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和同開珎流通開始 和銅元年(708)

2011-06-09 21:32:19 | 歴史隠れ話

歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


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2006年08月10日


和同開珎流通開始 和銅元年(708)

「和同開珎」は、日本最古の貨幣であると記憶している方もいるかもしれないが、近年では、これより古い貨幣として「富本銭」というものも注目を集めている。ただし、「富本銭」については、未だに謎の部分が多く、貨幣として流通していたわけではなく、まじない用のコインだったという見解もあり、確定事項ではないため、今後の研究に期待がかかっている。

なにはともあれ、「和同開珎」は流通貨幣であることはほぼ間違いない。和同開珎は律令国家において、朝廷が発行した「皇朝十二銭」の最初のものである。708年2月に催鋳銭司という機関が置かれ、5月から銀銭、8月から銅銭の鋳造が開始された(銀銭は翌年に早々に廃止)。

発行のきっかけは、同年1月に武蔵国秩父郡で銅が発掘され、それが献上されてきたためと言われている。和銅の年に鋳造されたので、「わどうかいちん」なのかと思いきや、貨幣は「和同開珎」と表記する。これはなぜかというと、この「和同」というのは、吉祥句として年号とかけて採用されたものとする説がある。

和同開珎の大きさは現在の貨幣で言うと、10円玉くらい。重さは一匁というから、3.75グラム。デザインのモデルは中国唐の時代の「開元通宝」で、文字以外はほとんどデザイン的には大差ない。先に鋳造した銀銭はすぐに廃止されたと書いたが、もともと銀銭は実用銭とは考えていなかったらしく、銅銭の普及に力を入れていたと見られている。

当初、一部を除いて物々交換などをしていた庶民たちには、生活に直接役に立つわけではないので、あまり受け入れられなかったらしい。しかし、711年に蓄銭叙位令(貯めた貨幣の量に応じて官位がもらえる制度)などを定めて、普及に努力し、現在和同開珎が出土する範囲は全国にわたっている。

ただ、銭貨としての価値は、やはりあまり浸透しなかった。やがて、「私鋳銭」と呼ばれるいわゆる偽貨幣が出回ったりしたため、朝廷が新銭を発行したりした。この新貨幣の連続発行で、結果的に「皇朝十二銭」ができていくことになる。

※写真は古銭マニア必携の本『古銭と紙幣―収集と鑑賞 無文銀銭から現行貨幣まで』。集め方もそうですが、古銭の解説なども載っています。貨幣年表も付いていて絶対役立つ古銭本!

※あと、こういうパズルもあります。
⇒『1000ピース 日本古銭コレクション 1000-477』



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●皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)

律令国家時代に朝廷が発行した貨幣12種類の総称。ほとんどが銅銭だが、一部銀銭が発行されたものもある。708年~958年までの間に12種類発行された。朝廷では、貨幣に高い法定価値を付与し、銅銭を普及させ、事々の支払いなどで利用しようとしたが、庶民にとっては生活第一であるので、直接生活の役に立たない銅銭はあまり広まらなかった。

ところが、この高い法定価値を逆手にとって、「私鋳銭」と呼ばれるいわゆる偽貨幣を作る者が現れたため、朝廷はたびたび新貨幣を発行することになった。そのため、その発行数で総称して「皇朝十二銭」となったわけである。ちなみに、結局流通量はいま一つだったらしい。

(皇朝十二銭の全名称)
708年:和同開珎、760年:万年通宝、765年:神功開宝、796年:隆平永宝、818年:富寿神宝、835年:承和昌宝、848年:長年大宝、859年:饒益神宝、870年:貞観永宝、890年:寛平大宝、907年:延喜通宝、958年:乾元大宝
※760年に銀銭「太平元宝」、金銭「開基勝宝」も鋳造。なお、708年の和同開珎は銀銭も発行されている。


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「和同開珎」の漢字はテストで間違えたことがありますよ…。なんで年号「和銅」の年にできていながら「和同」なんじゃい…。…と思ったら、年号からつけた名前かどうかははっきりしないそうです。

これは、アレですよ。学生を苦しめるための罠ですよ。きっと!

