個人的な善悪の問題は、その人の視点の長さの問題であり、過去や未来としっかりつながっているか、という問題でもある。
悪いことをすると、いづれ別の形に変換されて自分に返ってくる。
後で思い返して過去の行為を後悔する、ということは、未来の自分が今の自分をどう見るかという長期的なVisionに欠けていたということだ。
自分という存在は時間存在の中で幅を持って存在している。自分という存在は、今だけではなく、過去にも未来にも続いており、その連続性の中で自分は形成される。
そのことを思い出せば、必然的に悪いことはしなくなるし、自分自身に対してより素直になる。
死んだ後に素直になるか、死ぬ直前に素直になるのか、それよりもっと早く素直になるのか、そういう自分の人生の長期的なVisionの問題だ。
●
度を越した自然破壊や文化の破壊も同じ事だ。
自分という存在は、悠久のいのちのつながりの共同プロジェクトに名を刻印している。
そのプロジェクトの構成員である、という自覚があれば、少なくとも3‐4世代先(100‐200年後)くらいの視点で物事を考えるはずだ。
自分だけの数十年の人生でいのちのつながりを考えるから、短期的なVisionに基づいた計画になる。
いのちは過去へも未来へもつながっていて、個という存在は、いのちという大きなからだの一つの細胞を構成しているのだから。
●
悪い行為を働く人は、長期的な自分という人生のVisionと、長期的ないのちというVisionとが欠けていると言わざるを得ない。
それは残念なことだが、現代の時代そのものが、歴史性と切れかかっている時代になっていると認識すればいい。悲観的になる必要はない。
気づいた人が始めればいいから、人を責める必要もない。
それは気づいた順番に過ぎないし、行動する順番の問題に過ぎないからだ。
自分という存在は、人生の中で長期的に連続しており、
人間は過去すべての人々の願いや祈りの全体性の象徴として結晶化している、ということに気付いていないだけだから。
●
全体性を見る(コンステレーションを見る)ということは、
空間的な地理的な広がり(地域→日本→地球→宇宙→)おいてもそうだし、時間的な広がり(宇宙創成→地球創成→いのち→ひと→・・・→いま→未来→)においてもそう。
全体性を見るのに限度はなく、それは自分の今いる持ち場での役割を果たしつつ、段階的に拡大していくものだ。
器の大きさにあわせて、水は適切に注がれている。
■
先日、陰謀論が好きなひとの話を聞くことがあった。
わたしたちはだまされている、ということがメインの主張だったと思う。
陰謀にだまされたというけれど、それは単に仕組みや歴史を知らなかっただけじゃないかと思った。
資本主義にもお金にも社会制度に法律にも、、、、
すべてに歴史があり、その流れの中で存在している。
人工的な世界は、色んな人の複雑な思惑の全体性が織りなす結果なので、そこには必ず現在に至るまでの歴史がある。
そして、情報が閉ざされていても、ある程度の洞察力があれば大枠は分かるはずだ。
もちろん、自分たちは何も知らずに生まれてきて、そこから歴史を学ぶという形式で過去を思い出す、という学習プロセスを経ざるを得ないので、そういう意味で絶え間なく学びが必要だ。
学びは、誰かがやることではなく、自分がやることだ。
●
学校で学ぶことも大事だし、学校以外でも学ぶことも大事。
基本的には自然から学べばいい。
人工的世界は、自然世界の一部としてあるので、自然の中の特殊事情として学ぶ。
内なる自然物として、ひとのからだにも歴史があり、こころにも歴史があり、いのちにも歴史がある。
自然の中に人間が生まれたから、人間が作り出した人工的な歴史もある。
具体的には政治や法律や社会や宗教や土地や経済など、すべてがそうだ。
政治そのものが悪いのではなく、悪い状態で政治に関わる人がいると方向性がぶれてしまう、ということだ。
それは宗教でも経済でも医学でも科学でも、大抵はそういうことだ。
人というのは、そういう弱点や盲点も、兼ね備えている。
この世界の存在物はすべて、歴史的存在としてあるので、その歴史を学ぶ必要がある。
それを知らないなら謙虚に学べばいいし、知っていることは知っている範囲でわかりやすく教えればいい。
陰謀論という全体を俯瞰的に見ると、自分が無知であったこと、そして自分の人生を誰かのせいにしていること、などを自ら露呈していることになる。その自分の立ち位置に自覚的である方がいいと思う。
誰かのせいにしても、自分の問題は何も解決はしない。
■
すべてに歴史がある。
そのことを自然や環境や人から学びながら、宇宙の歴史の最先端にいる自分が、ではどうするのか、ではどう生きたいのか、人類や自然や地球の未来をどちらに向けていくのか、ということが大事なのだと思う。
自分は医療に関わり、ひとのからだやこころの歴史に興味があり、医療の歴史に興味がある。
人生の歴史の中で起きる病のこともある程度は知っている。
家族の歴史の中で病が生まれることもあり、
ひとの成長や発育歴の歴史の中で病が生まれれることもあり、
人類という全体性の歴史の中で生まれる先天的な病もある。
