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日独伊三国同盟締結 昭和15年(1940)

2011-06-29 11:33:09 | 日独伊の三国とは

2006年09月27日





日独伊三国同盟締結 昭和15年(1940)

日独伊の三国とは、日本、ドイツ、イタリアの三国を指す。

当時、すでにこの三国の間には防共協定が結ばれており、友好的な状態ではあった。ドイツはアドルフ・ヒトラー総統のもと、ナチスがファシズムを推進し、ヨーロッパを席巻する狙いがあり、また、日本も日中戦争の最中であった。

この同盟の話は、実はもう少し前からあがっていたのだが、政府や海軍は「アメリカを刺激するべきではない」として反対。一方の陸軍は積極的であった。意見は二つに割れ、なかなか決着を見なかったが、昭和14年(1940)9月、ドイツはポーランドに侵攻し、ヨーロッパは本格的に第二次世界大戦の状態に入っていく。そして、ドイツは破竹の勢いでオランダとフランスを降伏させたのである。

このドイツの強さに日本国内でもドイツに続けと言わんばかりに、「ヨーロッパ戦線に乗じて、東南アジアに進出すべきだ」という声が上がり始め、ついに時の外相・松岡洋右はドイツに飛んで、交渉に及んだ。ドイツ側もアメリカの参戦を懸念していたため、これを牽制できると考えて同盟を承諾。

同盟調印式は昭和15年(1940)13時15分(ドイツ時間)、ベルリンヒトラー総統の官邸で行われた。各国代表は日本:来栖三郎駐独大使、ドイツ:リッペントロップ外相、イタリア:チアノ外相。

この同盟により、アメリカはいよいよ日本への敵対心を強め、数度の交渉の決裂の結果、未曾有の戦火をもたらしたあの太平洋戦争へと突入するのである。

※写真はアドルフ・ヒトラー著『わが闘争 上―完訳 角川文庫 白 224-1』。独裁者・ヒトラーの世界制覇構想が描かれた政治哲学書です。あまり内容に影響されすぎないように…。


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(その他の9月27日の出来事)

●昭和天皇がマッカーサーを訪問 昭和20年(1945)
⇒太平洋戦争後に昭和天皇は自らの責任について、直接マッカーサーにお伝えになられた。


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今でこそ、「侵略」などという言葉は日本国内では聞かれませんが、当時は軍部も存在したし、何しろ負け知らずの日本軍でしたから、「日本の国力を高めるためには侵略戦争、是非もなし」というような考え方だったような気がします。

先日発足した安倍内閣は「美しい国をつくる」と宣言しましたが、当時は「強い国をつくる」と考えられていたんでしょうなあ…。

版籍奉還 明治2年(1869)

2011-06-29 11:27:15 | 歴史隠れ話

2006年06月17日






版籍奉還 明治2年(1869)

版籍奉還とは、徳川時代の全国の支配単位であった藩の土地と人民を朝廷に奉還させる政策である。「版」は版図のことで、土地を意味し、「籍」とは戸籍であるから、人民を意味する。これらを「奉還」、すなわち元々の持ち主であるはずの朝廷に返上する。

明治維新成ったあとも、全国各地は諸藩の支配体制が続き、依然として藩主というものは存在していた。このことは、「新政府」を樹立するうえでこの上ない障害となっていた。この支配体制が維持されている限り、新政権は意味を成さないことになるのである。新政府による新体制に期待していた民衆は、依然徳川時代の支配体制が続いていることに不満を漏らし、各地で打ち壊しや一揆が相次いでいた。

そんな中、新政府は財政難が続き、政府内でも穏健派と急進派の対立が深まっていた。このままでは新政府は早々に倒れてしまうかもしれない――。

そこで、木戸孝允や大久保利通、板垣退助、大隈重信らが協議し、各藩主にその支配域と土地に住む人民を天皇(朝廷)に返上するよう呼びかけた。
彼らは、まずそれぞれの主であった薩摩、長州、土佐、肥前の各藩主たちを説き、版籍奉還に同意させ、彼らが率先する形で朝廷に版籍奉還の旨を記した上奏文を提出しした。明治2年(1869)1月23日のことである。薩摩、長州、土佐、肥前といずれをとっても、幕末の雄藩であり、他の藩もこぞってこれに倣い、4月までには全国の大部分の藩が上奏文の提出を完了した。

そして、版籍奉還の実行が正式に許されたのが明治2年(1869)6月17日である。版籍奉還後は、元大名たちは東京に移住となり、そのまま藩知事に任命された。

しかし、版籍奉還にも問題点はある。藩の持っていた土地と人民は新政府が統合して統治することになったものの、それは表向きの話で、実際には藩がそのまま存在し、しかも旧藩主が藩知事になったので、人民には体制の変化がいま一つわかりづらかったため、徳川時代の主従関係の解消が成ったとはいえなかった。
このため、のちに新政府は廃藩置県を実施することになるのである。

