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2011-06-04 16:46:34 | 今日は何の日

歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


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2006年07月15日


豊臣秀次切腹 文禄4年(1595)

豊臣秀次は豊臣秀吉の養子で、関白職を譲られるなど秀吉の後継者とされていた人物である。

秀次の母は秀吉の姉・ともなので、もともと秀吉と縁のある人物であるが、秀吉には一向に子が出来ず、やっと側室・淀殿にできた秀吉初の子・鶴松もほどなく死亡したため、失意の秀吉は、秀次を自身の後継者に任命して、関白職を譲った。秀吉ももう齢50を越えており、これから子を産ませるのは困難と考えたのかもしれない。

ところが、文禄3年(1593)にまたしても淀殿が秀吉の第二子を出産。これが、のちに秀頼となる「お拾」の誕生であった。
子が生まれれば、その子に後を継がせたくなる。特に秀吉のような一代で成り上がり、権力を手中にした人物にとっては、その気持ちも大きかったであろう。自らの正等な血をひく子供ができたのである。やがて何としてもお拾に自分の後を継がせたくなった。

となると、秀次は邪魔である。しかし、秀次にはすでに関白職を譲ってしまったし、世間も一応は秀次を秀吉の後継者と見ている。秀吉も最初は、お拾と秀次の娘を婚約させたりして、「秀次の後に拾に政権移譲」というような方向で進めていた。しかし、お拾の実母である淀殿はそうはいかない。早いところお拾に後を継がせたい。淀殿は、そうするように秀吉に進めたであろう。また、秀吉の家臣である石田三成も淀殿に同調して、秀吉を説得していたという。

だが、秀次が英明優秀な武将であったなら、むざむざ切腹させられるような事態にはならなかったのかもしれない。しかし、残念ながら、秀次は養父・秀吉の実子に対する溺愛ぶりを見て、不安と猜疑の念に陥ってしまった。「養父・秀吉は、自分の子を後継者にしたいと思っているのではないか。」「そのためには自分は邪魔者なのではないか。」「養父・秀吉は、自分を殺すつもりなのではないか。」…。

秀次の猜疑の念は頂点に達し、秀次はしばしば奇行をとるようになったとされている。騎馬武者に命じて、洛中の美女を人妻であろうと見境なく、さらわせて自身の居所であった聚楽第に退きこんだとか、正親町天皇の諒闇中(喪中)にも関わらず狩り(殺生)をしたとか、「人は生まれる前どうなっているのだ」と言って、妊婦の腹を無理矢理裂いたとか…。ついに、秀次は世間に「殺生関白」と言われてしまうに至った。

これはお拾に後を継がせたい秀吉の最高の口実になった。

ここに、さらに関白秀次謀叛事件が発生する。この頃、会津の蒲生氏郷が没したのだが、太閤である秀吉は、氏郷の遺児・鶴千代の相続を認めず、会津は没収と決定した。ところが、名目上の最高権力者である関白秀次の所に、裁可を求める使者が来た時、秀次は「鶴千代の相続を認める」と判決したのである。

事実上の最高権力者はむろん太閤秀吉なのだが、形式上、関白である秀次の裁可は必要だった。ここで、秀次はついに秀吉に対し謀叛をしたとみなされ、関白職を剥奪されて高野山に追放された。

そして、ほどなくして秀次は自害を命ぜられ、その数奇な生涯を閉じた。秀吉は、秀次の関わった者すべてを処罰の対象とし、秀次の子女、妻妾39名が京都三条河原で無残に斬り殺された。また、秀次に近しい関係となっていた武将の中にも処分を受けたものもいる。

わずかな期間に日本の最高権力を手にしたものの、その晩年は悲しく寂しいものであった。

※写真は、京都の木屋町通り沿いにある豊臣秀次墓所・瑞泉寺。
⇒豊臣秀次墓所・瑞泉寺周辺の地図(livedoor地図情報)

※秀次の本は、『豊臣秀次―「殺生関白」の悲劇』がオススメ。一般的には暴君とか凡君のイメージに固められてしまっている秀次ですが、本当にそうだったのかという点をテーマに秀次のことを研究した本です。著者は、戦国史研究の第一人者・小和田哲男氏。これまでの秀次のイメージが覆される一冊。値段も安いし、秀次に興味を持ったなら、まずは読んでみては?


