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禁門とは京都の禁裏御所の外郭の門の一つで、別名を蛤御門という。

2011-06-05 10:22:07 | 今日のNO1二ユース

歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


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2006年07月19日


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禁門の変勃発 元治元年(1864)

禁門とは京都の禁裏御所の外郭の門の一つで、別名を蛤御門という。この禁門の変における戦火でちょうど蛤が火にあぶられて口を開くように初めて開いたゆえにこう呼ばれるという。

文久3年(1863)、8月18日の政変により、長州藩の勢力は京都を追われた。三条実美ら7人の長州派公卿も京都退去を余儀なくされ、長州を目指して落ちていった(七卿落ち)。これにより、京都では反幕勢力が一応息を潜め、公武合体派が勢力を広げたため、幕府はこの機に乗じて不逞浪士の取り締まりを強化した。そして、その動きの中で有能な志士を一網打尽にしたのが、元治元年(1864)6月5日の池田屋事件であった。

池田屋事件では、長州藩も吉田稔麿や広岡浪秀といった志士を失い、池田屋事件の報を受けた長州藩の藩論は一気に京都進発に決した。そこで長州藩では、集めた軍勢をいくつかに分隊し、福原越後をはじめとする三家老などに預け、計1600人ほどで京都に向けて出発した。

当初は、長州藩主の赦免の嘆願を目的にしていたため、京都へ続く街道に陣を張って、何度か赦免嘆願を行っていたが、朝廷側では、禁裏守衛総督の一橋慶喜が、長州を撤兵させることを主張。慶喜自ら長州の説得に当たったが、長州としても目的が達せられないまま引き上げるわけにはいかず、交渉は決裂。武力行使の様相にかわっていった。

そしてついに、長州が進軍を開始。福原越後の率いる隊は、京都市街地に侵入しようとするが、各地で大垣藩、彦根藩、会津藩などの藩に阻まれて敗れ、京都郊外の山崎に撤退した。

しかし、一方で、来島又兵衛や国司信濃らの隊は、それぞれ蛤御門(⇒地図)や中立売御門(⇒地図)に向かい、会津藩、筑前藩、桑名藩、福井藩、薩摩藩などの諸藩と激戦となった。とはいえ、御所周辺には公卿の屋敷が多く立ち並び、戦闘は思うに任せず、ひたすら門の攻防となった。

やがて、各門で長州が一時優勢となったが、薩摩藩の増援が乾御門(⇒地図)を通って到着し、攻撃を開始。長州軍の来島又兵衛が戦死して形勢逆転。優勢にあった長州軍は撤退していった。

そのころ、山崎に撤退していた部隊も駆けつけ、堺町御門(⇒地図)のすぐとなりの関白鷹司邸に立てこもったが、すでに長州軍は劣勢となっており、鷹司邸も破壊されてしまう。なお、このとき、長州の天才・久坂玄瑞が戦死。真木和泉ら17人が、天王山まで退いて自刃したという話はよく知られている。

戦闘は禁裏のすぐそばで行われたため、砲弾や銃弾が禁裏内に入ってくることもあったという。また、長州兵が隠れたというので、近隣の民家や長州藩邸に放火が行われ、この火が飛び火して、京都全域に及ぶ大火となってしまった。
火は2日間燃え続け、21日に消し止められたというが、3万世帯が罹災した。戦闘時間としては、7月19日の夜明けごろから始まり、午前中に決着がついたというが、むしろ被害はその後の火事にあったといえるかもしれない。

なにはともあれ、長州軍は敗れて今度は完全に京都を追われた。以後、長州は朝敵と見なされ、維新のなる時まで苦難が続くことになる。

※写真は現在の蛤御門。
⇒蛤御門周辺の地図(livedoor地図情報)

※文中の地図へのリンクは、すべてlivedoor地図情報の現代の地図へリンクしています。位置確認の参考にしてください。

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(キーワード)

●八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)

