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9月1日といえば、防災の日であるが、それはこの関東大震災のあった日だからだそうである。

2011-06-14 20:13:57 | 仰天二ユース


歴史かくれ話と今日は何の日


2006年09月01日


関東大震災 大正12年(1923)

9月1日といえば、防災の日であるが、それはこの関東大震災のあった日だからだそうである。

大正12年(1923)9月1日の午前11時58分、関東地方を大地震が襲った。震源地は相模湾底で、地震の規模をあらわすマグニチュードは7.9。凄まじいまでの地鳴りから始まり、すぐに激しい縦揺れが起こったという。

その揺れは、震源地周辺はもちろん、関東全域から東北地方南部までに及んだ。激震は3回におよび、激震が収まった後も余震はしばらく続いて、市民は不安な時を過ごした。家屋は倒壊し、地面には至るところに亀裂が入って、その光景は地獄絵図さながらであったであろう。

ちょうど昼時で、昼食の準備をしている市民が多く、調理のために火を使用していた。これが被害を大規模にする最大の要因だったわけである。激震から家屋倒壊に続いて、各地で火の手があがった。特に人口密集地帯である横浜市や東京都心部では、たちまち黒煙がたちこめ、あちこちに火は広がった。

折りしも、この日の関東は明け方から強風が吹いており、上空の黒雲は強い雨を降らしていたという。朝方には雨はやんで、陽も差し始めたというが、風は時折強く吹いていた。

火は強風にあおられて、どんどん燃え移って巨大化していく。東京下町では、水道管破裂によって、消防活動も満足にできず、火勢は増し続け、ようやく火勢がおさまったのが三日後だったという。だから、市民がようやく一息ついた頃には、辺りは倒壊による被害よりも火災のよる被害で、灰燼に帰していたのであった。

地震がもっとも怖い理由は、別の災害を併発するからであろう。すなわち火事と津波である。関東大震災の際には、各地で起こった火事が、やがて火災旋風を巻き起こし、巨大な火柱となって辺りを飲み込んでいくのだ。揺れによる危機を逃れ、一旦は本所の被服廠跡避難所に集まった人たちは、この迫り来る火災旋風に逃げ場を失い、一気に焼死していった。4万人近くがここで焼け死んだという。

一説によると東京では、地震そのものによる建物の倒壊で亡くなった人は2千人ほどだったが、火災による使者数は全部で6万人近かったという。火災の勢いを物語る数値といえよう。

また、沿岸では8メートル近い大津波に襲われたところがあった。まさに逃げ場なしの大災害であった。

情報入手手段を断たれた市民は、次なる大地震、大津波発生などの流言飛語におびえたり、この混乱に乗じて朝鮮人が暴動を起こすなどというデマによって、朝鮮人を襲撃するなど、災害による被害が収まっても混乱を増すばかりであった。

震災による被害総額は55億円~60億円といわれる。当時の国家予算が15億円だったというから、実に国家予算の4倍近い甚大な被害をこうむったのである。

※写真はちくま文庫の『写真で見る関東大震災』。関東大震災直後の写真が多数収録された、資料としてもすばらしい本です。震災経験者を含む多数の人々の寄稿で、関東大震災をより詳しく知ることができます。内容に比してそれほど高くない値段もナイス。ぜひ多くの人に手にとってもらいたい本です。


⇒こちらは関東大震災のノンフィクション『正午二分前』。経験者からの証言をもとに書いたリアルなノンフィクション!


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(補足情報)

●震災による被害報告

被害については、手持ちの資料によっては弱冠相違が見られるが、概ね以下の通りである。

・家屋全壊 約13万戸(罹災戸数 約40万戸)
・家屋半壊 約13万戸
・家屋消失 約45万戸
・死者   約10万人
・行方不明 約4万5千人
・被害総額 約55億円~60億円

※死者の中には火事で亡くなった人が多い。
※また、浅草名物だった「12階」こと「凌雲閣」も途中から崩れるなど、木造の民家のみならず、都市部の頑丈なレンガ造りの建物も例外なく被害を受けた。


●流言飛語について

震災による通信系統、交通機関のストップは、人々の不安を煽り、様々な流言飛語が飛び交った。なかでも、大地震の再襲来や大津波の再来などの噂は、まことしやかに囁かれ、人々をなお混乱に陥れたが、このほかにも、この混乱に乗じた人災や犯罪が発生しているという流言もあった。