※今日は趣向を変えて、幕末維新のゲームをオススメします。写真の『コーエー定番シリーズ 維新の嵐』です。
プレイヤーは坂本龍馬や、近藤勇、高杉晋作などとなって、日本全国の思想統一を目指すゲームです。幕末に活躍した人物が顔グラ付きで201名も登場し、その一人一人が数種類に分類される思想を持っています。相手の思想を変えるには、カードバトル方式の説得で、相手を言い負かしましょう。また、同じ思想の人物から多大な信頼を得れば、同士としてプレイヤーが操作できるようになります。同士を募って、思想統一という大事業をやり遂げるのです。

幕末維新が好きなら、まずハマると思うゲームです。ぜひ一度プレイしてみてください。


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明治維新もここまでくると、大方まとまりがついたかな、という頃かと思っていたんですが、なんの維新の苦労はここからですね。

そもそも今までにない政策を実施しないといけないわけですから、その苦労は半端じゃないと思います。

今の歴史も将来教科書などに書かれるわけですが、小泉首相の評価はどんな感じになるのかなあ。あと人の批判ばっかりで実績のない議員とか。教科書にも一行くらいしか載らなかったりしてね(笑)。

それにしても最近微妙に忙しくて、なかなか更新できないです。すいません。来週もこんなことになるかも…。

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明治天皇に国産ビールが献上される 明治10年(1877)

2011-06-29 11:23:53 | 「ビール発祥の地」

2006年06月26日




明治天皇に国産ビールが献上される 明治10年(1877)

日本のビール発祥の地と言うと、横浜がよく知られているだろうか。確かに明治3年にアメリカ人のウィリアム・コープランドという人が、横浜に工場をつくって外国人向けにビールを製造していたらしい。しかし、これは「アメリカ人の手に成る日本初」である。

また、大阪の堂島にも「ビール発祥の地」の碑があるらしい。こちらは明治5年に渋谷庄三郎という人が建てた工場で造られたということで、まさしく「国産第一号」。ただ、やっぱり主に外国人に販売していたといい、明治天皇に献上したのも渋谷ではない。

天皇に献上されたビールが造られたのは、なんと北海道の札幌であった。

当時の北海道はまだ開拓使による開発の途上にあったが、明治5年(1872)、アメリカ人のトーマス・マンチセルという人が、北海道岩内で野生のホップを発見した。当時の開拓使長官は、黒田清隆であったが、彼がこのホップを利用してビール(麦酒)を造ろうと考えたらしい。

やがて、ビール醸造の学習経験のある中川清兵衛という者を招いて、開拓使麦酒製造所という工場を開くに至った。清兵衛は、ビールの本場・ドイツのチホリビール会社で醸造を学んできた男で、見事なビールが出来たという。

明治天皇へは一般販売に先駆けて、明治10年の6月26日、出来上がった開拓使麦酒を一箱献上。明治天皇には、当時稀少だったが現代では極一般的なものがいろいろ献上されたりしている。代表的なものにはアンパンなどがあるが、ビールもこの時献上されていたわけである。ちなみに一般販売は、同年の秋からで、大ビン1本16銭だったらしい。販売地域は主に東京周辺のみ。流通システムからいって、まあ仕方ないかな…。

もひとつおまけに、この開拓使麦酒製造所は現在のサッポロビールに前身らしい。うーむ由緒正しいのだなあ。




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今日はなんだかあんまりこれというネタを発見できなかったので、マメ知識本からセレクトした小ネタです(笑)。

明治天皇は、ビール飲んだ感想はどんなことを話されたんでしょうね~。初めて飲むとけっこう苦くて、「どこがどううまいのだろう」と思ってしまうような気がするんですが…。

廃藩置県の詔書出る 明治4年(1871)

2011-06-29 01:12:26 | 黄海海戦

2006年07月14日





廃藩置県の詔書出る 明治4年(1871)

廃藩置県といえば、明治維新の代表的改革の一つだから、学校で習う歴史でも大きく取り上げられている。改革の内容は読んで字の如く、藩を廃して県を配置した改革である。

明治政府の地方政治改革として、この廃藩置県以前に版籍奉還が行われている。これによって、藩の支配権は天皇、ひいては政府に移行したのだが、旧藩主がそのまま藩知事に就任したため、根本的にはあまり変化がなかった。また、戊辰戦争や、急激な近代化に伴い、どこの藩も財政難に陥っており、なかには自発的に政府に廃藩を訴えでる藩も出てきていた。

