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「由比正雪の乱」こと慶安の変計画発覚 慶安4年(1651)

2011-06-06 19:04:33 | 歴史隠れ話

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2006年07月23日



「由比正雪の乱」こと慶安の変計画発覚 慶安4年(1651)

歌舞伎や芝居などでもよく題材にされる由比正雪の乱とは、江戸の兵学者・由比正雪が全国から集まった浪人たちと共に天下の混乱を狙って起こそうとした犯罪計画である。

この乱そのものを知るには、まずは当時の時代背景を知っておかねばなるまい。

当時、全国には武士の失業者があふれていた。
それというのも、関ヶ原の合戦後に始まる徳川政権において、大名家改易の嵐が吹き荒れたからである。徳川幕府は、政権を揺るがす可能性があるということで不安材料であった大名たちを次々に取り潰していったのだ。

幕府としては「基礎を固めた」にすぎないのだろうが、改易された側、特に改易された大名に仕えていた武士たちはたまらない。当然職を失ってしまうのだから。今で言えば、勤めていた会社が突然潰れて、いきなり放り出されたようなものである。
しかもこのようにして職を失い、浪人となった武士は全国でなんと40万人~50万人を数えたといわれている。

なんとか次の仕官先を見つけられた者はいいが、そうでないものも数多くいた。兵学者・由比正雪は、かねてより大名や旗本などに知人が多く、そういう顔の広い正雪のもとには、多くの浪人が仕官先を紹介してもらおうとして訪れた。

正雪は、このように大多数の浪人を発生させた幕府に反感を抱き、彼らの再就職を斡旋するためにも天下に大混乱を巻き起こそうと考えた。そこで丸橋忠弥や加藤市郎右衛門、金井半兵衛らを呼んで、ある大計画を練った。これが、慶安の変の計画である。

計画の内容は、

①正雪が久能山の金蔵を急襲して金銀を強奪する。
②丸橋忠弥が、江戸の小石川にある煙硝蔵に放火し、江戸の市街地に火災を起こす。
③混乱の最中、対策のためにあわてて登城する老中たちを待ち伏せて斬殺する。
④江戸城を乗っ取る。

の4段階であった。
しかも、さらに2大都市の京都と大坂でも同じように混乱を起こして、幕府の幹部役人を殺害して、天下を混乱させようとしていた。

しかし、計画は仲間の裏切りによって、決行前に発覚してしまう。
7月23日は、丸橋忠弥が捕らえられた日で、事実上、これで正雪の計画は終わったといえる。正雪が居所を突き止められて包囲され、「もはやこれまで」と自害するのは、それからわずかに3日後の26日であった。他の仲間もその後すぐに捕縛され、家族もろとも一族全員処刑となった。

結局計画は実行されなかったが、正雪たちの思いが幕府に届いたのか、幕府はそれまでの「末期養子の禁制」を緩め、当主の死亡などによる改易をできるだけ避けようと体制を改めた。その後、幕府は中期の安定時代に入っていく…。

⇒由比正雪の生家と伝わる正雪紺屋周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は「一気に読めるくらい面白い」と評判の小説版正雪『由井正雪―柴錬痛快文庫』。私は読んだ事ないのですが、いずれ読んでみたいですね。


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●由比正雪(ゆいしょうせつ)

江戸時代初期の兵学者。駿河(静岡県)の出身。出自は不明だが、商人や百姓の子とも言われる。姓は「由井」とも書く。
17歳の時に江戸に出てきて、軍学者・楠不伝の弟子となり、不伝の死後に菊水の旗や楠氏の系図などを譲り受けて、家を継いだという。
こうして、正雪は自らの軍学を「楠流軍学」として講義を始める。楠木正成は当時、武士の忠義の鑑として見直され、人気が出ていたので、楠流軍学も相当の人気を得た。多くの大名家臣や旗本たちが講義を受けにやってきたという。

このように大名、旗本たちに顔が広いことから、当時全国にあふれていた浪人たちに頼られるようになる。正雪はそうした浪人門弟たちの仕官先を斡旋したりした。

しかし、やがて「これほどの浪人を発生させた責任は幕府にある」として、幕府に反感を持つようになる。そしてついに天下混乱のための計画を企てるのである。しかし、この企ては決行前に密告者が発生して、幕府に露見。企てに加担していた者たちは一網打尽にされてしまう。正雪も駿府で旅宿中のところを追い詰められて自害した。

ただし、計画を練った動機には浪人救済の他にもいくつか説があり、はっきりとはわかっていない。


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由比正雪の乱は、浪人救済が真の動機であれば、立派な心がけですな。なかなかいないですよ。いかに弟子とはいえ、他人のためにそこまでできる人物は。

