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平家一門都落ち 寿永2年(1183)

2011-06-07 17:25:05 | 歴史隠れ話

歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


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2006年07月25日


平家一門都落ち 寿永2年(1183)

栄華を誇った平家一門が木曾義仲によって京都を追われたのが、寿永2年のこの日であった。平家は再起をはかるべく、西国に落ちていったが、源氏の勢いはやむことなく、この2年後に源義経によって、周防国(山口県)の壇ノ浦で滅亡するのである。

平家都落ちについては、この2年前に死亡した平家隆盛の立役者・平清盛が死ぬ前からすでに前兆が見られていた。「平家にあらずんば人にあらず」とまで驕り昂ぶる平家を憎む者は多く、各地で反平家の挙兵が相次いでいたのである。そして、その中には以仁王の令旨を受けた源氏も含まれていた。

その源氏の中で、いち早く頭角を現したのが、木曾義仲である。義仲は、越中(富山県)の国境にある倶利伽羅峠で、追討軍の平惟盛を破ってから俄然勢いづき、じわじわと京都に迫っていた。

そして、寿永2年(1183)の7月23日になって、いよいよ事態は緊張し始めた。義仲の軍勢は、丹波路や大和方面、比叡山などをおさえ、都を囲むようにして迫っていたのである。平家は、平知盛、重衡ら3千騎を勢田方面、平忠度が1千騎を率いて淀方面へ出陣したが、もはや焼け石に水であった。

清盛の死後、平家の棟梁を継いでいた宗盛は、義仲の動きの報せにすっかり戦意を喪失してしまい、あっさりと京都を捨てると言い出した。平家一門の中には反対する者もいたが、ここにきて、またしても平家にとって予想外のことが起こる。24日になってから、平家が担ぎあげていた後白河法皇が、数人の共を連れただけで鞍馬方面へ逐電してしまったのである。

この影響もあって、ついに平家一門は、京都を捨てて西国へ落ちていくことになった。平家がいなくなったため、義仲はゆうゆうと入京。最初は喜ばれたが、義仲の軍勢もしょせんは田舎から出てきたあらくれ集団に過ぎず、京都の民衆に散々乱暴を働いたらりしたので、評判は悪かったという。


※写真は初心者にもオススメ…というか初心者にオススメの古典「平家物語」本『ビギナーズ・クラシックス 平家物語』。「ビギナーズ」ですから、内容もわかりやすくなっています。原文の読み下しもついてますが、訳文が先に載っているので、訳文とコラムだけ読んでも充分平家物語の世界を味わうことができます。「平家物語」に興味を持ったら、まずは読んでみるのもいいと思います。


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平家は「かむろ」というおかっぱ頭に赤い服を着た少年スパイを町に放って、平家の悪口を言う者を処罰したそうですね。そこまでするなら、悪口聞いて我がフリ直せよ…と思いますが…(笑)。まあ、そんなだから結局没落しちゃうんでしょうかねぇ。

義仲も相当評判は悪かったようです。兵士たちはやりたい放題。義仲は義仲で、ろくに作法を知らないで公卿に会うもんだから、「ド田舎の無礼者」扱いだったようですね。いやー、まともなヤツいないですなあ…。(←当時の京都人の心の叫び)


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zuihitu at 03:33│トラックバック(0)│「今日は何の日?」平安時代
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コメント一覧


1. Posted by 35式 2006年07月27日 22:53

平家の栄華も案外短い運命でしたね。
武家なのに貴族化したのが原因なのかなと思います。
その点、頼朝は都から離れた鎌倉に本拠を構えて武家政権であることを明確にアピールしたのはエライと思います。
もっともそんな彼の血筋はすぐに絶えちゃうわけですが・・・。
難しいものです。

2. Posted by ぴの 2006年07月28日 20:19

>35式様
源平の時代は、やっぱり初の武家政権ということで、舵取りが難しかったんですかねぇ。部下が力を持ちすぎているのも考え物だし…。でも、こういう先人たちの経験が、後世になって一つずつ活かされていくんですね。
「はじめての」がつく功績を残した人はやっぱりすごいですよね。


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