発生したのが文久三年(1863)なので、「文久三年八月十八日の政変」とフル呼びすることもある。

事件そのものは会津や薩摩の公武合体派が、尊攘派の長州藩などを京都から追放した事件。会津や薩摩を動かしたのは、公武合体派の公卿・諸大名たち。会津は京都守護職だったため、薩摩は長州と対立していたためにそれぞれ請われて、クーデターの実行にあたった。

発生したのは、言うまでもなく8月18日。会津&薩摩の両藩に御所の九門を警固させたうえで、公武合体派の公卿のみを集めて朝議を一変させた。これにより、攘夷は天皇の望むところではないとされ、攘夷論を展開していた長州藩は、御所の警備を解任され、京都から退去するよう命じられた。また、三条実美や、錦小路頼徳ら尊攘派の公卿7名は長州に逃走した(七卿落ち)。

事件の結果、公武合体派が発言力を強め、幕府もこれにより、不逞浪士の取り締まりを強化することになる。


●池田屋事件(いけだやじけん)

⇒こちらの記事を参照


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蛤御門かあ。名前はシャレみたいなつけられ方してるけど、事件の方はかなりの大事ですね。
しかし、このとき長州と薩摩は因縁みたいに仲が悪いのに、この2~3年後には薩長同盟⇒倒幕派として共闘になっていくんだから歴史の流れというのは恐ろしいですな。…と同時に薩長同盟の立役者・坂本龍馬はやっぱり偉大ですな。(←龍馬好き)

源頼家が暗殺される 元久元年(1204)

2011-06-05 10:17:17 | 歴史隠れ話


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2006年07月18日


源頼家が暗殺される 元久元年(1204)

源頼家は、頼朝の嫡男で鎌倉幕府2代将軍である。

正治元年(1199)の頼朝の急死後に家督を継ぎ、建仁2年(1202)には2代将軍となった頼家は、当初は将軍としての意気込みも充分で、政治にも意欲を示していたという。しかし、頼朝が死亡した際、、頼家がまだ18歳で若すぎるという理由から、幕府の政治の実権は北条氏をはじめ、有力御家人たち13名に握られており、思うように行動することができなかった。

やる気も地位もあるのに、実際には政治を動かすことができない。頼家のストレスはたまってゆき、彼は蹴鞠にふけるようになってしまう。蹴鞠への入れ込みようはすさまじく、後鳥羽院にも見込まれて、京都から専属のコーチを呼び寄せたといわれる。

また、頼朝以来の御家人の土地を削ったり、自らの近臣だけを厚遇するなど、有力御家人たちを無視するような行動をとり始めた。頼家にすれば、「将軍は私だ」という思いがあっただろうが、結局、こうした行動は、ますます有力御家人たちの反発を招くようになってしまう。

頼家の近臣のなかでも頼家の乳母の任を勤めた比企氏は、さらに当主・能員の娘・若狭局を頼家の妻としてますます将軍家に近づいた。ところが、当然のごとく、ほかの有力御家人はこれが面白くない。また、頼家の母である北条政子でさえ、これをよくは思わず、頼家は、次第に御家人たちのみならず、母・政子とも対立するようになっていった。

そんな時に頼家は重い病に倒れる。
頼家の病を口実に、北条氏は将軍職委譲を目論んで動き始めた。北条氏は頼家の弟・実朝と頼家の嫡子・一幡に権限を分割させようとしたが、頼家の義父である比企能員は、娘・若狭局が産んだ一幡に後を継がせたいので、これに猛反対。北条氏と激しく対立した。しかし、能員の動きはすぐに北条政子にも知られてしまい、能員は北条時政の名越亭で謀殺され、一幡も殺された。

御家人間の権力争いが激化するなか、頼家は奇跡的に回復する。頼家は、北条氏の討伐を謀るが、和田義盛が裏切るなどして計画は頓挫。頼家は強制的に出家させられて、伊豆の修善寺に流される。頼家は、そこでしばらく不本意な幽閉生活を送った。

