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壬申の乱は、天智天皇の弟・大海人皇子と、天智天皇の子・大友皇子が、皇位を巡って争った戦いである。

2011-06-06 18:54:01 | 歴史隠れ話


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2006年07月22日




壬申の乱最後の決戦 天武天皇元年(672)

壬申の乱は、天智天皇の弟・大海人皇子と、天智天皇の子・大友皇子が、皇位を巡って争った戦いである。

この乱は、皇位争いだけに先代・天智天皇の存命中に端を発していたといえる。
もともと天智天皇は、大海人皇子に皇位を譲る気で居たというが、長ずるにつれて頼もしく見えてくる自分の子の大友皇子に皇位を譲ることを考え始めた。

そこで、大海人皇子に皇位に対する野心があれば、これを殺害してしまおうと考えたのである。天智天皇は、晩年の病床に大海人皇子を呼び、「朕の亡き後は、おまえが即位してくれ」と言った。しかし、実はこれが天智天皇の策で、もし大海人皇子が「わかりました」といえば、大海人皇子には、皇位に対する執着心があると見て、その場で殺害するというわけである。

しかし、そんな兄の心を大海人皇子は、見抜いていた。そこで、大海人皇子は病気を理由にこれを辞退し、「いったん、皇后様(天智天皇の妃・倭姫王)に即位していただき、大友皇子は皇太子としてはいかがでしょう」と進言し、さっさと大津宮(当時の都)を離れ、大和(奈良県)の吉野に、出家して妻子と共に引きこもっってしまった。

しかし、大友皇子やその側近たちは、この大海人の吉野行きを「虎に翼をつけて放つようなもの」として危惧した。そして、671年12月、天智天皇が崩御すると、その危惧を解消しようと、ただちに徴兵を実施し、大海人皇子の牽制を始めるのである。

これに対し、大海人皇子もすぐ準備を進めて、吉野を出発。途中、まだ近江(滋賀県・大津宮の所在地)にいた子の高市皇子(たけちのみこ)と大津皇子(おおつのみこ)を呼びにやらせ、数人を自身の領地があった美濃(岐阜県)に送り、挙兵の準備を整える。さらに飛鳥でも兵を募り、大伴馬来田(おおとものまぐた)やその弟・吹負(ふけい)を味方につけた。

そして、吉野を出てから伊賀の積殖山口で、高市皇子と合流。さらに伊勢、美濃と進軍し、大津皇子とも合流して、美濃の不破関に本陣を置いた。なお、この後、さらに尾張(愛知県)などから軍勢が合流している。

このとき、大友皇子は、まだ戦の準備に手間取っていた。この様子を尻目に、大海人軍は、軍を二手にわけ、一隊を琵琶湖畔を北から周り込んで大津宮に至るルートを進ませ、もう一隊は琵琶湖の南側を進み、大津宮を目指した。

ところ変わって、飛鳥では、大海人方の大伴吹負が大友皇子の軍と戦い敗走したが、まもなく置始莵(おきそめのうさぎ)と合流し、大和(奈良県)の箸墓で、大友皇子の軍と再戦。今度は勝利をおさめる。

近江で二隊に分かれた大海人軍は、琵琶湖の南側を進む軍勢が、鳥籠山、安河、栗太などで大友軍と戦い、勝利を重ね、ついに瀬田川を挟んだ7月22日の最終決戦でも勝利をおさめる。大友皇子は宮を脱出したが、翌日、山崎で自害した。

約1ヶ月に渡る後継者争いであった。壬申の乱と呼ぶ理由は、この年の干支が壬申だったからである。

⇒大海人皇子の本陣があったとされる不破関跡周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は壬申の乱の詳細ドキュメントも載っている『飛鳥王朝史―聖徳太子と天智・天武の偉業』。タイトルどおり、飛鳥時代の総括になっているので、壬申の乱とその背景もよくわかります。飛鳥の遺跡俯瞰マップ付!
※ある程度予備知識がある人には『壬申の乱の謎―古代史最大の争乱の真相』。それほどカタイ内容ではないですが、少し知っていた方がより面白いと思います。飛鳥時代をひっくるめた壬申の乱の謎解き。著者の独特な見解が読めるので面白いですよ。ただしすでに詳しい人にはオススメしません(笑)理由はアマゾンのレビューを見てネ。


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(キーワード)

●大海人皇子(おおあまのみこ)

のちの天武天皇。舒明天皇の二男で、天智天皇の弟。

天智天皇の後継者と目されていたが、大友皇子に皇位を継がせたかった天智天皇が、自分を排除しようとしているのを感じて、いったん吉野に引退したとされる(異説あり⇒もともと大友の後見役とされていたが、皇位を狙ったという説)。

しかし、天智天皇が崩御すると、兵を集めて吉野を脱出。美濃や尾張など自分の拠点のある方面に兵を送り、やがて近江に進攻。大友皇子を破って自害せしめた(壬申の乱)。実は大友も大海人の吉野引退について危機感を募らせており、大海人の挙兵は大友皇子が大海人を暗殺しようとしたからだともいう。

乱後、飛鳥浄御原宮で即位。中央集権国家の体制確立を目指して、八色の姓や新冠位体制の整備などに努めた。681年には律令の編纂を命じたが、これは存命中には完成せず、死後に飛鳥浄御原令として出されることになる。
686年9月9日崩御。


●大友皇子(おおとものみこ)

天智天皇の第一皇子。史上初の太政大臣んび任ぜられている。母は伊賀采女宅子といって、豪族の娘である。(だいぶ)のち弘文天皇。

『懐風藻』という古代の漢詩集には、大友皇子について「この皇子、風骨世間の人に似ず、実にこの国の分にあらず」とあり、ほかにも、「博学多通」、「文武の材幹あり」とか絶賛されている。

天智天皇に後継者として扱われ、天智天皇の弟・大海人皇子を後見役としたが、実は大海人は皇位を望んでいたといい、そういう背景があったから大海人が吉野に引退する際、側近5人と「虎に翼を与えて放つようなもの」として危惧していた。

天智天皇が崩御したのち、側近5人と共に、天智天皇の詔に背かないことを誓った。そして、庚午年籍にもとづいて民衆から徴兵を開始。不安要素の大海人皇子を除こうとした。

これに対し、大海人皇子も兵を集めて、吉野を離れたため、近江で両軍大激突となった(壬申の乱)。大友皇子は結局敗れて、672年7月23日、山前(どこを指すのかはっきりしない)に逃れてそこで自害。最期を看取ったのは物部麻呂と少数の従者のみという寂しい最期であった。

『日本書紀』では即位を認められていないが、これは『日本書紀』の編纂者の一人である舎人親王が天武天皇の子であったからだと考えられ、なかには、大友皇子の即位のことが書かれている史料もある。

しかし、正式に大友皇子の即位が認められるのはなんと明治時代になってからで、明治3年(1871)に、ようやく明治政府から弘文天皇と追諡された。


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壬申の乱はなかなか興味深い乱なんですが、いまひとつわかりにくいんですよね…。乱自体の背景と経緯は大体わかるんですが…、こう皇族がたくさん出てくるので、誰がどの人とどういう関係なのかというのが…。
大海人が皇太子だったのかどうかも本によって記述が異なるし…。

それにしても「大海人」って当然「おおあま」では変換されないので、わけて入力したんですが、「おおかいじん」って…。なんかすごいな…。恐れ多い。


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