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●豊臣秀次(とよとみひでつぐ)

豊臣秀吉の甥でのち養子。実父は三好吉房といい、母は秀吉の姉・ともである。

天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いに16歳で参戦。秀吉の甥として優遇された参戦だったと言われ、歴戦の武将たち補佐の元、それなりの功を立てて、河内北山2万石を与えられた。

しかし、続いて参戦した翌12年の小牧・長久手の合戦では、池田恒興の奇襲作戦案を支持して、自ら奇襲軍を率いるが、徳川軍に見破られて大敗。自らはどうにか逃げ延びたが、共に作戦にあたっていた池田恒興、元助親子と、森長可は戦死。敗走中に馬を失い、通りかかった馬上の可児才蔵に「馬をよこせ」と言ったものの、「雨降りに傘をよこせと言うようなもの」と断られたという逸話すら残る無残な敗戦を喫したのである。

この秀次の体たらくに秀吉は激怒し、秀次は大垣城に謹慎させられ、さらに五ヶ条の訓戒を受けるなど叱責を受ける。

しかし、叱られて落ち込むばかりではない秀次は、翌13年の紀州平定戦、四国平定戦で功をたて、近江43万石の大封を与えられた。もちろん秀吉の身内というコネもあるが、それなりの武功もたてていたのである。

その後も、九州平定戦、小田原征伐などに従軍し、いずれも武功があったという。これで、秀次はさらに尾張一国と北伊勢五郡なども与えられて、約100万石を領した。また、小田原征伐後の奥州南部の九戸政実の反乱時には、総司令官となって出陣。そして、その帰路、奥州平泉や下野の足利学校、相模の金沢文庫などに立ち寄り、所蔵の和漢の稀少本を京都に運ばせた。本来百姓として一生を終えるはずだった秀次であるが、地位を得た以上、それなりの学問も必要であると思っていたとみられ、また、興味も示していたのである。

これほど、挫折の少ない順風満帆な秀次である。使ってみれば、それなりの人物のように見えた。天正19年、待望の第一子・鶴松を病で失った秀吉は、失意のなか、なんとか自らの一族による世襲政権を、と考えたのであろう。秀次を後継者として定めたのである。

そして、秀次はついに関白にまで上り詰めた。秀吉は下詰みから、コツコツと実力でのし上がったが、秀次はなんのことはなく、若干22歳にして関白である。これ以上の順調な人生はないように思われた。

ところが、文禄2年(1593)に、秀吉に第二子・拾が生まれると秀次は煙たがられるようになり、次第に秀吉とも不和になっていった。そして、ついに文禄4年(1595)、高野山に追放されて、7月15日に切腹。享年27歳。

秀次の死後も、秀吉は秀次の痕跡を徹底的に消そうとした。秀次の子女・妻妾を皆殺しにし、秀次の居所であった聚楽第も取り壊した。さらに、自ら命じて秀次の側近を務めさせていた武将たちの中にも処分を受けたものもいる。


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後継者についての問題はやはり筋を通すのが一番ですね。「父が弟を溺愛して後継者にしようとしたために混乱が起きた」なんていう例は戦国のみならず、他の時代にも多く見受けられます。中には、保元の乱だの、応仁の乱だのと、一族のみならない大規模な混乱になっている事件もありますぜ。

皆さん、問題が発生した時は、まずは筋を通した方がいいですよ(笑)。

歴史のウラ話&「今日は何の日」です!

2011-06-04 16:29:51 | 重大ニユース


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2006年07月13日

福島正則没 寛永元年(1624)

福島正則は戦国時代~江戸時代初期の武将。

福島正則の名を聞いてすぐに思い出されるのは賤ヶ岳七本槍の1人ということではないだろうか。正則は、確かに戦働きに長けていた。だから、主君・豊臣秀吉の天下統一戦や、朝鮮出兵では大活躍した。また、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、西軍の石田三成憎しの思いもあって、東軍についたが、決戦当日はもちろん、当日までの岐阜城攻めや小競り合いなどでもなかなかの働きぶりを示していた。

だが、徳川家康により、江戸幕府が成立してからは当然戦はなくなった。代わりに幕府は支配体制の強化を推し進め、様々な政策を実施して大名たちにそれを課した。正則などは、尾張国(愛知県)名古屋城の建築の時に、加藤清正に愚痴を言って、清正から「そんなに嫌なら戦の準備をすればよい」などとあしらわれている。

