に攻められ危機的状況に陥ったのである。

男大迹王は、ただちに援軍を派遣して、新羅を討つことを決定し、近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)という人物に命じて、軍隊を派遣したが、さらに九州北部で強い勢力を持っていた筑紫国造磐井にも兵を出すよう命令した。しかし、この命令に磐井が反抗。筑紫の隣国である火(肥)の国(熊本県あたり)や豊の国(福岡県あたり)に援軍を頼んで、大反乱を起こしたのである。

磐井は手始めに進軍してきた近江毛野臣の軍を攻撃し、大和朝廷の新羅進攻軍の進軍を阻んだが、これを知った大和朝廷も黙ってはいない。大和朝廷では、大王自ら物部麁鹿火(もののべあらかひ)に磐井を討つための斧鉞を与え、彼を磐井討伐軍の総大将とした。麁鹿火はただちに軍勢を率いて筑紫に出向。磐井の軍と激戦を繰り広げた。

磐井の乱は一年半の長きに渡って続いたが、継体天皇22年(528)の11月、筑紫御井郡で磐井と麁鹿火は最後の決戦に及んだ。ここでとうとう磐井は討ち取られてしまう。斬殺だったというが、一説には磐井は落ち延びたとも伝えられ、真相は不明である。ちなみに磐井の子である葛子は、筑前糟屋の屯倉を大和朝廷に差し出して、死罪を免れた。

なお、『日本書紀』などによると、磐井の乱は、以前から大和朝廷に反抗的だった磐井が、やはり以前から新羅の援助を受けており、この時、大和朝廷の軍勢が新羅を攻撃することを決めたことを受けて、新羅が磐井に進軍を食い止めて欲しいと依頼したものであるともいう。つまり磐井と新羅はグルだったということだ。
日本書紀の記述は、歴史書としては伝承的な部分も多いが、磐井は生前から自身のためのものと思われる巨大な古墳を築いたりしていたので、ありえる話ではあるだろう。

※この乱の勃発日については別説もあります。

⇒磐井の墓と伝えられている岩戸山古墳周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は『筑紫君磐井の戦争―東アジアのなかの古代国家』。多くの文献にあたっている本格的な研究書です。


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●筑紫国造磐井(つくしのくにみやつこいわい)

筑紫磐井、筑紫君石井ともいう。「筑紫国造」は、大和朝廷の職名。要するに地方政治を委任されている豪族ということである。

経歴については詳細はわかっていないが、継体天皇の新羅討伐軍参加への命令を拒否して反乱を起こし、約一年半に渡って大和朝廷軍と戦ったことがよく知られている。最終的には物部麁鹿火に討たれて斬殺されたようだが、落ち延びて姿を消したとも言われている。

「筑後国風土記」の逸文には、磐井が生前から巨大な墳墓を築いていたという伝承が記載されており、そこには石づくりの埴輪が並べられていたという。このことから、磐井はこの地に絶大な勢力を誇っており、かねてより大和朝廷に反乱を起こすことを目論んでいたとも考えられる。なお、この墳墓は現在の岩戸山古墳ではないかとされている。


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教科書では、「磐井が反乱を起こした」程度にしか習わないですよね。乱があったことは知っていたんですが、その中身はさっぱり…。今回調べてみて大まかなところはわかりました。

しかし、もし磐井が勝っていたら、日本の天皇制が揺らいでしまうのか…と思いましたが、磐井は磐井で応神天皇の子孫を名乗っていたそうです。一応、血のつながりはあるってことで、劇的な変化はない…のかな?

