gooブログはじめました!古代からのウソの歴史の訂正と真実を

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ歴史の隠れ話に本物の光を、誠を伝える勇気を子孫のために、

廃藩置県の詔書出る 明治4年(1871)

2011-06-29 01:12:26 | 黄海海戦

2006年07月14日





廃藩置県の詔書出る 明治4年(1871)

廃藩置県といえば、明治維新の代表的改革の一つだから、学校で習う歴史でも大きく取り上げられている。改革の内容は読んで字の如く、藩を廃して県を配置した改革である。

明治政府の地方政治改革として、この廃藩置県以前に版籍奉還が行われている。これによって、藩の支配権は天皇、ひいては政府に移行したのだが、旧藩主がそのまま藩知事に就任したため、根本的にはあまり変化がなかった。また、戊辰戦争や、急激な近代化に伴い、どこの藩も財政難に陥っており、なかには自発的に政府に廃藩を訴えでる藩も出てきていた。

さらに、政府にも金がない。政府機構の樹立、維持には相当の資金が必要だったが、すべての国土と人民の支配ができなければ財源も確保できていない状態となってしまう。それに、藩も県も混在するような中途半端な状態が続くのは好ましくない。そこで、より支配体制を強化し、新政府を維持するためにも政府は廃藩の準備を進めたのである。

しかし、中には版籍奉還後の藩内の抜本的改革に見事成功し、藩政をうまくやっているところもあったし、やはりこれまでの体制を大きく変えるものであるから、反抗する者が出てくることが懸念された。だから、抵抗された場合にもただちに鎮圧できるように、事前に薩長土の3藩から御親兵約1万人が集められた。そして、明治4年(1871)7月14日、明治天皇により、東京にいる藩知事らが召集され、廃藩置県を命じる詔書が出された。全国の地方政治機関はまずは3府302県に変更された。

この廃藩置県で、藩知事だった者(ほとんどが旧藩主)は免職となり、家禄と華族の身分を保障されて東京に移住。代わって東京・京都・大阪の3府に知事、県には県令が政府によって置かれ、そのほとんどが他藩出身の者が任命された。

そして、これらの藩に納められていた年貢は新政府に入るものとなったが、各藩が抱えていた負債も政府に受け継がれる。具体的には合計7813万3千円もの負債を抱えることとなり、うち400万円は外債であったという。ちなみに7813万3千円という金額は、全国の藩の実収高の2年分であったらしい。

廃藩置県に際しては懸念された反抗はほぼなかったが、薩摩の島津久光は、「西郷に騙された」と怒り、花火をあげてウサ晴らしをしたという。

当初配置されたのは3府302県にものぼったが、年内に3府72県にまで統合され、さらにのち、1道3府43県となった。東京について、現行の「東京都」になるのは、昭和18年(1943)。軍部の圧力によるところが大きいという。

※写真は、明治維新後の政府の改革や当時の状況、背景などを詳しく書いてある『廃藩置県―「明治国家」が生まれた日』。明治初期の本はあまり易しいのがないような気がしますが、比較的読みやすいと思いますヨ。


--------------------------------------------------------------------------------

名前はわかりやすいのに、「はんせきほうかん」「はいはんちけん」と語句に同じものが含まれるなど、歴史嫌いな方には厄介な二政策。「はんせきほうかん」の「はん」は「版」ですが、「はいはんちけん」の「はん」は「藩」なので注意。はんはんはんはん…。

習いたて当時は何で一気にやらないんだろうとか思いましたが、いろいろ理由はあるものですね…。


最新の画像もっと見る