しかし、計画の内容はすごい。成功してたらエライことになってたんじゃないですかねえ。幕府もてんやわんやで江戸時代が50年で終わってたかも…!?…ってことはないかなあ…。

壬申の乱は、天智天皇の弟・大海人皇子と、天智天皇の子・大友皇子が、皇位を巡って争った戦いである。

2011-06-06 18:54:01 | 歴史隠れ話


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2006年07月22日




壬申の乱最後の決戦 天武天皇元年(672)

壬申の乱は、天智天皇の弟・大海人皇子と、天智天皇の子・大友皇子が、皇位を巡って争った戦いである。

この乱は、皇位争いだけに先代・天智天皇の存命中に端を発していたといえる。
もともと天智天皇は、大海人皇子に皇位を譲る気で居たというが、長ずるにつれて頼もしく見えてくる自分の子の大友皇子に皇位を譲ることを考え始めた。

そこで、大海人皇子に皇位に対する野心があれば、これを殺害してしまおうと考えたのである。天智天皇は、晩年の病床に大海人皇子を呼び、「朕の亡き後は、おまえが即位してくれ」と言った。しかし、実はこれが天智天皇の策で、もし大海人皇子が「わかりました」といえば、大海人皇子には、皇位に対する執着心があると見て、その場で殺害するというわけである。

しかし、そんな兄の心を大海人皇子は、見抜いていた。そこで、大海人皇子は病気を理由にこれを辞退し、「いったん、皇后様(天智天皇の妃・倭姫王)に即位していただき、大友皇子は皇太子としてはいかがでしょう」と進言し、さっさと大津宮(当時の都)を離れ、大和(奈良県)の吉野に、出家して妻子と共に引きこもっってしまった。

しかし、大友皇子やその側近たちは、この大海人の吉野行きを「虎に翼をつけて放つようなもの」として危惧した。そして、671年12月、天智天皇が崩御すると、その危惧を解消しようと、ただちに徴兵を実施し、大海人皇子の牽制を始めるのである。

これに対し、大海人皇子もすぐ準備を進めて、吉野を出発。途中、まだ近江(滋賀県・大津宮の所在地)にいた子の高市皇子(たけちのみこ)と大津皇子(おおつのみこ)を呼びにやらせ、数人を自身の領地があった美濃(岐阜県)に送り、挙兵の準備を整える。さらに飛鳥でも兵を募り、大伴馬来田(おおとものまぐた)やその弟・吹負(ふけい)を味方につけた。

そして、吉野を出てから伊賀の積殖山口で、高市皇子と合流。さらに伊勢、美濃と進軍し、大津皇子とも合流して、美濃の不破関に本陣を置いた。なお、この後、さらに尾張(愛知県)などから軍勢が合流している。

このとき、大友皇子は、まだ戦の準備に手間取っていた。この様子を尻目に、大海人軍は、軍を二手にわけ、一隊を琵琶湖畔を北から周り込んで大津宮に至るルートを進ませ、もう一隊は琵琶湖の南側を進み、大津宮を目指した。

ところ変わって、飛鳥では、大海人方の大伴吹負が大友皇子の軍と戦い敗走したが、まもなく置始莵(おきそめのうさぎ)と合流し、大和(奈良県)の箸墓で、大友皇子の軍と再戦。今度は勝利をおさめる。

近江で二隊に分かれた大海人軍は、琵琶湖の南側を進む軍勢が、鳥籠山、安河、栗太などで大友軍と戦い、勝利を重ね、ついに瀬田川を挟んだ7月22日の最終決戦でも勝利をおさめる。大友皇子は宮を脱出したが、翌日、山崎で自害した。

約1ヶ月に渡る後継者争いであった。壬申の乱と呼ぶ理由は、この年の干支が壬申だったからである。

⇒大海人皇子の本陣があったとされる不破関跡周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は壬申の乱の詳細ドキュメントも載っている『飛鳥王朝史―聖徳太子と天智・天武の偉業』。タイトルどおり、飛鳥時代の総括になっているので、壬申の乱とその背景もよくわかります。飛鳥の遺跡俯瞰マップ付!
※ある程度予備知識がある人には『壬申の乱の謎―古代史最大の争乱の真相』。それほどカタイ内容ではないですが、少し知っていた方がより面白いと思います。飛鳥時代をひっくるめた壬申の乱の謎解き。著者の独特な見解が読めるので面白いですよ。ただしすでに詳しい人にはオススメしません(笑)理由はアマゾンのレビューを見てネ。


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●大海人皇子(おおあまのみこ)