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2011-06-07 17:49:34 | 今日は何の日

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2006年07月30日


明治天皇崩御 明治45年(1912年)

明治天皇は在位1867.1.9~1912.7.30。45年という長期間在位した近代国家形成期の天皇である。

名を睦仁といい、孝明天皇の第二皇子であった。1860年に親王となって、先代孝明天皇の急死により1867年に践祚して皇位を継承した。江戸幕府の大政奉還は1867年の10月だから、幕末期も経験している天皇なのである。

歴代天皇中、唯一「大帝」と呼ばれる天皇で、ちょうど日本が近代国家として生まれ変わろうとする激動の時代の君主となった。明治天皇は、よく「大政奉還により、政権は天皇に返還され、明治新政府も天皇を頂点とした行政改革を進めたはずであるから、明治天皇は専制君主だった」…と思われがちだが、実際はそうではない。一言で言ってしまえば、基本的には明治維新に功のあった、政府の元老たちがほぼ全ての政治的、外交的、立法的決定を下していたのである。

ただし、これらは明治政府が天皇をないがしろにしていたということではなく、政府および政策・外交が、危機的状況に陥れば天皇が調整していた。特に、松方正義内閣は首相の松方自身が、望まないままに総理大臣の椅子に座ったこともあり、実に危機的状況に陥ることが多かったという。松方内閣は、第一次政権時に、選挙干渉問題で窮地に追い込まれ、松方も辞意を表明したが、この時は天皇に止められた。

結局は薩長首脳の圧力で退陣することになるのだが、少なくとも、最終的には天皇が政府の問題の調整をするということが見てとれる。また、松方内閣は、第二次政権の際にも政党事情から閣内での連立政権の画策などの迷走状態となり、天皇は混乱の元となっていた高嶋陸相と樺山海相と共に松方にも退陣するよう命じている。

天皇の指示による退陣は、この他に昭和4年(1929)の田中義一内閣の退陣があるが、後にも先にもこの2回だけであった。

明治天皇は、国の元首であり、統治権の総攬者とされ、陸海軍の統帥権や文武官の任免権、外交権などあらゆる権利を網羅していたが、実際の決定は政府が下していた。しかし、明治天皇も政治にまったくノータッチだったわけではなく、むしろ政府の先行きに関わる重要な場面での決定は明治天皇が下していたことも多いと言えそうである。

なお、明治天皇は1894年からの日清戦争時にはその軍隊の統帥権を発揮し、広島に置かれた大本営に移って、国務・統帥にあたっている。
明治45年(1912)7月29日、尿毒症によって崩御。ただし、宮内省からの正式発表は30日であったとされる。9月13日大葬。

文明開化のシンボルともされるが、写真などは嫌いで、明治天皇を写した写真も数少ない。

⇒明治天皇陵(伏見桃山御陵)周辺の地図(livedoor地図情報)
⇒明治神宮周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は『明治天皇―幕末明治激動の群像』です。私は読んだ事ないですが、天皇家から見た幕末・明治の時代の本みたいですね。面白そうですね。

※『明治大帝』は、明治天皇について非常に詳しいのでオススメです。ある程度の予備知識がある人にもオススメ。


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(補足情報)

●明治天皇の趣味

趣味とまで言えるかどうかになるとそうでもないのかもしれないが、薩摩琵琶を好んで弾いておられたという。また、犬や馬が好きであられたらしい。
一方で、西洋文化は好まず、写真はもちろん、電灯も嫌ったといわれる。


●誕生日が文化の日

明治天皇の誕生日は5月3日。文明開化のシンボルといわれたため、現在も5月3日は「文化の日」として、国民の祝日に指定されている。

明治天皇は、それまでの天皇に比べれば、はるかに多くの土地を巡幸しておられるが、国民との接点は相変わらず少なかった。それでも、明治という時代は、それまでの武家政権とは根本的に異なるものであり、国民は国家の君主たる天皇を尊敬し崇めた。

それゆえに、明治天皇が崩御された後、明治神宮が創建されたり、明治天皇の誕生日が国民の祝日に指定されたりしたものと思われる。

それまでの長い武家政権から、近代国家への第一歩を踏み出した時代の国家君主たる明治天皇への敬慕の念は、日本人の心に深く刻まれていたことであろう。


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明治天皇は、大変な時代の天皇陛下だと思います。何しろ、根本的な改革の時期ですからね。
明治維新~日清・日露戦争くらいの時代までは新しい日本づくりに大変だった時代です。その時代に日本のトップとして尊崇される立場にいるんですから大変ですよね…。政府の混乱時にきっちり指示を出している点など今でも尊敬します。