だからこそ、自分が知っていることは教えるし、知らないことは知っている人から学ぶ。
●
呼吸は、<呼>の後に<吸>が来るように、息を吐いてから吸うものだ。与えてから受け取る。
人間は、おぎゃーと息を吐いて生まれてきて、息を引き取って死んでいくのも同じ事だ。
だから、自分が知っていることを放出すれば、自分が知らないことは勝手に入ってくる。
それは、息のように自然なことだ。
息は、自分を構成している60000000000000の細胞にくまなく酸素を運ぶために行う。
名もなき一つ一つの細胞に感謝しながら息をすれば、きっと一つ一つの細胞も喜んで働いてくれるだろうと思う。
すべてはそういう関係性の中で、生かされている。
*************
道元『正法眼蔵』
「放てば手にみてり」
*************
(2015-02-04)
●
ある大学の医学部学生に向けて、精神科の中の心理学の講義で話すスライドを作った。
話す内容は、地球の歴史、いのちの歴史、ひとのからだの歴史、「わたし」ができる歴史、医療の歴史・・・・。
僕らは壮大で悠久な流れの中に存在しているので、歴史を学びながら、過去たどってきた道を追体験し、いまいる場所を俯瞰的に知る必要がある。
それを知りながら、先人の真似をして満足するのではなく、より未来のために未来そのものを創造していく。
その必然的な潮の流れを読めば、紆余曲折はあるかもしれないが、自分たちが向かう先へ、きっと到達できるだろう。
悪いことをすると、いづれ別の形に変換されて自分に返ってくる。
後で思い返して過去の行為を後悔する、ということは、未来の自分が今の自分をどう見るかという長期的なVisionに欠けていたということだ。
自分という存在は時間存在の中で幅を持って存在している。自分という存在は、今だけではなく、過去にも未来にも続いており、その連続性の中で自分は形成される。
そのことを思い出せば、必然的に悪いことはしなくなるし、自分自身に対してより素直になる。
死んだ後に素直になるか、死ぬ直前に素直になるのか、それよりもっと早く素直になるのか、そういう自分の人生の長期的なVisionの問題だ。
●
度を越した自然破壊や文化の破壊も同じ事だ。
自分という存在は、悠久のいのちのつながりの共同プロジェクトに名を刻印している。
そのプロジェクトの構成員である、という自覚があれば、少なくとも3‐4世代先(100‐200年後)くらいの視点で物事を考えるはずだ。
自分だけの数十年の人生でいのちのつながりを考えるから、短期的なVisionに基づいた計画になる。
いのちは過去へも未来へもつながっていて、個という存在は、いのちという大きなからだの一つの細胞を構成しているのだから。
●
悪い行為を働く人は、長期的な自分という人生のVisionと、長期的ないのちというVisionとが欠けていると言わざるを得ない。
それは残念なことだが、現代の時代そのものが、歴史性と切れかかっている時代になっていると認識すればいい。悲観的になる必要はない。
気づいた人が始めればいいから、人を責める必要もない。
それは気づいた順番に過ぎないし、行動する順番の問題に過ぎないからだ。
自分という存在は、人生の中で長期的に連続しており、
人間は過去すべての人々の願いや祈りの全体性の象徴として結晶化している、ということに気付いていないだけだから。
●
全体性を見る(コンステレーションを見る)ということは、
空間的な地理的な広がり(地域→日本→地球→宇宙→)おいてもそうだし、時間的な広がり(宇宙創成→地球創成→いのち→ひと→・・・→いま→未来→)においてもそう。
全体性を見るのに限度はなく、それは自分の今いる持ち場での役割を果たしつつ、段階的に拡大していくものだ。
器の大きさにあわせて、水は適切に注がれている。
■
先日、陰謀論が好きなひとの話を聞くことがあった。
わたしたちはだまされている、ということがメインの主張だったと思う。
陰謀にだまされたというけれど、それは単に仕組みや歴史を知らなかっただけじゃないかと思った。
資本主義にもお金にも社会制度に法律にも、、、、
すべてに歴史があり、その流れの中で存在している。
人工的な世界は、色んな人の複雑な思惑の全体性が織りなす結果なので、そこには必ず現在に至るまでの歴史がある。
そして、情報が閉ざされていても、ある程度の洞察力があれば大枠は分かるはずだ。
もちろん、自分たちは何も知らずに生まれてきて、そこから歴史を学ぶという形式で過去を思い出す、という学習プロセスを経ざるを得ないので、そういう意味で絶え間なく学びが必要だ。
学びは、誰かがやることではなく、自分がやることだ。
●
学校で学ぶことも大事だし、学校以外でも学ぶことも大事。
基本的には自然から学べばいい。
人工的世界は、自然世界の一部としてあるので、自然の中の特殊事情として学ぶ。
内なる自然物として、ひとのからだにも歴史があり、こころにも歴史があり、いのちにも歴史がある。
自然の中に人間が生まれたから、人間が作り出した人工的な歴史もある。
具体的には政治や法律や社会や宗教や土地や経済など、すべてがそうだ。