実母である政子にも何度も許しを乞うたが、結局許されず、元久元年(1204)7月18日に暗殺された。享年23歳。

幼い頃から才気煥発で、頼朝も期待した2代目だったというが、なにしろ、草創期の鎌倉幕府は御家人の絶対的な統制ができていなかった。頼家は、経歴を見ると愚鈍な君主に思えてしまうが、実はチャンスが与えられなかったというだけなのかもしれない。

⇒頼家の墓周辺の地図(livedoor地図情報)


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●源頼家(みなもとよりいえ)

頼朝の子。幼名万寿。鎌倉幕府の2代将軍。
1199年、父・頼朝の死により、源氏の家督を継ぎ、やがて将軍職も継ぐことになる。しかし、頼朝が死亡した際に、すでに政治は有力御家人13人の合議によって行うという取り決めがなされていて、将軍といっても名ばかりであった。

これを不満に思った頼家は、自らの近臣を厚遇したり、安達景盛の愛妾を奪って景盛追討をはかるなどしたほか、蹴鞠にふけるようになり、御家人たちの反発を招いた。

そんな状態だったから、やがて頼家が重い病に倒れると、ただちに後継者擁立の争いが勃発。自らの娘・若狭局の産んだ一幡を推す比企氏と、一幡と頼家の弟・実朝に権限を分割させようとする北条氏の対立が激化した。

結局、この争いは比企氏が敗死して終結するのだが、北条氏は、この時点で朝廷に対し、頼家を死んだものとして報告し、時期将軍に実朝を、と要請していたらしい。

ところが、頼家は奇跡的に回復。北条氏の動きを知った頼家は、和田義盛や仁田忠常に北条氏討伐を命じたが、和田義盛は、これを北条時政に告げたため、忠常はあっさり討たれ、頼家も出家を強制されることになる。頼家は抵抗しようとしたが、実母である政子におさえられ、伊豆の修善寺に幽閉された。

そして、幽閉された翌年の7月18日、北条氏からの討手の手にかかり、殺害された。刺客によるもの、毒殺など、暗殺方法や場所には諸説あってはっきりしていない。


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源頼家は、将軍としての実権が最初からなかったので、どちらかというと「能力はあるのに、活かす場がなかった」という捉えられ方をしているようです。しかし、それで、いじけたようになってしまったのがまずかった…。蹴鞠に走ったりするのはともかく、近臣だけを厚遇したりしたら、他の御家人たちはやっぱり面白くないですよね。

なんとか自分の能力とやる気をうまくアピールできたらよかったんでしょうが…、あの時代じゃあそういうのは無理なのかなあ…。

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歴史かくれ話と今日は何の日

2011-06-05 10:14:15 | 仰天二ユース

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2006年07月17日




承和の変で、橘逸勢と伴健岑が捕らえられる 承和9年(842)

承和の変とは平安時代前期に発生した皇室の関わってくるクーデター未遂事件(謀反計画)である。

事件が起きたのは、54代仁明天皇の御世である。この変には、多くの皇室の人物が関わってくるので、まずは左の系図でその関係を把握していただきたい。
まず、52代嵯峨天皇は、異母兄弟の大伴親王を皇太子とし、やがて皇位を譲って、大伴親王は淳和天皇となった。嵯峨天皇は、そのまま上皇となったわけだが、政治に介入しようとするようなことはなく、むしろ自分の好きな詩文にふけって悠々自適な生活を送ったとされている。

一方、皇位についた淳和は淳和で、自分を皇位につけてもらった見返りに、嵯峨の子である正良親王を皇太子とした。淳和天皇は、自分の子である恒世親王の立太子を望んでいたと言われているが、残念ながら恒世親王は早逝してしまったため、結局、正良親王が皇太子となったのである。

やがて、淳和は正良親王に譲位し、正良が天皇となった。これが仁明天皇である。そして、仁明天皇はまた、淳和のもう一人の子・恒貞親王を皇太子としたのである。

ここまでは、嵯峨が淳和を皇太子に、淳和は嵯峨の子である仁明を皇太子に、仁明は淳和の子である恒貞を皇太子に、と円滑に周っているようにも見える。しかし、この仁明天皇の時に、重大な報告がもたらされた。それこそが承和の変につながってくるのである。