それらについては「首相が暗殺された」とか「市ヶ谷監獄から囚人が脱走した」などが言われたが、「朝鮮人が暴動を起こしている」「朝鮮人が盗み、強姦などを行っている」などの朝鮮人関連の流言は特にひどく、人々は朝鮮人を「自衛手段の行使」として襲い、虐殺された朝鮮人は多数にのぼった。
軍隊や警察もこの朝鮮人殺害に加わっていたというから、流言飛語の一部は政府によって出されたものという憶測もなされている。


●西郷さんで安否確認

上野公園にある西郷隆盛の銅像には、震災当時、多くの人が安否確認のビラを貼り付けていったという。西郷さんは白いビラで埋め尽くされたほどであった。


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私の祖父は関東大震災を3歳くらいのときに経験したと言っていました。何しろ3歳ですから何も覚えてはいないとのことでしたが、震災を経験したお年寄りもいるくらいですから、関東大震災というのは、そう遠くない歴史です。

私たちのよく知る1995年の阪神・淡路大震災ではおよそ6千人の人が亡くなったそうです。
日本はどこにいても地震に見舞われる地形だそうですから、私たちも災害に備えて、いざ大地震となったときに、少しでも被害を抑えられるようにしておきたいですな。


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8月18日の政変 文久3年(1863)

2011-06-11 16:16:19 | 仰天二ユース

歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


2006年08月18日


8月18日の政変は、尊王攘夷論をもって宮中で発言力を高めていた公卿と、それを支持する長州藩を京都から追い出した事件である。

この政変の背景は少しややこしいので、一つずつ重要事項を整理してみた。
まず、当時の状勢であるが、当時は、孝明天皇が熱烈な攘夷論者であることもあって、尊皇攘夷論者が勢力を強めていた。対するは公武合体派で、これは簡単に言えば、幕府と朝廷が手を結ぶというもので、要するに尊王・佐幕の両方どりの、どちらかといえば穏健的な思想である。

当時、この公武合体派が、尊皇攘夷論者によって「天誅」と称して斬殺される事件が相次いでいた。このため、朝議も尊攘論に傾かざるをえない。誰も「天誅」を加えられたくはないので、自然と公武合体派は小さくなってしまうのである。

そこで、文久3年(1863)8月13日、尊攘派公卿がその発言力を背景に強行に決定したのが、孝明天皇の大和行幸である。これは、「橿原にある神武天皇陵に尊王攘夷断行を祈願するため」として決定されたもので、尊攘派は、この機に一気に倒幕の挙兵をも実現させようという過激な考えを持っていたという。

その過激な考えのさきがけとして8月17日、「天誅組」が一斉蜂起した。天誅組の指導者は、このとき弱冠19歳の公卿・中山忠光で、組の中心は土佐勤皇党の吉村寅太郎、備中の藤本鉄石などで、総勢39名の尊皇攘夷の浪士たちが集まったという。

彼らが目指したのが、幕府の直轄地(天領)で、当時は鈴木源内という代官がいた大和(奈良県)の五條であった。天誅組は源内をさっそく血祭りにあげ、村役人らに「源内は悪政の甚だしいゆえに天誅を加えた。今後は五條は朝廷支配地となる」などと話したという。これはまさしく、「倒幕挙兵の先駆け」であったと言えるであろう。

ところが、事態は一変した。結論から言うと、天誅組挙兵の翌日、8月18日の政変が発生するのだ。8月18日の政変は、公武合体派の中川宮を中心に実行された。中川宮は、公武合体派の諸藩に呼びかけクーデターを起こす。親藩の会津藩、この時点では公武合体派だった薩摩藩もこれに加わった。

8月18日未明、深夜1時である。中川宮、近衛忠熙父子などの公卿、京都守護職で会津藩主の松平容保、所司代稲葉正邦らが続いて参内した。すると、御所の九門を会津、薩摩、淀などの諸藩の兵士が取り巻き、厳重に閉鎖された。

つまり、尊攘派の入る隙を与えずに朝議で重要事項を決定してしまったのである。重要事項とは、孝明天皇の大和行幸の延期、尊攘派公卿の参内禁止と謹慎、長州藩の堺町門警護解任など。これにより、形勢は逆転した。

尊攘派の三条実美らも異変に気づいて御所に駆けつけたが、参内は認められず、長州藩兵も勅使の命令で御所を引き払った。京都東山の大仏妙法院協議した尊攘派公卿7名と尊攘派諸藩志士らは、いったん長州に落ち延びることを決定し、翌19日朝、大雨のなか京都を去った。