のちの天武天皇。舒明天皇の二男で、天智天皇の弟。

天智天皇の後継者と目されていたが、大友皇子に皇位を継がせたかった天智天皇が、自分を排除しようとしているのを感じて、いったん吉野に引退したとされる(異説あり⇒もともと大友の後見役とされていたが、皇位を狙ったという説)。

しかし、天智天皇が崩御すると、兵を集めて吉野を脱出。美濃や尾張など自分の拠点のある方面に兵を送り、やがて近江に進攻。大友皇子を破って自害せしめた(壬申の乱)。実は大友も大海人の吉野引退について危機感を募らせており、大海人の挙兵は大友皇子が大海人を暗殺しようとしたからだともいう。

乱後、飛鳥浄御原宮で即位。中央集権国家の体制確立を目指して、八色の姓や新冠位体制の整備などに努めた。681年には律令の編纂を命じたが、これは存命中には完成せず、死後に飛鳥浄御原令として出されることになる。
686年9月9日崩御。


●大友皇子(おおとものみこ)

天智天皇の第一皇子。史上初の太政大臣んび任ぜられている。母は伊賀采女宅子といって、豪族の娘である。(だいぶ)のち弘文天皇。

『懐風藻』という古代の漢詩集には、大友皇子について「この皇子、風骨世間の人に似ず、実にこの国の分にあらず」とあり、ほかにも、「博学多通」、「文武の材幹あり」とか絶賛されている。

天智天皇に後継者として扱われ、天智天皇の弟・大海人皇子を後見役としたが、実は大海人は皇位を望んでいたといい、そういう背景があったから大海人が吉野に引退する際、側近5人と「虎に翼を与えて放つようなもの」として危惧していた。

天智天皇が崩御したのち、側近5人と共に、天智天皇の詔に背かないことを誓った。そして、庚午年籍にもとづいて民衆から徴兵を開始。不安要素の大海人皇子を除こうとした。

これに対し、大海人皇子も兵を集めて、吉野を離れたため、近江で両軍大激突となった(壬申の乱)。大友皇子は結局敗れて、672年7月23日、山前(どこを指すのかはっきりしない)に逃れてそこで自害。最期を看取ったのは物部麻呂と少数の従者のみという寂しい最期であった。

『日本書紀』では即位を認められていないが、これは『日本書紀』の編纂者の一人である舎人親王が天武天皇の子であったからだと考えられ、なかには、大友皇子の即位のことが書かれている史料もある。

しかし、正式に大友皇子の即位が認められるのはなんと明治時代になってからで、明治3年(1871)に、ようやく明治政府から弘文天皇と追諡された。


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壬申の乱はなかなか興味深い乱なんですが、いまひとつわかりにくいんですよね…。乱自体の背景と経緯は大体わかるんですが…、こう皇族がたくさん出てくるので、誰がどの人とどういう関係なのかというのが…。
大海人が皇太子だったのかどうかも本によって記述が異なるし…。

それにしても「大海人」って当然「おおあま」では変換されないので、わけて入力したんですが、「おおかいじん」って…。なんかすごいな…。恐れ多い。

幼名助作。東市正。豊臣家の家臣。父・直政は浅井長政に仕えていた。

2011-06-06 18:50:43 | 歴史隠れ話

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2006年07月21日




方広寺鐘銘事件 慶長19年(1614)

方広寺鐘銘事件とは、豊臣家が滅亡した大坂の陣のきっかけとなった事件である。

関ヶ原の合戦のあと、天下は徳川家康のものとなり、家康は江戸に幕府を開いた。しかし、依然として大坂には豊臣家が存在するのであり、家康としてはこれの存在がどうにも目障りなものであった。

しかし、戦争をしかけて潰すにしても、大義名分というものが必要である。大義名分のないまま戦をしかけても、当然世論はついてこない。そこで、なんとか大義名分が欲しいと考えていた家康が利用したのが、この方広寺の鐘銘の件だったのである。

方広寺にはかつて豊臣秀吉が着工した大仏殿があった。しかし、大仏は1596年の畿内大地震で大破してしまったため、秀吉死後にその子の秀頼が再建した。そして、この再建した大仏の開眼供養開催の許可をもらおうとして秀頼が家康に使者を送ったことから、事件は始まったのである。

家康のいる駿府への使者となったのは豊臣政権でも古株の片桐且元という男であった。

家康は最初に且元がやってきた5月3日、この開眼供養開催の申し出を快諾。ところが、7月18日に今度は「日取りを8月3日としたい」という使者が来た時は、異見を述べた。家康の異見とは、すなわち、「開眼供養は3日でいいが、大仏殿の供養は8月18日にすべきである」というものである。理由は「8月18日は亡き太閤秀吉の忌日で、17回忌であるため」。要は開眼供養と大仏殿供養は別の日に行うようにせよとのことであった。

