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◆辞世の句 その6
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寺山修二
『死ぬならば 真夏の波止場あおむけに
わが血 怒涛となりゆく空に』
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【自由訳】
死ぬときは、空を見上げて死にたい。
そして、自分の生きた証を空に捧げたい。
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【寺山修二】
→劇作家、詩人、歌人・・と多彩な顔を持つ。
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◆辞世の句 その6
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寺山修二
『死ぬならば 真夏の波止場あおむけに
わが血 怒涛となりゆく空に』
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【自由訳】
死ぬときは、空を見上げて死にたい。
そして、自分の生きた証を空に捧げたい。
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【寺山修二】
→劇作家、詩人、歌人・・と多彩な顔を持つ。
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フロックコートの襟をたてたご仁のポートレートへ連なる
自殺でなかったことが、今でも不自然だと感じているよ
夏と風と波に射ぬかれて
海にひろがる我が血潮は
もうひとつの太陽になる
11日に、いなばさんが寺山修司の句をブログに載せていたのでチョットおどろき。
カッと照りつける真夏の太陽、穏やかな海、宇宙のはてまで続く青い空、かもめは飛んでいたのでしょうか…
いなばさんもブログに書かれていた「自己と他者」
寺山修司は「私と他者について」こんな言葉を残しています。
『「私」を「他者」と対比して論じることは、どうしても無理がつきまとうように思われる。「私」は、じつは「他者」であり、「他者」は、じつは「私」であるというのが、この世のからくりの根本にひそむダイナミズムの実相であるような気がしてならない。』(寺山修司)
>>>>>>>>H.P.様
映画「田園に死す」、見たことないんですが、Amazonの感想とか読むと、相当興味深いです。
でも、なかなかその辺のビデオ屋にはなさそう。いつか、なんとか見てみたい。
寺山さんは、田口ランディも敬愛しているし、昔から非常に興味を持っているんですよね。
実際の演劇を見れなかったのは残念。
演劇は、ダンスと同じで一期一会ですし、同時代にいた人たちだけが体験できた世界なのかもしれない。
本としては、「書を捨てよ町へ出よう」は、高校の頃読んで、影響受けた気がします。
本当に異能の人ですよね。類似の人は、今出てきてませんし。
NHKの「あの人に会いたい」のInterviewが、Youtubeで見れるの知ってますか?
かなりカッコいいんで、お薦めですよ。(亡くなる一か月前に、押井守似の人と対談してます)
ただ、母親より先に死んでいるんで、母親のインタビューは見ていて辛い。
>>>>>>>>雨音様
そのYoutubeで見れる「あの人に会いたい」も、天井桟敷が出てきました。
雨音さんが、偶然に見に行ってたとは驚きです。共時性?
共時性と言えば、今外はものすごい雨が降っていて、そんな雨音を聞きながら、雨音さんに返事を書いています。
(ちなみに、この前行った湯布院にも、天井桟敷っていうすごくかっこいい喫茶店ありました。)
寺山修司の「私と他者」論、すごく面白いですね。
自己と他者を分ける二元論っていうのは、僕は単に方便なんだと思うようになってきました。
とりあえず理解しやすいように、とりあえず言葉で分離させただけであって、
そこに引き連られてはいけない。
そんな風に言語的に自己と他者を分離することで、現実世界でも自己と他者の関係性を分離すると、
そこから断絶が生まれる。
そして、自意識過剰に世界を見るようになってしまう。
自意識過剰に他者を見ると、他者を支配したり、自分の都合よく他者をとらえたり・・・
どんどんいびつな関係性になってしまうものです。
そこには他者への敬意もないし、愛もないし、単なる自意識過剰と言ったとこです。
それは、近代的自我が至った袋小路なんだと思いますねー。
Youtubeでの「あの人に会いたい」でも、
寺山修二が<物語は自分が半分作って、半分観客が作る>って言っていて、
彼が演劇を自意識過剰なものとして作っていたわけではなく、
他者と自己との相互作用や渾然一体なものとして作っていたところが垣間見える気がします。
寺山修二のように、演劇や詩や色んな視点から徹底的に自己や他者をみつめた人だからこそ、
すごく重みがある言葉ですよね。
ほんとに心に染み入ります。