クーデターは成功である。これにより、政局は公武合体派が主導権を握ることになったのである。

⇒政変の発生元・京都御所周辺の地図(livedoor地図情報)
⇒天誅組義士の墓周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は幕末京都の詳細な位置関係がわかる『京都時代MAP 幕末・維新編』。幕末の地図の上から現代の地図を書いたトレーシングペーパーを重ねてみることで、現在のどのあたりに幕末にはどんなものがあったのかがわかるという仕組み。面白いですね。これは幕末ファンにはたまらない逸品ですよ。


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実にわかりやすい名前なんですが、なんともすっきり説明できないクーデターです…。
孝明天皇は、過剰なまでの攘夷派だったそうですが、皇女和宮を14代将軍家茂に嫁がせるなど、公武合体にはおおむね賛成で、尊皇攘夷論者が熱望する倒幕の心はなかったとか。
天皇を担ぎ出せば名目が得られるのかもしれませんが、担がれる方も大変ですな…。

なお、このとき、7人の公卿が長州に落ちていったので、このことを七卿落ちと言ってます。これまた呼び方は単純明快だ…。


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1. Posted by 出来屋 2006年08月19日 10:31



2. Posted by 35式 2006年08月19日 11:18

ネットもTVもない時代だけに全体の状況掌握がさぞかし大変だったろうと思います。
どうやって整理していたんでしょうね~。

3. Posted by ぴの 2006年08月20日 04:50

>出来屋様
リンク貼っていただきありがとうございます!
最近更新滞りまくりですが、またお時間ある時にでも覗いてください!

4. Posted by ぴの 2006年08月20日 04:53

>35式様
もうほんと現代では考えられないですよね。最近はケータイがない時代ってどうしていたんだろうとかしみじみ思いますからね~。私だってつい7年ほど前にはケータイ持ってなかったんですが…。

そう考えると、逆にあの時代にこれがあったら…と妄想してしまいます。
確かに情報の伝達とかどの程度の早さでやっていたんでしょうね。調べてみようかな…。

広島に原子爆弾が投下される 昭和20年(1945)

2011-06-09 17:00:56 | 仰天二ユース

歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


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2006年08月06日


広島に原子爆弾が投下される 昭和20年(1945)

毎年、8月6日になると広島市の平和記念公園で総理大臣も参列する式典が開催される。8月6日は、言わずと知れた広島原爆投下日である。

昭和20年8月6日の午前8時15分、世界初の原子爆弾が広島市に投下された。日本はこの頃、すでに沖縄島も占領され、残るは日本本土のみとなっていたが、軍部はそれでも戦争継続を訴え、国民に対し「一億総特攻」の気構えでいるように呼びかけた。この日本の姿勢を見て、アメリカ合衆国は、最近完成した新兵器である原子爆弾の投下をついに決めたのである。

命令を受けたアメリカ軍の長距離戦略爆撃機B29「エノラゲイ」号は、濃縮ウラン型の5トン原子爆弾「リトルボーイ(コードネーム)」を搭載して、何機かの同型機と共にマリアナ諸島のテニアン島を離陸。
8月6日の未明に広島市上空に到達していたというが、何度か上空を過ぎ去るのみであったという。朝になってからも、B29は上空を通り過ぎるのみであった。

しかし、これが当時の広島市民には最悪の結果となってしまったのである。広島市は、それまであまり空爆を受けることがなかったうえに、当日は上空を過ぎていくのみのB29を見て、いったん出した空襲警報を解除してしまったのである。これに市民も安心してしまい、いつもどおりの生活を始めてしまった。
むろん防空壕に入っていたとしても、放射能を浴びる可能性は高いが、炸裂地から離れた所なら、もしかしたら被害を抑えることができたのかもしれない。

一方で原爆を搭載したB29「エノラゲイ」は、広島上空で目標にすることになっていた相生橋を目視で確認。原爆投下目標は目視で確認することになっていたのだ。そして、ついに原爆は投下された。

エノラゲイ号から放たれた原子爆弾は目標となった相生橋付近上空580メートルあたりで核分裂による爆発を起こした。その瞬間、これまでにないくらいの熱戦と爆風が広島市を襲った。
原爆を落としたB29は、ただちに帰還の途についたが、爆弾が炸裂した時、機体が揺れて、「日本軍の反撃だ」と勘違いしたらしい。

被害については、建造物の倒壊範囲は、爆心地からおよそ2キロの付近までにおよび、付近の地表は一時的に4000度以上となったという。また、放射能も付近に撒き散らされ、即死もしくは負傷による死を免れた人も、放射能に被爆して、後遺症に苦しめられることになってしまったのである。