「ざんぎり頭をたたいてみれば文明開化の音がする」

2011-06-09 17:09:46 | 歴史隠れ話

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2006年08月09日


ちょんまげを落とすことを認められる 明治4年(1871)

「ざんぎり頭をたたいてみれば文明開化の音がする」とは、当時の流行り歌であるというが、江戸時代の象徴とも言うべきちょんまげを、公式に落としてもいいと認めたのが明治4年(1871)のこの日であった。

一応、法令として出されており、法令名は「散髪脱刀令」という。法令名からもわかるが、散髪の他に帯刀についても自由とされていた。ただし、帯刀についてはこれから5年後に廃刀令が出て、禁止されるようになる。

散髪自体は、実は幕末から行われていたのだが、まだ普及率は低かった。しかし、この法令が出ても、多くの人がちょんまげを落とそうとはせず、最初はあまり広まらなかった。江戸時代はちょんまげが普通なのであり、それが明治時代になったからと言ってもそう簡単には落とせない。みんなそう考えるから、街を歩いてみてもちょんまげの人が多い。周りの人と一緒なのを好む人たちは、わざわざ他の人と違うことをしようとはしないのである。

それでも、全国各地に散髪店が普及すると、新し物好きの人は早速散髪をした人もいて、「ざんぎり頭」が少しづつ普及していった。

「ざんぎり」が人々に広く受け入れられるようになったのは、明治6年(1873)のこと。なぜこの年に急に普及したかというと、この年の3月10日、明治天皇が散髪したからであるという。

明治天皇が散髪したことを聞いた国民は「我も我も」と散髪店に行って、一斉に散髪をした。街にざんぎり頭が増ええると、自動的に周りの人と一緒なのを好む人たちもざんぎり頭にする。こうして、1年もすると、ちょんまげをにしている人の方が珍しくなったのであった。

明治天皇のカリスマもうかがわれる一件である。とは言っても、明治天皇がそういうつもりでおられたかどうかは定かではないが。

※写真は『日本の髪型―伝統の美 櫛まつり作品集』。日本の髪型の変遷はそれだけでも一つの文化。古代から現代まで、様々な髪型を実際の人間で再現した写真集です。髪型の変遷がすぐわかります。アマゾンレビュアーの皆さんも軒並み高評価。写真だけでなく解説もあり。値段も内容に比してお安めですヨ。


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●ざんぎり頭(ざんぎりあたま)

漢字で書くと「斬切」、「散切」、「残切」などと書く。明治初期のちょんまげを落とした髪型のこと。

ざんぎり頭は、性格には髷を落として、中央から左右にわけた髪型である。異称は「洋髪」。江戸時代はちょんまげは義務付けられていたので、文明開化の成った明治の時代に古い時代の慣習はふさわしくないとして、わざわざ「散髪脱刀令」なる法令まで出て推奨された。

ちなみに髷を落としても、月代が残る場合は半髪、髷を落としただけだと総髪と呼ばれる。幕末から除々に普及した。
「ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という歌も流行ったが、同じように「半髪頭を叩いてみれば因循姑息の音がする」なども流行った。なお、総髪は王政復古の音がするらしい。


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明治天皇効果はすごいですなあ。現代も内閣府ではクールビズを推奨して、公務員の方々もそれに倣ってますね。指導者によるお手本は効果があるんですね。

…まあクールビズはね…。暑い夏に当たり前のようにスーツの上着着てる方がおかしいと私は思いますが…。このクソ暑いのに、通勤電車内で上下スーツ着用で汗だくの人見ると、気の毒だなあと思いますよ。まあ営業とかの人は仕方ないかもしれないですが、社内勤務なのに、会社でスーツ着用が決められているとしたら、実に非合理的ですな。夏は暑い!それは当たり前…ならば薄着を認めろ!…という声もあるんでしょうかね…。

それにしても、最近忙しくなってきた!更新がマチマチで申し訳ないです。

広島に原子爆弾が投下される 昭和20年(1945)

2011-06-09 17:00:56 | 仰天二ユース

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2006年08月06日


広島に原子爆弾が投下される 昭和20年(1945)

毎年、8月6日になると広島市の平和記念公園で総理大臣も参列する式典が開催される。8月6日は、言わずと知れた広島原爆投下日である。

昭和20年8月6日の午前8時15分、世界初の原子爆弾が広島市に投下された。日本はこの頃、すでに沖縄島も占領され、残るは日本本土のみとなっていたが、軍部はそれでも戦争継続を訴え、国民に対し「一億総特攻」の気構えでいるように呼びかけた。この日本の姿勢を見て、アメリカ合衆国は、最近完成した新兵器である原子爆弾の投下をついに決めたのである。

命令を受けたアメリカ軍の長距離戦略爆撃機B29「エノラゲイ」号は、濃縮ウラン型の5トン原子爆弾「リトルボーイ(コードネーム)」を搭載して、何機かの同型機と共にマリアナ諸島のテニアン島を離陸。
8月6日の未明に広島市上空に到達していたというが、何度か上空を過ぎ去るのみであったという。朝になってからも、B29は上空を通り過ぎるのみであった。