さらに、政府にも金がない。政府機構の樹立、維持には相当の資金が必要だったが、すべての国土と人民の支配ができなければ財源も確保できていない状態となってしまう。それに、藩も県も混在するような中途半端な状態が続くのは好ましくない。そこで、より支配体制を強化し、新政府を維持するためにも政府は廃藩の準備を進めたのである。

しかし、中には版籍奉還後の藩内の抜本的改革に見事成功し、藩政をうまくやっているところもあったし、やはりこれまでの体制を大きく変えるものであるから、反抗する者が出てくることが懸念された。だから、抵抗された場合にもただちに鎮圧できるように、事前に薩長土の3藩から御親兵約1万人が集められた。そして、明治4年(1871)7月14日、明治天皇により、東京にいる藩知事らが召集され、廃藩置県を命じる詔書が出された。全国の地方政治機関はまずは3府302県に変更された。

この廃藩置県で、藩知事だった者(ほとんどが旧藩主)は免職となり、家禄と華族の身分を保障されて東京に移住。代わって東京・京都・大阪の3府に知事、県には県令が政府によって置かれ、そのほとんどが他藩出身の者が任命された。

そして、これらの藩に納められていた年貢は新政府に入るものとなったが、各藩が抱えていた負債も政府に受け継がれる。具体的には合計7813万3千円もの負債を抱えることとなり、うち400万円は外債であったという。ちなみに7813万3千円という金額は、全国の藩の実収高の2年分であったらしい。

廃藩置県に際しては懸念された反抗はほぼなかったが、薩摩の島津久光は、「西郷に騙された」と怒り、花火をあげてウサ晴らしをしたという。

当初配置されたのは3府302県にものぼったが、年内に3府72県にまで統合され、さらにのち、1道3府43県となった。東京について、現行の「東京都」になるのは、昭和18年(1943)。軍部の圧力によるところが大きいという。

※写真は、明治維新後の政府の改革や当時の状況、背景などを詳しく書いてある『廃藩置県―「明治国家」が生まれた日』。明治初期の本はあまり易しいのがないような気がしますが、比較的読みやすいと思いますヨ。


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名前はわかりやすいのに、「はんせきほうかん」「はいはんちけん」と語句に同じものが含まれるなど、歴史嫌いな方には厄介な二政策。「はんせきほうかん」の「はん」は「版」ですが、「はいはんちけん」の「はん」は「藩」なので注意。はんはんはんはん…。

習いたて当時は何で一気にやらないんだろうとか思いましたが、いろいろ理由はあるものですね…。

黄海海戦 明治27年(1894)

2011-06-29 01:01:25 | 黄海海戦

2006年09月17日





黄海海戦 明治27年(1894)

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この黄海海戦は、日清戦争の最中に起こった日本軍にとって無謀ともいえる戦いであった。

そもそも日本は明治に入ってから、条約を結ぶなどして強国・清と極力衝突しないようにしてきたのであったが、朝鮮問題で対立することになってしまう。やがて対立は激化し、ついに朝鮮東学党の乱発生により、清と戦闘状態に突入した。
黄海海戦時、清には当時世界最大級といわれた定遠・鎮遠という2隻の戦艦があった。さらに、その周りを固める艦隊の艦数は、軍艦82隻に水雷艇が25隻。これに対し、日本軍は速度の遅い旧式艦や、輸送船を含み、軍艦31隻、水雷艇24隻という陣容であった。

ところが、戦闘はなんと日本軍の勝利に終わる。4時間にも及ぶ死闘だったというが、圧倒的不利と考えられていた日本が勝ってしまったのであった。
日本軍の勝因は、速射砲による縦陣攻撃だったらしい。これをやると、敵艦の砲撃は当たりにくくなるのだが、こちらの砲撃も当たりにくくなる。そこで、速射砲で数を撃てというわけであった。

海戦の司令官は伊藤祐亨だったが、独断専行が功を奏したという意味では第一遊撃隊を率いていた坪井航三の功績も評価されるであろう。

※写真は『日露戦争物語―天気晴朗ナレドモ浪高シ (第14巻)』。
これは漫画ですが、黄海海戦のことが非常に詳しく書かれています。タイトルからして日露戦争まで続くんでしょうから、今後も楽しみです。


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(その他の9月17日の出来事)

●安倍貞任討ち死に 康平5年(1062)
⇒前九年の役の始まりとなった安倍頼時の子。

●正岡子規誕生 慶応3年(1867)
⇒俳人であり、歌人でもある。『ホトトギス』の主催として有名。肺結核で若くして死亡した。


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『日露戦争物語』はけっこうマニアックですが、好きな人にはたまらない作品ですよ。黄海海戦に至るまでのことも書いてあるし、オススメです。

それにしてもこの形式なら毎日書けるかもと思ったのですが、なかなかしんどいです(笑)。でもなんとかがんばります。日にち抜けても怒らないでまた見てやってください。