米軍は、この後8月9日に長崎にも原子爆弾を投下。未曾有の被害の実態を知った日本も、ついに無条件降伏するに至った。

※写真は広島市にある原爆ドーム(旧広島市産業奨励館)
⇒原爆ドーム近辺の地図(livedoor地図情報)

※原爆投下についてもっと詳しく知りたい方は、Wikipediaの「広島市への原子爆弾投下」を見ると、詳しいことがわかると思います。


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(キーワード)

●原子爆弾(げんしばくだん)

原子爆弾は原爆と略されることが多い。地上最悪の核兵器で、その威力は人類のみならず、地球そのものにも甚大な被害を与えるとされ、現在では国連で各国の核開発の抑制を進めている。

昭和20年(1945)の太平洋戦争末期、8月6日に広島、8月9日に長崎に投下され、21万人を越えると言われる犠牲者を出した爆弾である。原子爆弾は、核爆発によって炸裂した時の破壊力もすさまじいが、さらに辺りに放射能を撒き散らす兵器である。だから、爆風や熱戦による負傷を癒すことができた人も、放射能被爆により、重篤な症状に陥って亡くなっていった方も大勢おり、いまなお、被爆による症状に苦しむ人もいる。

日本にとっては「被害を受けた」といえる原子爆弾だが、実は日本でも極秘に開発は進められていた。しかし、開発にかけられる予算と人員が少なすぎ、しかも本土では原料となるウラニウム鉱石がなかなか見つからなかったため、結局開発には成功しなかった。一方、アメリカは原爆開発計画を「マンハッタン計画」として、大々的に開発を進め、完成に至ったわけである。

日本は、世界で唯一、原子爆弾を投下された国。その破壊力を身をもって体験した国なのである。現在、広島市では毎年8月6日に市内の平和記念公園で、犠牲者の慰霊式典を催している。現代に生きる日本人は、核兵器の威力、犠牲者のこと、いまなお後遺症に苦しむ人たちがいるということを後世に長く、広く伝え、人類としてもう二度と同じことを繰り返さないために努力していかなければならないであろう。


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今日も朝、小泉総理が広島平和記念公園の平和式典に参列していたようですね。テレビでもやっていました。

平和記念公園には小学生のころに一度だけ行ったことがありますが、ここにある資料館はすごいです。原爆の威力や、それがもたらす被害がすごい生々しくよくわかります。ここを見たら、誰もが「核兵器廃絶」に賛成するだろうと思えるくらいです。

まだ見てない方は、機会があったら一度行ってみてください。

※この記事は2006年8月6日に書いたものです。


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1. Posted by ルーシー 2006年08月07日 07:56

 ぴのさん、おはようございます。

 あの忌まわしい原爆の悲劇から61年~今回もとても詳細な記事ですね。

 今なお後遺症に苦しまれる多くの方々やご遺族には、本当の意味での終戦はないと言われますし、あの出来事を風化させずに絶えず核兵器廃絶を唱えていくことが、後世に向けての我々の使命のひとつなのでしょう。

 当時、破竹の勢いでヨーロッパを恐怖に包んでいたナチス政権を打破するため~として当初開発された原子爆弾。 ドイツ敗戦後に皮肉にもその矛先は日本へ向けられました・・・

 ・・・戦争に勝者はいないのですし、各国のすみやかな協力のもと、徐々にでも核兵器を廃棄していってほしものです。

2. Posted by mansaku21 2006年08月08日 20:14

>ルーシー様
お返事遅れてしまってすみません。最近、何かと微妙に忙しくなってきました…。くそう。
核兵器については、日本が唯一その威力を喰らった国だということを考えると、やっぱり核兵器廃絶を唱えていくことは必要ですよね。
私は戦後の人間なので、原爆はもちろん、戦争も生で目の当たりにすることはありませんでしたが、平和記念公園の資料館を見てから、いろいろ戦争の記録などを見たりして、自分なりに戦争について考えるようにしています。戦争をせずに問題を解決できるようになっていってほしいものです。

3. Posted by 高橋 卓也 2007年08月10日 11:58

アメリカの人達は命を捨てて居るだけなのでしょうか、日本の事、恨んで居るのでしょうか、底の辺を詳しく教えて下さい

4. Posted by ぴの 2007年08月10日 16:48

>高橋様
詳しくといっても、私は専門家ではないし、感情面の話となると断定形では述べられないかと思います。

でも、戦争中に限って言えば、アメリカでは真珠湾攻撃を例に挙げて、「日本はだまし討ちをしたひどい国だ、リメンバー、パールハーバー。」といって反日感情をあおることで長期戦による厭戦感情を回避しようとしていたと言われているようです。