政治そのものが悪いのではなく、悪い状態で政治に関わる人がいると方向性がぶれてしまう、ということだ。
それは宗教でも経済でも医学でも科学でも、大抵はそういうことだ。
人というのは、そういう弱点や盲点も、兼ね備えている。
この世界の存在物はすべて、歴史的存在としてあるので、その歴史を学ぶ必要がある。
それを知らないなら謙虚に学べばいいし、知っていることは知っている範囲でわかりやすく教えればいい。
陰謀論という全体を俯瞰的に見ると、自分が無知であったこと、そして自分の人生を誰かのせいにしていること、などを自ら露呈していることになる。その自分の立ち位置に自覚的である方がいいと思う。
誰かのせいにしても、自分の問題は何も解決はしない。
■
すべてに歴史がある。
そのことを自然や環境や人から学びながら、宇宙の歴史の最先端にいる自分が、ではどうするのか、ではどう生きたいのか、人類や自然や地球の未来をどちらに向けていくのか、ということが大事なのだと思う。
自分は医療に関わり、ひとのからだやこころの歴史に興味があり、医療の歴史に興味がある。
人生の歴史の中で起きる病のこともある程度は知っている。
家族の歴史の中で病が生まれることもあり、
ひとの成長や発育歴の歴史の中で病が生まれれることもあり、
人類という全体性の歴史の中で生まれる先天的な病もある。
だからこそ、自分が知っていることは教えるし、知らないことは知っている人から学ぶ。
●
呼吸は、<呼>の後に<吸>が来るように、息を吐いてから吸うものだ。与えてから受け取る。
人間は、おぎゃーと息を吐いて生まれてきて、息を引き取って死んでいくのも同じ事だ。
だから、自分が知っていることを放出すれば、自分が知らないことは勝手に入ってくる。
それは、息のように自然なことだ。
息は、自分を構成している60000000000000の細胞にくまなく酸素を運ぶために行う。
名もなき一つ一つの細胞に感謝しながら息をすれば、きっと一つ一つの細胞も喜んで働いてくれるだろうと思う。
すべてはそういう関係性の中で、生かされている。
*************
道元『正法眼蔵』
「放てば手にみてり」
*************
(2015-02-04)
●
ある大学の医学部学生に向けて、精神科の中の心理学の講義で話すスライドを作った。
話す内容は、地球の歴史、いのちの歴史、ひとのからだの歴史、「わたし」ができる歴史、医療の歴史・・・・。
僕らは壮大で悠久な流れの中に存在しているので、歴史を学びながら、過去たどってきた道を追体験し、いまいる場所を俯瞰的に知る必要がある。
それを知りながら、先人の真似をして満足するのではなく、より未来のために未来そのものを創造していく。
その必然的な潮の流れを読めば、紆余曲折はあるかもしれないが、自分たちが向かう先へ、きっと到達できるだろう。
トップの絵が気になりました。いいですね。
色がいつものいなばさんの色と違うような気もしました。
どこまでつながりを拡張して考えられるか、という点に興味を持っています。時間的にも、空間的にも。
ムサビの課題に取り組んでいる中で気づいた好きなメタファーに、自分の周りに水が満たされていたら、どこまでを自分に関係あるものだと感じるか、という視点です。
ちょうど通勤途中のバスでその本を読んでいたのですが、あっという間に同じバスに乗り合わせた人、同じ道路上にいる人、そして同じ瞬間に東京に、日本に、地球上にいる人へと
つながりの意識が広がっていった驚きを生々しく覚えています。
隣の人との間に見えない「水」を感じなければ、他人だと切り離すでしょうし、同じ「水」の中にあると思えれば他人事ではなくなります。
歴史の中のひとつのたすきを担っている、よりよいたすきを次の人に手渡すにはどうすればいいのかという時系列の視点に、
みんなひとつの同じ水の中にあるという空間的視点は包含されるんでしょうね。
すべてのことは関係している、みんなどこかでつながっているという点を改めて意識しました。
最近は絵を書く時間がないというか、そういう心理的な余裕がない、ということかもしれませんが、、、でも、絵は描かないとなぁと思います。ほんと自分にとって無心になれる瞬間です。
<自分の周りに水が満たされていたら、どこまでを自分に関係あるものだと感じるか、という視点です。>
たしか、仏教説話に、おそらくその原点があったと思います。
そのたとえでは、<悟り>というものがどういうものか、ということにつながる話です。
つまり、海の中では水が周りにいて、気づかない、だから修行と称して陸に上がるが、陸には水がなく、水を求める。水たまりを求めて、それを悟りかな、と思う。でも、結局、海の中はすべて水で、そこは常に悟りの世界だ、というような感じの話でした。
水の中に包含される、という視点の中に、それは悟りという自己認識の問題もあり、同時に、人とつながる、という他者との関係性の問題もあるんでしょうね。やはり、僕らは自然物のメタファーでしか物事の本質を理解できないような構造になっているようですし、そういう意味でも、物語作家のメタファーのすごさ、神話世界のメタファーのすごさには、日々驚くばかりです。