しかし、豊臣側としても秀吉の忌日には別の行事を執り行うので、大仏殿と大仏開眼供養は同日に行いたいと再度且元に使者を出した。且元が駿府で家康にそれを申し出たのが7月23日である。だが、実はこのとき、すでに家康はこの開眼供養の執行に不快感を示していた。21日の時点で、「方広寺の鐘銘に関東不吉の銘文あり」という報告を受けていたからである。

これにより、家康は「供養は延期しろ」と命じる。しかし、大坂方にとっては何が不都合なのかわからないし、何より今になって延期しろと言われても困る。そこで、再度且元を弁明の使者として駿府に送った。だが、家康は今度は且元に会おうとすらしなかった。家康はこのときは、ひそかに問題の鐘銘はどの部分なのかを京都五山の僧侶たちに調査させていたのである。(しかし、これは、よりこの鐘銘事件を正当化しようとしたものだという。)

そして、判明したその問題の銘文というのが、「国家安康」と「君臣豊楽」の2文であった。家康は、「国家安康」は「安」の字で「家康」の文字を引き裂いて呪うもの、「君臣豊楽」は「豊臣を君として楽しむ」と読め、豊臣家の反映を願うものであるとしたのである。

このほか棟札や鐘銘の序文など、いくつかの無理やりな感すらある指摘をした。そして、許しを願う大坂方の使者に「秀頼の大坂城退去」「秀頼の江戸参勤」「淀殿の江戸移住」などを条件として和睦の提案をしたが、大坂方としても、無理やりな言いがかりをつけられた挙句、こんな無茶な条件は受け入れられない。

断固拒否する大坂方に対し、家康は「ならば仕方ない。大坂攻めを実行に移す」と、諸大名に出陣を命じほくそ笑むのであった。
結果、事態は大坂冬の陣に発展したのである。

※写真は問題となった鐘銘の刻まれた鐘のある方広寺の鐘楼。
⇒方広寺周辺の地図(livedoor地図情報)

※おなじみ歴史群像シリーズ『真田幸村と大坂の陣―家康を震撼させた猛将の戦い』は、関ヶ原から大坂の陣までの流れがドキュメントで掲載された良書。入門編としても最適です。もちろん鐘銘事件も載っています。
私は読んだ事ないですが、『真説大坂の陣』は内容解説に「誰にでもわかりやすく」と書いてあるので、わかりやすいんだと思います(笑)。


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●方広寺(ほうこうじ)

京都の東山区にある天台宗の寺。天正十四年に豊臣秀吉が建立。現在は、豊国神社の隣に位置し、京都国立博物館のすぐ近くにある。

建立当時、奈良の東大寺と同じように大仏が安置されていたが、厄災で失われる。その後も何度か再建がなされたが、災難が多かったかわいそうな寺。梵鐘の銘文に徳川家康がケチをつけて、大坂の陣が勃発するに至ったことが有名。


●片桐且元(かたぎりかつもと)

幼名助作。東市正。豊臣家の家臣。父・直政は浅井長政に仕えていた。

秀吉に仕え、1583年の賤ヶ岳の戦いで活躍。「賤ヶ岳七本槍」の一人として名を挙げる。その後も九州征伐、小田原の陣に従軍し、朝鮮出兵でも渡海して戦っている。さらに検地奉行なども歴任したが、やり方が地味だったのか、この頃は1万石しか知行していない。とはいえ、信頼は厚かったとみえ、秀吉の死の直前に、秀頼付きの後見役に任命され、以後、秀頼の側近く仕えるようになった。

関ヶ原の戦いの後は、徳川家康からも信頼を受け、茨木城主になったり、加増を受けたりした。また、家康の信頼をえているところから、秀頼の名代として、大坂側と家康との橋渡し役として、何度も使者の任にあたっている。

慶長19年(1614)の方広寺鐘銘事件の際にも、たびたび使者の任にあたったが、家康から無理難題を突きつけられる。このため、今回は家康の信頼を得ていたことが仇となり、秀頼や淀殿から疑われ、大坂城から退去するハメになってしまった。

大坂夏の陣後に、畿内に飛び地で4万石の加増を受けたが、まもなく京都で没した。享年60歳。

豊臣家臣でありながら、家康からも知行を受けていた不届き者とみる研究もあるが、秀吉や家康の支配機構から考えれば、且元は大名であり、江戸幕府が開かれた以上は家康から知行を受けるのは当然であるとみる研究も少なくない。豊臣家の滅亡を視野に入れて動いていたのではなく、むしろ豊臣家の存続のために動いていたと思える。
まあ…その…。…無茶はしない性格だったんじゃないかな…。


