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8月18日の政変 文久3年(1863)

2011-06-11 16:16:19 | 仰天二ユース

歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


2006年08月18日


8月18日の政変は、尊王攘夷論をもって宮中で発言力を高めていた公卿と、それを支持する長州藩を京都から追い出した事件である。

この政変の背景は少しややこしいので、一つずつ重要事項を整理してみた。
まず、当時の状勢であるが、当時は、孝明天皇が熱烈な攘夷論者であることもあって、尊皇攘夷論者が勢力を強めていた。対するは公武合体派で、これは簡単に言えば、幕府と朝廷が手を結ぶというもので、要するに尊王・佐幕の両方どりの、どちらかといえば穏健的な思想である。

当時、この公武合体派が、尊皇攘夷論者によって「天誅」と称して斬殺される事件が相次いでいた。このため、朝議も尊攘論に傾かざるをえない。誰も「天誅」を加えられたくはないので、自然と公武合体派は小さくなってしまうのである。

そこで、文久3年(1863)8月13日、尊攘派公卿がその発言力を背景に強行に決定したのが、孝明天皇の大和行幸である。これは、「橿原にある神武天皇陵に尊王攘夷断行を祈願するため」として決定されたもので、尊攘派は、この機に一気に倒幕の挙兵をも実現させようという過激な考えを持っていたという。

その過激な考えのさきがけとして8月17日、「天誅組」が一斉蜂起した。天誅組の指導者は、このとき弱冠19歳の公卿・中山忠光で、組の中心は土佐勤皇党の吉村寅太郎、備中の藤本鉄石などで、総勢39名の尊皇攘夷の浪士たちが集まったという。

彼らが目指したのが、幕府の直轄地(天領)で、当時は鈴木源内という代官がいた大和(奈良県)の五條であった。天誅組は源内をさっそく血祭りにあげ、村役人らに「源内は悪政の甚だしいゆえに天誅を加えた。今後は五條は朝廷支配地となる」などと話したという。これはまさしく、「倒幕挙兵の先駆け」であったと言えるであろう。

ところが、事態は一変した。結論から言うと、天誅組挙兵の翌日、8月18日の政変が発生するのだ。8月18日の政変は、公武合体派の中川宮を中心に実行された。中川宮は、公武合体派の諸藩に呼びかけクーデターを起こす。親藩の会津藩、この時点では公武合体派だった薩摩藩もこれに加わった。

8月18日未明、深夜1時である。中川宮、近衛忠熙父子などの公卿、京都守護職で会津藩主の松平容保、所司代稲葉正邦らが続いて参内した。すると、御所の九門を会津、薩摩、淀などの諸藩の兵士が取り巻き、厳重に閉鎖された。

つまり、尊攘派の入る隙を与えずに朝議で重要事項を決定してしまったのである。重要事項とは、孝明天皇の大和行幸の延期、尊攘派公卿の参内禁止と謹慎、長州藩の堺町門警護解任など。これにより、形勢は逆転した。

尊攘派の三条実美らも異変に気づいて御所に駆けつけたが、参内は認められず、長州藩兵も勅使の命令で御所を引き払った。京都東山の大仏妙法院協議した尊攘派公卿7名と尊攘派諸藩志士らは、いったん長州に落ち延びることを決定し、翌19日朝、大雨のなか京都を去った。

クーデターは成功である。これにより、政局は公武合体派が主導権を握ることになったのである。

⇒政変の発生元・京都御所周辺の地図(livedoor地図情報)
⇒天誅組義士の墓周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は幕末京都の詳細な位置関係がわかる『京都時代MAP 幕末・維新編』。幕末の地図の上から現代の地図を書いたトレーシングペーパーを重ねてみることで、現在のどのあたりに幕末にはどんなものがあったのかがわかるという仕組み。面白いですね。これは幕末ファンにはたまらない逸品ですよ。


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実にわかりやすい名前なんですが、なんともすっきり説明できないクーデターです…。
孝明天皇は、過剰なまでの攘夷派だったそうですが、皇女和宮を14代将軍家茂に嫁がせるなど、公武合体にはおおむね賛成で、尊皇攘夷論者が熱望する倒幕の心はなかったとか。
天皇を担ぎ出せば名目が得られるのかもしれませんが、担がれる方も大変ですな…。

なお、このとき、7人の公卿が長州に落ちていったので、このことを七卿落ちと言ってます。これまた呼び方は単純明快だ…。


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zuihitu at 15:32│トラックバック(0)│「今日は何の日?」幕末
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コメント一覧


1. Posted by 出来屋 2006年08月19日 10:31



2. Posted by 35式 2006年08月19日 11:18

ネットもTVもない時代だけに全体の状況掌握がさぞかし大変だったろうと思います。
どうやって整理していたんでしょうね~。

3. Posted by ぴの 2006年08月20日 04:50

>出来屋様
リンク貼っていただきありがとうございます!
最近更新滞りまくりですが、またお時間ある時にでも覗いてください!

4. Posted by ぴの 2006年08月20日 04:53

>35式様
もうほんと現代では考えられないですよね。最近はケータイがない時代ってどうしていたんだろうとかしみじみ思いますからね~。私だってつい7年ほど前にはケータイ持ってなかったんですが…。

そう考えると、逆にあの時代にこれがあったら…と妄想してしまいます。
確かに情報の伝達とかどの程度の早さでやっていたんでしょうね。調べてみようかな…。


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