正則は、元々秀吉子飼いの武将で、豊臣家への忠誠心にも厚い男だったため、徳川家からは常に警戒を受けていた。だからこそ1615年の大坂の陣の時も、江戸城留守居役として、合戦には参加させてもらえなかったのである。

正則は、関ヶ原後、安芸広島49万8千石余を与えられた。そして数年過ぎたある時、壊れた石垣を修理しようとして、規則に従って正則は、幕府に石垣修理の許可を求める。当時「城の無断改築・修理は禁止。まず申し出よ。」という命令が幕府から出ていたので、正則はそれに乗っ取って申請をしたのである。しかし、一向に幕府からの返答はなかった。

そこで正則は、やむなく許可を得られないまま工事を始めてしまった。「たかだか石垣だけ」、「申し出はしているのだからいいだろう」という油断がこうさせた。だが、工事を始めて間もなく、正則はこの無断工事を「規約違反」として指摘され、改易となってしまった。この事件については、福島家を改易にしたい幕府の陰謀であったといわれている。

福島家の家臣たちは、この改易命令に納得せずに、「一戦あるべし」といきり立つ者もいたが、正則は少し考えてから、「大御所(家康)後健在ならば、申すべきこともあろうが、ご当代(秀忠)には申すことはなし。仰せに従おう。」と言って、家臣たちをなだめて神妙に沙汰に伏した。

正則が異論を唱えず、神妙に沙汰に伏す態度を見せたので、罰の悪さを感じたのか、幕府は当初福島家を改易としていたところを、信濃国(長野県)川中島に4万5千石を与えて、家名の存続も許した。

正則はそのまま不遇のうちに寛永元年に没した。享年64歳。

⇒福島正則の霊廟がある長野県上高井郡小布施町の岩松院付近の地図(livedoor地図情報)

※写真は学研の図説シリーズ『図説・戦国武将118―決定版』。福島正則も載っています。武将の甲冑や家紋、旗印、肖像などあらゆるデータを人物解説付きで網羅した見て楽しい本です。オススメ!
あと、正則についてのみの本は『福島正則―最後の戦国武将』というのがあります。福島正則個人の一生を追っている著作は意外と少なめで、この本なんかは貴重ですが、内容は専門的というかオカタイ。


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豪傑タイプのようなイメージのある福島正則。晩年は上記のように不遇な人生となってしまいました。正則改易事件については、本多正純が正則から「石垣修理したい」という依頼を何回か受けて、何回目かに「福島どのなら石垣くらい許可なしで修理してもいいでしょう。」と言ったとかいう話しもあります。こちらの場合は完全に騙してますね。幕府はこういう汚いことを初期段階で数回行って、ようやく支配体制を磐石にしたんですなあ…。

これだけ書くと幕府が嫌いになりますね…。

源頼朝が征夷大将軍に任命される

2011-06-04 15:57:02 | 江戸時代のビッグ二ユース

2006年07月12日




源頼朝が征夷大将軍に任命される 建久3年(1192)

「1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府」で有名な鎌倉時代が幕を開けたのは、この頼朝の征夷大将軍就任によってである。頼朝は征夷大将軍に任ぜられてから鎌倉に幕府を開くが、これは日本初の武家政権であったわけだから、日本の大変革の日であったとも言える。

そもそも、頼朝はかねてより征夷大将軍の位を熱望していた。しかし、後白河法皇が反対し、なかなか実現しなかったのである。法皇の反対の理由は、「征夷大将軍とは、天皇の信頼厚い「廷臣」を任命すべきである。」というものである。頼朝は、鎌倉から動かなかったから、廷臣ではないというわけだ。

しかし、頼朝にも考えがあった。征夷大将軍は、元々東北の蛮人・蝦夷討伐のための役職であったので、頼朝は、この役職の職務を朝権代行職として置き換えて考えていた。これはつまり、東国の最高責任者としての名目になるということである。

だが、後白河法皇は、廷臣以外に征夷大将軍の位を与えるのは朝廷外に新しい権力を産むようなものだとして、一向に許可を出さなかった。とはいえ、源義仲の討伐、平氏討伐で功のある頼朝に何も報いないわけにもいかないので、法皇は右近衛大将という官職を頼朝に与えた。ところが、頼朝は再び征夷大将軍の位を望む大義名分を手に入れる。奥州平泉の制圧である。