”義民”佐倉惣五郎刑死 承応2年(1653)

2011-06-09 16:53:17 | 仰天二ユース


歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


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2006年08月04日



”義民”佐倉惣五郎刑死 承応2年(1653)

”義民”佐倉惣五郎の話は、江戸時代に講談や歌舞伎などで広く取り上げられて、世間に広まったので、ご存知の方もいるかと思われるが、一応、あらましを紹介してみよう。

佐倉惣五郎は、本名を木内惣五郎といって、下総国印旛郡公津村の名主である。
惣五郎が33歳の時、下総国も大飢饉に見舞われたことがあった。もちろん、佐倉領も貧窮状態に陥り、そのしわ寄せは農民に回ってきた。佐倉藩の代官は、農民たちの家の財産までも搾り取るように重税を課し、さらに年貢を納められない者を怠納と称して処罰した。

この状況に、惣五郎はたまりかねて他の村の名主たちとも話し合って、代官所への怠納処分の中止を願い出たが、この訴えはむなしく取り下げられ、状況は改善しなかった。

農民たちは、飢饉の苦しみと重税に対する怒りで一斉蜂起に至ろうかというところまで追い詰められていた。しかし、一斉蜂起しても、加担者全員が死罪や永牢などの重刑に処されるばかりである。そこで、惣五郎は、御法度である将軍家への直訴を決めた。惣五郎が代表となれば、代表者への処分だけのすむであろうと考えたからである。

惣五郎は、家族に害が及ばないように、妻に離縁状を渡して江戸に出向。上野東叡山入り口の三枚橋付近で将軍家綱に直訴に及んだ。

かくして佐倉領民の願いは聞き届けられ、3年間の課税免除となったというが、ご法度を犯した以上、惣五郎の処罰は免れない。惣五郎は磔刑、妻子も死罪となった(妻子は死刑にはならなかったともいう)。領内の農民たちは、助命嘆願を行ったというが許されず、公津村の刑場で刑は執行された。

江戸時代には、他にも義民の話がいくつかある。各地の農民は飢饉のたびに飢えと重税に苦しみ、蜂起や嘆願を行ってきた。そして、そのたびに代表者が犠牲になったのである。

⇒佐倉城周辺の地図(livedoor地図情報)

※佐倉惣五郎については、過去には実在が問われたりもしたそうですが、この本の著者によって実在は証明されています。佐倉惣五郎のことをもっと知りたい人にオススメ⇒『佐倉惣五郎』。


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最後の方に書きましたが、他にもこういう話はあります。そのうちの一つがですねー、なんと『少年少女日本の歴史 立ちあがる民衆―室町時代後期』に載っています。どういう話かは読んでみてのお楽しみ。ウフフ…。でも泣く話ですよ。みんなのために犠牲になるのって実は素晴らしいことなんですねぇ。
いや、ホントこの漫画はすごい。わかりやすさ大爆発。小学生~中学生くらいのお子様がいらっしゃる方は絶対オススメ。読ませておけば、テストの点もあがりますよ!多分。

歴史かくれ話と今日は何の日

2011-06-05 10:14:15 | 仰天二ユース

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2006年07月17日




承和の変で、橘逸勢と伴健岑が捕らえられる 承和9年(842)

承和の変とは平安時代前期に発生した皇室の関わってくるクーデター未遂事件(謀反計画)である。

事件が起きたのは、54代仁明天皇の御世である。この変には、多くの皇室の人物が関わってくるので、まずは左の系図でその関係を把握していただきたい。
まず、52代嵯峨天皇は、異母兄弟の大伴親王を皇太子とし、やがて皇位を譲って、大伴親王は淳和天皇となった。嵯峨天皇は、そのまま上皇となったわけだが、政治に介入しようとするようなことはなく、むしろ自分の好きな詩文にふけって悠々自適な生活を送ったとされている。

一方、皇位についた淳和は淳和で、自分を皇位につけてもらった見返りに、嵯峨の子である正良親王を皇太子とした。淳和天皇は、自分の子である恒世親王の立太子を望んでいたと言われているが、残念ながら恒世親王は早逝してしまったため、結局、正良親王が皇太子となったのである。