しかし、これが当時の広島市民には最悪の結果となってしまったのである。広島市は、それまであまり空爆を受けることがなかったうえに、当日は上空を過ぎていくのみのB29を見て、いったん出した空襲警報を解除してしまったのである。これに市民も安心してしまい、いつもどおりの生活を始めてしまった。
むろん防空壕に入っていたとしても、放射能を浴びる可能性は高いが、炸裂地から離れた所なら、もしかしたら被害を抑えることができたのかもしれない。

一方で原爆を搭載したB29「エノラゲイ」は、広島上空で目標にすることになっていた相生橋を目視で確認。原爆投下目標は目視で確認することになっていたのだ。そして、ついに原爆は投下された。

エノラゲイ号から放たれた原子爆弾は目標となった相生橋付近上空580メートルあたりで核分裂による爆発を起こした。その瞬間、これまでにないくらいの熱戦と爆風が広島市を襲った。
原爆を落としたB29は、ただちに帰還の途についたが、爆弾が炸裂した時、機体が揺れて、「日本軍の反撃だ」と勘違いしたらしい。

被害については、建造物の倒壊範囲は、爆心地からおよそ2キロの付近までにおよび、付近の地表は一時的に4000度以上となったという。また、放射能も付近に撒き散らされ、即死もしくは負傷による死を免れた人も、放射能に被爆して、後遺症に苦しめられることになってしまったのである。

米軍は、この後8月9日に長崎にも原子爆弾を投下。未曾有の被害の実態を知った日本も、ついに無条件降伏するに至った。

※写真は広島市にある原爆ドーム(旧広島市産業奨励館)
⇒原爆ドーム近辺の地図(livedoor地図情報)

※原爆投下についてもっと詳しく知りたい方は、Wikipediaの「広島市への原子爆弾投下」を見ると、詳しいことがわかると思います。


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●原子爆弾(げんしばくだん)

原子爆弾は原爆と略されることが多い。地上最悪の核兵器で、その威力は人類のみならず、地球そのものにも甚大な被害を与えるとされ、現在では国連で各国の核開発の抑制を進めている。

昭和20年(1945)の太平洋戦争末期、8月6日に広島、8月9日に長崎に投下され、21万人を越えると言われる犠牲者を出した爆弾である。原子爆弾は、核爆発によって炸裂した時の破壊力もすさまじいが、さらに辺りに放射能を撒き散らす兵器である。だから、爆風や熱戦による負傷を癒すことができた人も、放射能被爆により、重篤な症状に陥って亡くなっていった方も大勢おり、いまなお、被爆による症状に苦しむ人もいる。

日本にとっては「被害を受けた」といえる原子爆弾だが、実は日本でも極秘に開発は進められていた。しかし、開発にかけられる予算と人員が少なすぎ、しかも本土では原料となるウラニウム鉱石がなかなか見つからなかったため、結局開発には成功しなかった。一方、アメリカは原爆開発計画を「マンハッタン計画」として、大々的に開発を進め、完成に至ったわけである。

日本は、世界で唯一、原子爆弾を投下された国。その破壊力を身をもって体験した国なのである。現在、広島市では毎年8月6日に市内の平和記念公園で、犠牲者の慰霊式典を催している。現代に生きる日本人は、核兵器の威力、犠牲者のこと、いまなお後遺症に苦しむ人たちがいるということを後世に長く、広く伝え、人類としてもう二度と同じことを繰り返さないために努力していかなければならないであろう。


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今日も朝、小泉総理が広島平和記念公園の平和式典に参列していたようですね。テレビでもやっていました。

平和記念公園には小学生のころに一度だけ行ったことがありますが、ここにある資料館はすごいです。原爆の威力や、それがもたらす被害がすごい生々しくよくわかります。ここを見たら、誰もが「核兵器廃絶」に賛成するだろうと思えるくらいです。

まだ見てない方は、機会があったら一度行ってみてください。

※この記事は2006年8月6日に書いたものです。


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コメント一覧


1. Posted by ルーシー 2006年08月07日 07:56

 ぴのさん、おはようございます。

 あの忌まわしい原爆の悲劇から61年~今回もとても詳細な記事ですね。

 今なお後遺症に苦しまれる多くの方々やご遺族には、本当の意味での終戦はないと言われますし、あの出来事を風化させずに絶えず核兵器廃絶を唱えていくことが、後世に向けての我々の使命のひとつなのでしょう。

