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幼名助作。東市正。豊臣家の家臣。父・直政は浅井長政に仕えていた。

2011-06-06 18:50:43 | 歴史隠れ話

歴史かくれ話と今日は何の日

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2006年07月21日




方広寺鐘銘事件 慶長19年(1614)

方広寺鐘銘事件とは、豊臣家が滅亡した大坂の陣のきっかけとなった事件である。

関ヶ原の合戦のあと、天下は徳川家康のものとなり、家康は江戸に幕府を開いた。しかし、依然として大坂には豊臣家が存在するのであり、家康としてはこれの存在がどうにも目障りなものであった。

しかし、戦争をしかけて潰すにしても、大義名分というものが必要である。大義名分のないまま戦をしかけても、当然世論はついてこない。そこで、なんとか大義名分が欲しいと考えていた家康が利用したのが、この方広寺の鐘銘の件だったのである。

方広寺にはかつて豊臣秀吉が着工した大仏殿があった。しかし、大仏は1596年の畿内大地震で大破してしまったため、秀吉死後にその子の秀頼が再建した。そして、この再建した大仏の開眼供養開催の許可をもらおうとして秀頼が家康に使者を送ったことから、事件は始まったのである。

家康のいる駿府への使者となったのは豊臣政権でも古株の片桐且元という男であった。

家康は最初に且元がやってきた5月3日、この開眼供養開催の申し出を快諾。ところが、7月18日に今度は「日取りを8月3日としたい」という使者が来た時は、異見を述べた。家康の異見とは、すなわち、「開眼供養は3日でいいが、大仏殿の供養は8月18日にすべきである」というものである。理由は「8月18日は亡き太閤秀吉の忌日で、17回忌であるため」。要は開眼供養と大仏殿供養は別の日に行うようにせよとのことであった。

しかし、豊臣側としても秀吉の忌日には別の行事を執り行うので、大仏殿と大仏開眼供養は同日に行いたいと再度且元に使者を出した。且元が駿府で家康にそれを申し出たのが7月23日である。だが、実はこのとき、すでに家康はこの開眼供養の執行に不快感を示していた。21日の時点で、「方広寺の鐘銘に関東不吉の銘文あり」という報告を受けていたからである。

これにより、家康は「供養は延期しろ」と命じる。しかし、大坂方にとっては何が不都合なのかわからないし、何より今になって延期しろと言われても困る。そこで、再度且元を弁明の使者として駿府に送った。だが、家康は今度は且元に会おうとすらしなかった。家康はこのときは、ひそかに問題の鐘銘はどの部分なのかを京都五山の僧侶たちに調査させていたのである。(しかし、これは、よりこの鐘銘事件を正当化しようとしたものだという。)

そして、判明したその問題の銘文というのが、「国家安康」と「君臣豊楽」の2文であった。家康は、「国家安康」は「安」の字で「家康」の文字を引き裂いて呪うもの、「君臣豊楽」は「豊臣を君として楽しむ」と読め、豊臣家の反映を願うものであるとしたのである。

このほか棟札や鐘銘の序文など、いくつかの無理やりな感すらある指摘をした。そして、許しを願う大坂方の使者に「秀頼の大坂城退去」「秀頼の江戸参勤」「淀殿の江戸移住」などを条件として和睦の提案をしたが、大坂方としても、無理やりな言いがかりをつけられた挙句、こんな無茶な条件は受け入れられない。

断固拒否する大坂方に対し、家康は「ならば仕方ない。大坂攻めを実行に移す」と、諸大名に出陣を命じほくそ笑むのであった。
結果、事態は大坂冬の陣に発展したのである。

※写真は問題となった鐘銘の刻まれた鐘のある方広寺の鐘楼。
⇒方広寺周辺の地図(livedoor地図情報)

※おなじみ歴史群像シリーズ『真田幸村と大坂の陣―家康を震撼させた猛将の戦い』は、関ヶ原から大坂の陣までの流れがドキュメントで掲載された良書。入門編としても最適です。もちろん鐘銘事件も載っています。
私は読んだ事ないですが、『真説大坂の陣』は内容解説に「誰にでもわかりやすく」と書いてあるので、わかりやすいんだと思います(笑)。


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(キーワード)

●方広寺(ほうこうじ)

京都の東山区にある天台宗の寺。天正十四年に豊臣秀吉が建立。現在は、豊国神社の隣に位置し、京都国立博物館のすぐ近くにある。

建立当時、奈良の東大寺と同じように大仏が安置されていたが、厄災で失われる。その後も何度か再建がなされたが、災難が多かったかわいそうな寺。梵鐘の銘文に徳川家康がケチをつけて、大坂の陣が勃発するに至ったことが有名。


●片桐且元(かたぎりかつもと)

幼名助作。東市正。豊臣家の家臣。父・直政は浅井長政に仕えていた。

秀吉に仕え、1583年の賤ヶ岳の戦いで活躍。「賤ヶ岳七本槍」の一人として名を挙げる。その後も九州征伐、小田原の陣に従軍し、朝鮮出兵でも渡海して戦っている。さらに検地奉行なども歴任したが、やり方が地味だったのか、この頃は1万石しか知行していない。とはいえ、信頼は厚かったとみえ、秀吉の死の直前に、秀頼付きの後見役に任命され、以後、秀頼の側近く仕えるようになった。

関ヶ原の戦いの後は、徳川家康からも信頼を受け、茨木城主になったり、加増を受けたりした。また、家康の信頼をえているところから、秀頼の名代として、大坂側と家康との橋渡し役として、何度も使者の任にあたっている。

慶長19年(1614)の方広寺鐘銘事件の際にも、たびたび使者の任にあたったが、家康から無理難題を突きつけられる。このため、今回は家康の信頼を得ていたことが仇となり、秀頼や淀殿から疑われ、大坂城から退去するハメになってしまった。

大坂夏の陣後に、畿内に飛び地で4万石の加増を受けたが、まもなく京都で没した。享年60歳。

豊臣家臣でありながら、家康からも知行を受けていた不届き者とみる研究もあるが、秀吉や家康の支配機構から考えれば、且元は大名であり、江戸幕府が開かれた以上は家康から知行を受けるのは当然であるとみる研究も少なくない。豊臣家の滅亡を視野に入れて動いていたのではなく、むしろ豊臣家の存続のために動いていたと思える。
まあ…その…。…無茶はしない性格だったんじゃないかな…。


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出ましたよ。家康公必殺のフェイバリット。その名も「こじつけ殺法」。
家康公ときたら、関ヶ原の合戦を起こすまでも、やれ前田だ上杉だと次から次へと謀反の疑いをかけていたんですが…今度は豊臣家に炸裂です。

もうなんつーかすごいね。ここまで強引なことやれるんだから。「終わりよければすべてよし」ってヤツですか。こんなことやってると狸と呼ばれるんだろうな…。


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