やがて、淳和は正良親王に譲位し、正良が天皇となった。これが仁明天皇である。そして、仁明天皇はまた、淳和のもう一人の子・恒貞親王を皇太子としたのである。

ここまでは、嵯峨が淳和を皇太子に、淳和は嵯峨の子である仁明を皇太子に、仁明は淳和の子である恒貞を皇太子に、と円滑に周っているようにも見える。しかし、この仁明天皇の時に、重大な報告がもたらされた。それこそが承和の変につながってくるのである。

840年5月8日、淳和上皇が崩御、842年7月15日には嵯峨上皇が崩御した。そして、承和の変につながる重大な報告は、嵯峨上皇崩御のわずか二日後にもたらされた。報は、嵯峨の妃であった太皇太后・橘嘉智子に密書の形でもたらされた。密書を送ったのは、平城の子である阿保親王。密書には、次のような計画が書かれていた。

「東宮帯刀舎人伴健岑と但馬権守橘逸勢、皇太子・恒貞親王を奉じて東国で挙兵し、仁明天皇を廃そうとする計画あり」

太皇太后は、ただちに中納言藤原良房にこれを伝え、良房は仁明天皇に報告した。報告を受けた天皇は怒って、計画に名を連ねていた伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)を捕らえるよう命じた。2人はすぐに捕らえられ、拷問にかけられたが、何も語らずひたすらに無罪を主張し続けた。しかし、結局2人は流罪となってしまう。

続いて、祭り上げられた皇太子・恒貞親王も23日に廃位となった。代わりに皇太子となったのは、仁明の長子・道康親王だったが、この道康親王を産んだのは、良房の妹・順子であるので、道康親王は、良房の甥ということにもなるのである。

この事件は、計画の首謀者とされた2人にはあまりうまみがなく、むしろ藤原良房にうまみがあることから、良房の陰謀とみる説が有力とされている。事実、良房はこの後すぐに大納言に昇進。この後も藤原一族の栄耀栄華は続いていくのである。

※画像は、承和の変関係の皇室系図(見にくい場合は、画像をクリックすると原寸大表示になります)。

※承和の変についての詳解本はいい本がないので、平安時代の面白そうな本をご紹介。『平安京の仰天逸話』です。平安時代の人物や同時代の説話集などから、好色医者・間男・美女怪盗・怪力女・鬼女などの面白い話をセレクトし、さらに平易な文に書き直したものだそうです。実に興味深い。本屋で見かけたらぜひ一度読んでみたいですね~。


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(キーワード)

●藤原良房(ふじわらのよしふさ)

平安時代前期の公卿。藤原北家5代目。冬嗣の次男。
嵯峨天皇に気に入られて、天皇の娘である源潔姫と結婚した。

その後も順調に出世を重ね、835年に従三位権中納言となる。承和9年(842)の承和の変の際には、仁明天皇に、皇太子・恒貞親王の廃位と、仁明天皇の長子で、良房にとっては甥にあたる(良房の妹・順子は仁明天皇の妃)道康親王の立太子を進言して、これを実現させた。続いて848年には右大臣。その後、即位した文徳天皇の皇太子には、娘である明子の産んだ惟仁親王を立てるなど、天皇家の即位問題に介入していく。

そして、ついに857年、人臣としてはじめて太政大臣の位につく。
やがて惟仁親王の即位(即位して清和天皇)に伴い、摂政に任じられたとされるが、実際に職務として正式に摂政に任じられたかははっきりしないらしい。

冬嗣に続き、藤原家興隆の礎を築いたといえる重要な人物。


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嵯峨天皇といえば、博学で知られる小野篁に、「『子子子子子子子子子子子子』はなんて読むか?」…なーんていうクイズを出したとかいう話があります。「おまえ、なんでも読めるんなら、これはどうだ」という感じで出したそうですが、篁さん、何のことはなく読んじゃったそうです。まさに天才。

どうでしょう?読めますか?もし初見なのに読めたならあなたはもしかしたら天才かもしれませんので、すぐに関係各所に連絡したほうがいいですよ(笑)。

答えは

「猫の子の子猫獅子の子の子獅子」です。

…え…?わからないって?
いや、ほら「子」は「ね」とも読むんですよ。十二支の「ねずみ」は「子」という字を当てるでしょ。だから、「子子の子の子子子(猫の子の子猫)子子の子の子子子(獅子の子の子獅子)」。はい、ばっちり「子」の字を12回使ってます。オーケー。文章的には意味わかんねぇけどな。

…。

…承和の変についてのコメントじゃなくなっちゃった…。

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