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小山評定は、この年9月の関ヶ原の合戦に関わってくると言っていい、重大な評定であった。

2011-06-07 17:11:52 | 歴史隠れ話



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2006年07月24日


小山評定 慶長5年(1600)

小山評定は、この年9月の関ヶ原の合戦に関わってくると言っていい、重大な評定であった。

徳川家康は、慶長3年(1598)の豊臣秀吉の死後、着々と豊臣家から天下を掠め取る準備を進めていた。その動きは、あからさまな時もあり、石田三成他、この家康の動きに大きな危機感を持つものも少なくなかった。

とはいえ、家康は豊臣政権下でも随一の実力者で、しかも筆頭家老である。反家康派としてもうかつには動けない。一方の家康も、そういう反家康派を牽制しながら動くため、一気に動くことができないでいた。

そして、ついに慶長5年(1600)に入って、家康は会津の上杉景勝に謀反の疑いをかけて征伐することを宣言した。一般的には、家康本人がわざと中央から遠く離れた会津の地に出陣することで、反家康派の中央での挙兵を狙ったものとされる。これにより挙兵した敵を討つという大義名分が得られるからである。

そして、案の定そうなった。家康が、下野国(栃木県)小山に着陣すると急報が入る。「石田三成、大谷吉継らが上方(大坂)にて挙兵。」家康は、この急報を諸将に伝えるため軍議を開いた。その軍議というのが、後世「小山評定」と呼ばれる軍議なのである。

家康は、軍議の席で、並み居る諸将に三成挙兵の事実を伝えたうえで、こう付け加えた。
「妻子を大坂に人質にとられているものもいるであろう。ご心中お察しする。もし思うところあらば、早々にここの陣を引き払い、大坂に戻っても構わぬ。そのことについて、この家康がなんら恨みに思うことはない。我が領内においては、道中の心配も必要ない。大坂に戻らんと思う方は遠慮なくお申し出なされ。」

一言で言えば、「理由はともかく、三成たちに味方したいと思う者は引き止めないよ。」ということである。諸将たちは少しの間沈黙した。悩んでいるのである。
家康の言うように、妻子のこともあるが、情勢的にどちらに味方するのが得策なのかを測りかねていたものであろう。誰もが言葉を発さなくなっていた。

そんななか、福島正則が口を開いた。
「わしは、内府どの(家康の官職名)にお味方致す!」
福島正則は、「豊臣秀吉子飼いの武将」と言われるほどの男で、豊臣家への忠誠は絶対の男であったが、石田三成とはいろいろ確執があり、三成が大嫌いであった。正則は、三成の挙兵を三成自身の天下への野心によるものと捉えて、家康に味方することを宣言したのである。

そして、この福島正則の発言を受けて、堰を切ったように諸将たちも家康に味方することを表明しだした。山内一豊などは、家康に味方することを表明しただけでなく、
「それがしの城は、東海道上の掛川城ですから、進軍の際には我が城を存分にお使いください。」
とまで言った。これまた、この後に他の東海道上に城を持つ武将たちも「わしも」「それがしも」と続いた。

こうして、参陣していたほとんどの武将が家康に味方することを表明(ただ一人、田丸直昌という武将だけは、この時家康に味方せず、軍を離れた)。家康は、諸将に礼を述べると、ただちに今後の指示を出した。小山の陣には息子の結城秀康、徳川秀忠ほか数部隊を残し、残りの部隊にはただちに西上するよう命じたのである。

そして、この約2ヶ月後、徳川家康の東軍と石田三成の西軍は関ヶ原の地で激突することになるのである。

※写真は『大いなる謎 関ヶ原合戦 家康暗殺計画から小早川裏切りの真相まで』。関ヶ原合戦の謎に深く迫る本です。関ヶ原の合戦の概要みたいなことは書いていないので、予備知識のある人向きですが、内容はかなり細かくてナイスです。小山評定についても、詳しく書いてありますヨ。


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(キーワード)

●福島正則(ふくしままさのり)

戦国時代の武将。幼名市松。左衛門大夫。のち広島城主。尾張(愛知県)海東郡の出身。母親は、秀吉の母・大政所の妹という説があるが、定かではない。

幼少期より秀吉に仕えて、主に武勇を発揮して活躍する。1583年の賤ヶ岳の合戦では、のちに「賤ヶ岳の七本槍」とまで称されるほどの勇猛果敢な働きを見せ、しかも、その七本槍のなかでも秀吉に特に激賞されて、他の者より2千石多い5千石を賜った。

これに続けて、翌年の小牧・長久手の戦い、紀州の雑賀衆討伐でも功を挙げ、伊予(愛媛県)今治に11万石余を賜る。さらに、1590年の小田原征伐にも参戦している他、朝鮮出兵でも半島に渡海して活躍。これらの功により、1595年には尾張清洲に24万石を賜った。

慶長4年(1599)、慕っていた大納言前田利家の死後、久しく対立していた石田三成を同僚6名と共に襲撃。この時は家康の仲介があって、事なきを得たが、三成との対立はその後も続いた。

慶長5年(1600)、家康の会津征伐軍に従軍。小山評定では真っ先に家康に味方することを宣言し、諸将の決断に影響を与えたとされている。小山評定後、家康の命を受けて、ただちに西進を開始。先鋒部隊として、西軍の拠点を次々に攻略した。そして、関ヶ原の戦い当日も、先陣を任されて参戦。関ヶ原の中央に布陣し、2倍以上の兵力を誇る西軍・宇喜多秀家の軍と戦闘を繰り広げた。

戦後、安芸広島49万8千石に加増されたが、もともと豊臣系の大名であるため、家康からは警戒され、慶長20年(1615)の大坂の陣の時には江戸城留守居役とされた。

元和5年(1619)6月、広島城を無断改築したとみなされて改易となったが、すぐに信濃(長野県)川中島に4万5千石を与えられ、家名の存続も許された。
寛永元年(1624)7月13日没。享年64歳。

※正則については、7月13日の記事「福島正則没」もあります。よかったら参考にしてください。


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小山評定は、家康があらかじめ仕組んでいたという話もあります。先に自分に味方することを表明していた黒田長政に命じて、事前に福島正則を説得させて、評定の席で「家康どのに味方する」と切り出してもらおうと仕組んでいたというわけです。

しかし、そうだとしてもやはりうまくいったのにはいくらか運はあると思います。いかに正則の発言まではうまく言っても、そこから先は諸将次第ですからねぇ。

まあ…「おれ、あんたには味方できない」って言ったのが一人だけでホントは安心してたんじゃないんですか?家康さんよお!


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