昔は勲章みたいのがたくさんついた大元帥服を着て髭を八の字型に生やした明治天皇の肖像を怖いと思ったものですが…いやー当時は私も子供でした…。

歴史かくれ話と今日は何の日

2011-06-06 15:19:02 | 今日は何の日

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2006年07月20日




人類初の月面着陸 1969年(昭和44年)

「ひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」というアームストロング船長の名言は、この月面着陸の際の言葉だ。

人類初の月面着陸に成功したのは、アメリカの有人飛行プロジェクト「アポロ計画」による、アポロ11号である。乗組員は、ニール・アームストロング、マイケル・コリンズ、エドウィン・オルドリンの三名。このうち、コリンズは指令船に残ったので、実際に月面に足跡をつけてきたのはアームストロングとオルドリンの2名だけ。

月面着陸についてはあまり言及することもないであろうか。着陸船は、地球と月の自転周期の関係から、地球からは決して見ることのできない「月の裏側」に着陸したという。

月の軌道に乗ってから、着陸船は指令船と切り離され、7月20日の午後4時17分に月面に着陸。着陸船に乗っていたアームストロングとオルドリンの二人は、そのまましばらく船内作業をしたのち、いよいよ月面に足を踏み出した。冒頭のアームストロングの名言は、このときのものである。

この人類初の月面着陸の様子は、(映像が不鮮明だったというが)テレビでも中継されていた。アームストロングとオルドリンは、約2時間半船外作業を行った。月面に星条旗を立てた他、月の石を採取したり、重力の薄い月面で走ってみたりした。また数千枚に及ぶ写真を撮影し、いくつかの動画映像も記録して離陸。指令船とドッキングして、24日に地球に戻った。

だが、この月面着陸については、公開された映像からいくつもの矛盾点が指摘され、それを元に「月面着陸はでっちあげだ」とする説も少なくない。この説は一般的にも割と信じている人も多く、それだけ論理的にはよくできたものであった。

たとえば、クルーが月面に掲げた星条旗。写真を見ると、これがたなびいている。「月には大気がないはずなのに、なぜたなびくのか?」というわけである(この星条旗には上にもポールが入っており、広がった形になる点については特に問題ないのだが、映像を見ると、確かにたなびいている)。

また、写真のクルーの影の映り方。クルーの影が他の岩石などの影と異なった方向を向いており、「光源が唯一太陽のみのはずの月面でそれはおかしい」というのもある。実際には遠くの光源からの光を当てると、影は一定方向を向かないそうであるが、写真によってはそれでは説明できないのもあるという。

他にも誰が撮影したのかわからないようなアングルの写真などもあり、また、「クルーが重力の弱い月面で走っている」とされたふわふわと浮くように走る映像も、「地球上で撮影したものをスロー再生することで表現できる」、「月面の映像とされる地形によく似た地形が地球上にも存在する」などの鋭い指摘が次々と入って、現在も月面着陸を否定する人は数多いという。

まだ他にも多くの指摘がなされているようであるが、NASAは当然ながら、月面着陸でっちあげ説は全面否定している。しかし、でっちあげ説の指摘が逐一鋭いという点も面白い。NASAも口を濁すような指摘もあるらしいので、興味深い点ではある。

とはいえ、個人的には月面着陸は事実であると信じたい。指摘については「地球上では想像できないことが起こりえた」ということにして…。
夜空に浮かぶ月に、アポロ計画で月面着陸したクルーたちの足跡が残っていることを想像すると、ワクワクしてしまうのは私だけであろうか。

※月面着陸のことについては、詳しくはウィキペディアのアポロ11号の項に詳しいので、興味のある方はそちらをご覧になってみてください。


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アポロの月面着陸否定説は、要するに当時のアメリカとソ連の宇宙開発競争でソ連が有利だったという事情があって、でっちあげたものとされているようですが、やっぱりここは事実であると信じたいですね。

かえってあれじゃないですか?「宇宙だから予測もしない事が起きた」と考えちゃえばいいんじゃない?…え…だめ?…ああ…やっぱり…。

それにしても月に行ってみたいなあ…。いろんな悩みもすべて小さなことに思えるでしょうね。