840年5月8日、淳和上皇が崩御、842年7月15日には嵯峨上皇が崩御した。そして、承和の変につながる重大な報告は、嵯峨上皇崩御のわずか二日後にもたらされた。報は、嵯峨の妃であった太皇太后・橘嘉智子に密書の形でもたらされた。密書を送ったのは、平城の子である阿保親王。密書には、次のような計画が書かれていた。

「東宮帯刀舎人伴健岑と但馬権守橘逸勢、皇太子・恒貞親王を奉じて東国で挙兵し、仁明天皇を廃そうとする計画あり」

太皇太后は、ただちに中納言藤原良房にこれを伝え、良房は仁明天皇に報告した。報告を受けた天皇は怒って、計画に名を連ねていた伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)を捕らえるよう命じた。2人はすぐに捕らえられ、拷問にかけられたが、何も語らずひたすらに無罪を主張し続けた。しかし、結局2人は流罪となってしまう。

続いて、祭り上げられた皇太子・恒貞親王も23日に廃位となった。代わりに皇太子となったのは、仁明の長子・道康親王だったが、この道康親王を産んだのは、良房の妹・順子であるので、道康親王は、良房の甥ということにもなるのである。

この事件は、計画の首謀者とされた2人にはあまりうまみがなく、むしろ藤原良房にうまみがあることから、良房の陰謀とみる説が有力とされている。事実、良房はこの後すぐに大納言に昇進。この後も藤原一族の栄耀栄華は続いていくのである。

※画像は、承和の変関係の皇室系図(見にくい場合は、画像をクリックすると原寸大表示になります)。

※承和の変についての詳解本はいい本がないので、平安時代の面白そうな本をご紹介。『平安京の仰天逸話』です。平安時代の人物や同時代の説話集などから、好色医者・間男・美女怪盗・怪力女・鬼女などの面白い話をセレクトし、さらに平易な文に書き直したものだそうです。実に興味深い。本屋で見かけたらぜひ一度読んでみたいですね~。


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●藤原良房(ふじわらのよしふさ)

平安時代前期の公卿。藤原北家5代目。冬嗣の次男。
嵯峨天皇に気に入られて、天皇の娘である源潔姫と結婚した。

その後も順調に出世を重ね、835年に従三位権中納言となる。承和9年(842)の承和の変の際には、仁明天皇に、皇太子・恒貞親王の廃位と、仁明天皇の長子で、良房にとっては甥にあたる(良房の妹・順子は仁明天皇の妃)道康親王の立太子を進言して、これを実現させた。続いて848年には右大臣。その後、即位した文徳天皇の皇太子には、娘である明子の産んだ惟仁親王を立てるなど、天皇家の即位問題に介入していく。

そして、ついに857年、人臣としてはじめて太政大臣の位につく。
やがて惟仁親王の即位(即位して清和天皇)に伴い、摂政に任じられたとされるが、実際に職務として正式に摂政に任じられたかははっきりしないらしい。

冬嗣に続き、藤原家興隆の礎を築いたといえる重要な人物。


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嵯峨天皇といえば、博学で知られる小野篁に、「『子子子子子子子子子子子子』はなんて読むか?」…なーんていうクイズを出したとかいう話があります。「おまえ、なんでも読めるんなら、これはどうだ」という感じで出したそうですが、篁さん、何のことはなく読んじゃったそうです。まさに天才。

どうでしょう?読めますか?もし初見なのに読めたならあなたはもしかしたら天才かもしれませんので、すぐに関係各所に連絡したほうがいいですよ(笑)。

答えは

「猫の子の子猫獅子の子の子獅子」です。

…え…?わからないって?
いや、ほら「子」は「ね」とも読むんですよ。十二支の「ねずみ」は「子」という字を当てるでしょ。だから、「子子の子の子子子(猫の子の子猫)子子の子の子子子(獅子の子の子獅子)」。はい、ばっちり「子」の字を12回使ってます。オーケー。文章的には意味わかんねぇけどな。

…。

…承和の変についてのコメントじゃなくなっちゃった…。

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