 当時、破竹の勢いでヨーロッパを恐怖に包んでいたナチス政権を打破するため~として当初開発された原子爆弾。 ドイツ敗戦後に皮肉にもその矛先は日本へ向けられました・・・

 ・・・戦争に勝者はいないのですし、各国のすみやかな協力のもと、徐々にでも核兵器を廃棄していってほしものです。

2. Posted by mansaku21 2006年08月08日 20:14

>ルーシー様
お返事遅れてしまってすみません。最近、何かと微妙に忙しくなってきました…。くそう。
核兵器については、日本が唯一その威力を喰らった国だということを考えると、やっぱり核兵器廃絶を唱えていくことは必要ですよね。
私は戦後の人間なので、原爆はもちろん、戦争も生で目の当たりにすることはありませんでしたが、平和記念公園の資料館を見てから、いろいろ戦争の記録などを見たりして、自分なりに戦争について考えるようにしています。戦争をせずに問題を解決できるようになっていってほしいものです。

3. Posted by 高橋 卓也 2007年08月10日 11:58

アメリカの人達は命を捨てて居るだけなのでしょうか、日本の事、恨んで居るのでしょうか、底の辺を詳しく教えて下さい

4. Posted by ぴの 2007年08月10日 16:48

>高橋様
詳しくといっても、私は専門家ではないし、感情面の話となると断定形では述べられないかと思います。

でも、戦争中に限って言えば、アメリカでは真珠湾攻撃を例に挙げて、「日本はだまし討ちをしたひどい国だ、リメンバー、パールハーバー。」といって反日感情をあおることで長期戦による厭戦感情を回避しようとしていたと言われているようです。

”義民”佐倉惣五郎刑死 承応2年(1653)

2011-06-09 16:53:17 | 仰天二ユース


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2006年08月04日



”義民”佐倉惣五郎刑死 承応2年(1653)

”義民”佐倉惣五郎の話は、江戸時代に講談や歌舞伎などで広く取り上げられて、世間に広まったので、ご存知の方もいるかと思われるが、一応、あらましを紹介してみよう。

佐倉惣五郎は、本名を木内惣五郎といって、下総国印旛郡公津村の名主である。
惣五郎が33歳の時、下総国も大飢饉に見舞われたことがあった。もちろん、佐倉領も貧窮状態に陥り、そのしわ寄せは農民に回ってきた。佐倉藩の代官は、農民たちの家の財産までも搾り取るように重税を課し、さらに年貢を納められない者を怠納と称して処罰した。

この状況に、惣五郎はたまりかねて他の村の名主たちとも話し合って、代官所への怠納処分の中止を願い出たが、この訴えはむなしく取り下げられ、状況は改善しなかった。

農民たちは、飢饉の苦しみと重税に対する怒りで一斉蜂起に至ろうかというところまで追い詰められていた。しかし、一斉蜂起しても、加担者全員が死罪や永牢などの重刑に処されるばかりである。そこで、惣五郎は、御法度である将軍家への直訴を決めた。惣五郎が代表となれば、代表者への処分だけのすむであろうと考えたからである。

惣五郎は、家族に害が及ばないように、妻に離縁状を渡して江戸に出向。上野東叡山入り口の三枚橋付近で将軍家綱に直訴に及んだ。

かくして佐倉領民の願いは聞き届けられ、3年間の課税免除となったというが、ご法度を犯した以上、惣五郎の処罰は免れない。惣五郎は磔刑、妻子も死罪となった(妻子は死刑にはならなかったともいう)。領内の農民たちは、助命嘆願を行ったというが許されず、公津村の刑場で刑は執行された。

江戸時代には、他にも義民の話がいくつかある。各地の農民は飢饉のたびに飢えと重税に苦しみ、蜂起や嘆願を行ってきた。そして、そのたびに代表者が犠牲になったのである。

⇒佐倉城周辺の地図(livedoor地図情報)

※佐倉惣五郎については、過去には実在が問われたりもしたそうですが、この本の著者によって実在は証明されています。佐倉惣五郎のことをもっと知りたい人にオススメ⇒『佐倉惣五郎』。


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最後の方に書きましたが、他にもこういう話はあります。そのうちの一つがですねー、なんと『少年少女日本の歴史 立ちあがる民衆―室町時代後期』に載っています。どういう話かは読んでみてのお楽しみ。ウフフ…。でも泣く話ですよ。みんなのために犠牲になるのって実は素晴らしいことなんですねぇ。
いや、ホントこの漫画はすごい。わかりやすさ大爆発。小学生~中学生くらいのお子様がいらっしゃる方は絶対オススメ。読ませておけば、テストの点もあがりますよ!多分。