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出ましたよ。家康公必殺のフェイバリット。その名も「こじつけ殺法」。
家康公ときたら、関ヶ原の合戦を起こすまでも、やれ前田だ上杉だと次から次へと謀反の疑いをかけていたんですが…今度は豊臣家に炸裂です。

もうなんつーかすごいね。ここまで強引なことやれるんだから。「終わりよければすべてよし」ってヤツですか。こんなことやってると狸と呼ばれるんだろうな…。

歴史かくれ話と今日は何の日

2011-06-06 15:19:02 | 今日は何の日

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2006年07月20日




人類初の月面着陸 1969年(昭和44年)

「ひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」というアームストロング船長の名言は、この月面着陸の際の言葉だ。

人類初の月面着陸に成功したのは、アメリカの有人飛行プロジェクト「アポロ計画」による、アポロ11号である。乗組員は、ニール・アームストロング、マイケル・コリンズ、エドウィン・オルドリンの三名。このうち、コリンズは指令船に残ったので、実際に月面に足跡をつけてきたのはアームストロングとオルドリンの2名だけ。

月面着陸についてはあまり言及することもないであろうか。着陸船は、地球と月の自転周期の関係から、地球からは決して見ることのできない「月の裏側」に着陸したという。

月の軌道に乗ってから、着陸船は指令船と切り離され、7月20日の午後4時17分に月面に着陸。着陸船に乗っていたアームストロングとオルドリンの二人は、そのまましばらく船内作業をしたのち、いよいよ月面に足を踏み出した。冒頭のアームストロングの名言は、このときのものである。

この人類初の月面着陸の様子は、(映像が不鮮明だったというが)テレビでも中継されていた。アームストロングとオルドリンは、約2時間半船外作業を行った。月面に星条旗を立てた他、月の石を採取したり、重力の薄い月面で走ってみたりした。また数千枚に及ぶ写真を撮影し、いくつかの動画映像も記録して離陸。指令船とドッキングして、24日に地球に戻った。

だが、この月面着陸については、公開された映像からいくつもの矛盾点が指摘され、それを元に「月面着陸はでっちあげだ」とする説も少なくない。この説は一般的にも割と信じている人も多く、それだけ論理的にはよくできたものであった。

たとえば、クルーが月面に掲げた星条旗。写真を見ると、これがたなびいている。「月には大気がないはずなのに、なぜたなびくのか?」というわけである(この星条旗には上にもポールが入っており、広がった形になる点については特に問題ないのだが、映像を見ると、確かにたなびいている)。

また、写真のクルーの影の映り方。クルーの影が他の岩石などの影と異なった方向を向いており、「光源が唯一太陽のみのはずの月面でそれはおかしい」というのもある。実際には遠くの光源からの光を当てると、影は一定方向を向かないそうであるが、写真によってはそれでは説明できないのもあるという。

他にも誰が撮影したのかわからないようなアングルの写真などもあり、また、「クルーが重力の弱い月面で走っている」とされたふわふわと浮くように走る映像も、「地球上で撮影したものをスロー再生することで表現できる」、「月面の映像とされる地形によく似た地形が地球上にも存在する」などの鋭い指摘が次々と入って、現在も月面着陸を否定する人は数多いという。

まだ他にも多くの指摘がなされているようであるが、NASAは当然ながら、月面着陸でっちあげ説は全面否定している。しかし、でっちあげ説の指摘が逐一鋭いという点も面白い。NASAも口を濁すような指摘もあるらしいので、興味深い点ではある。

とはいえ、個人的には月面着陸は事実であると信じたい。指摘については「地球上では想像できないことが起こりえた」ということにして…。
夜空に浮かぶ月に、アポロ計画で月面着陸したクルーたちの足跡が残っていることを想像すると、ワクワクしてしまうのは私だけであろうか。

※月面着陸のことについては、詳しくはウィキペディアのアポロ11号の項に詳しいので、興味のある方はそちらをご覧になってみてください。


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アポロの月面着陸否定説は、要するに当時のアメリカとソ連の宇宙開発競争でソ連が有利だったという事情があって、でっちあげたものとされているようですが、やっぱりここは事実であると信じたいですね。

かえってあれじゃないですか?「宇宙だから予測もしない事が起きた」と考えちゃえばいいんじゃない?…え…だめ?…ああ…やっぱり…。

それにしても月に行ってみたいなあ…。いろんな悩みもすべて小さなことに思えるでしょうね。