なぜ平泉を制圧することになったかといえば、平泉には、平氏討伐後の紆余曲折で朝敵となっていた頼朝の弟・義経が匿われていたからだった。また、平泉は、中央の影響が薄いうえに金の産出量が多い。さらに、大陸との交易も行い、独自の文化を築いていったため、見方によっては独立国家としての体勢を整えようとしていると見えたであろう。ゆえに、これの討伐は、征夷大将軍の役目にぴったりである。頼朝はそう思っていたのかもしれない。

しかし、頼朝の思惑が読めている後白河法皇は、それでも頼朝を征夷大将軍に任じようとはしなかった。あくまでも政治は皇室が、公家中心で行うものという考え方である。少し前まで、貴族に雇われる身分にすぎなかった武士の政権というのは、さすがに想像できないであろうから、後白河法皇の考え方も、まったく仕方ないところではないだろうか。

結局、後白河法皇は、崩御するまで頼朝を征夷大将軍に任ずることを許さなかったが、法皇の崩御後に即位した後鳥羽天皇は、ついに頼朝を征夷大将軍に任じ、公家政権は終わりを告げることとなったのである。

⇒鎌倉の中心・鶴岡八幡宮周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は、『頼朝の天下草創』。シリーズ日本の歴史の鎌倉編。シリーズだけに鎌倉時代の流れも載っているので、頼朝以外のこともわかります。まあこれを気に入った場合、シリーズを全部買いたくなりますが…(笑)。
安い新書では、『源頼朝―鎌倉殿誕生』というのもあります。私は読んでないんですが、レビューを見ると割りと好評ですね。
小説もあります。山岡荘八の『源頼朝〈1〉』が私は好きです。


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●源頼朝(みなもとよりとも)

鎌倉幕府の創始者。源氏の棟梁。義朝の三男。
父・義朝が、平治の乱で敗れた際、義朝と共に逃げる途中ではぐれ、平清盛に捕らえられる。清盛は最初、頼朝を殺そうとしたが、清盛の母・池禅尼がが命乞いをしてくれたので、伊豆の蛭ヶ小島に流されることになった。伊豆では、北条時政が頼朝を監視しており、頼朝は毎日お経を読む生活をしていたらしい。

以仁王の令旨を受けた頼朝は、監視役ながら平氏をよく思っていなかった北条時政の援助を受けて挙兵。一時、石橋山の合戦で大庭景親に破れ窮地に陥るが、難を逃れ、安房(千葉県)に逃げ延びた。以後は、関東武士団を率い、奥州から参陣した弟の義経を大将に、平氏討伐をすすめ、1185年にこれを達成。しかし、義経とは対立し、旧知の奥州藤原氏を頼って落ち延びた義経を討つべく、奥州征伐を断行し奥州も平定した。

1192年、征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開く。1199年、落馬がもとで死去したとされるが、死因については史書によって様々であるという。


●征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)

基本的には武家の棟梁を表す役職というべきか。
もとは、蝦夷討伐のために、平安時代に設けられた役職で、初代は大伴弟麻呂がつとめたが、平安時代の征夷大将軍といったら、何と言っても坂上田村麻呂が有名であろう。

その後、武家の棟梁を指す役職となり、これになると幕府を開くようになった。「源氏の頭領のみが役職につける」といわれるが、特別そういう規則があるというわけでもないらしい。ちなみに足利・徳川は共に源氏の子孫(徳川の方は自称)。秀吉は百姓の子だけど、さる公家の養子に無理矢理なって藤原姓を名乗ったことはある。でも、征夷大将軍にはなれないので、関白職についた。一説には、公家から「関白の方が征夷大将軍よりも上ですよ」と言われて関白になったともいう。


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個人的に頼朝ってあんまり好きじゃないんですよねぇ。別に判官びいきってわけじゃないですけど、なんというかこう…自分勝手なヤツというイメージがありまして…。

でも去年の大河「義経」の頼朝=中井貴一はなかなかよかったです。個人的にイメージにあっていて…。あ、だけど役柄的にはあんまり好きじゃないですよ。ただ役柄にマッチした演技だったなあ…ということでありんす。

昔、芳賀研二が浮気したときに誠意を見せるとか言って、「誠意大将軍」とか言ってたなあ。何とかけてんだ。何と。恐れ多いものとかけるな!

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