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サンフランシスコ講和条約締結 昭和26年(1951)

2011-06-23 22:52:16 | ●吉田茂(よしだしげる)

歴史かくれ話と今日は何の日



2006年09月08日


サンフランシスコ講和条約締結 昭和26年(1951)

サンフランシスコ講和条約は、太平洋戦争の対日講和条約であるが、アメリカは、ソ連と意見が対立しており、アメリカ側との単独講和となった。

もともと日本では、アメリカのみならずすべての連合国側国家との講和を持つ全面講和か、アメリカ側のみと講和する単独講和かで議論は揺れていた。
しかし、1950年に勃発した朝鮮戦争により、アメリカとしても、ソ連ほか共産陣営勢力に対抗すべく、アジアに拠点が必要だった。
そこで、アメリカは早急に日本を独立させ、かつ独立後もアメリカ軍基地を日本におく形を維持しようとし、日本には再軍備を期待していた。なぜなら、アメリカと対立する共産主義国の侵略を招く恐れが充分にあったからである。そして、これらを基本として早期講和を実現すべく、国務省顧問ダレスが講和条約案を起草した。

吉田茂内閣では、このアメリカとの単独講和案に傾いていたが、国民はこれを非難した。アメリカの基地という状態が継続されるなら、占領されているのと同じであり、それは米ソの対立を激化させる結果になると思われたからであった。

国民は全面講和と完全独立を求めたため、社会党では、全面講和、中立堅持、再軍備反対を掲げる「平和三原則」をダレスに示したが、これらの国民の声は一蹴される。

そして、ついに昭和26年(1951)9月4日、サンフランシスコのオペラハウスで対日講和会議は開かれる。日本の全権は総理大臣・吉田茂その人であった。条約調印は9月8日。

しかし、戦争で最も被害を受けた中国は会議に招かれず、単独講和に反対のビルマ、インドも不参加。調印式では、参加52ヶ国のうち、ソ連、チェコ、ポーランドの3国は署名を拒否したが、その他の48ヶ国は調印し、講和条約は締結されたのである。

※写真は吉田茂本人による著書『日本を決定した百年―附・思出す侭』。私は読んだことないのですが、アマゾンの紹介文には「簡にして要を得た記述にて明治建国から戦後復興までの日本の近代化を跡づけた異色の歴史書」とあります。吉田をもっと知りたい人必見。


⇒この『吉田茂とその時代』も戦後日本を知るには最適な一冊。より詳しく戦後の日本の政治模様を知りたい人は手に取ろう!!



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(キーワード)

●吉田茂(よしだしげる)

太平洋戦争後に、5回に渡って組閣した戦後最も著名な政治家。自由民権家の竹内綱を父に持ち、横浜の貿易商吉田健三にもとに養子入りした。

外交官試験に合格し、外交官としてロンドン、イタリア、イギリス、天津、奉天などに勤務。昭和3年(1928)には外務次官に就任し、イタリア大使、イギリス大使など外国駐留大使として活躍した。

その後一線からは退くが、太平洋戦争中の昭和20年(1945)4月、憲兵隊に逮捕された。戦争末期となった日本で、和平工作を行い、軍部からにらまれたためである。これ以降、終戦まで監視がつくようになったらしい。しかし、この厭戦派としての動きは、戦後GHQには評価される。

戦後は東久邇宮内閣、幣原内閣で外相。さらに次期首相と目されていた鳩山一郎の追放などがあり、紆余曲折のなかで首相になったが、この際、「嫌になったらいつでも投げ出す」などと豪語したという。

経済政策に重点を置き、自身の外交経験を活かして、強いリーダーシップを発揮。「ワンマン政治」などと呼ばれるほどであったが、戦後の日本の形成に大きく影響した人物であることは疑いない。ちなみに後年「バカヤロー解散」などでさらに有名となった。
蛇足だが、顔が林家正蔵(もと林家こぶ平)に似ている。しかも吉田茂本人もよくブラックジョークなどを言って周囲を笑わせたという。


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吉田茂ねぇ、ほんとに写真によっては正蔵そっくりですよ。なんかのテレビで彼が吉田茂の役をやっているのを見たことがある気がするんですが、ありゃなんだったかなあ…。忘れた。
ぜひ一度見比べてみていただきたい。