
ヤッフェ編集の「ユング そのイメージとことば」誠信書房 (1995/09)を改めて読んだ。
色々とユングのことを引用していて、無性に再読したくなった。
大型本で定価は1万円もするが、珍しい図版や写真が多くて素晴らしい本だ。
(ちなみに、「図説 ユング―自己実現と救いの心理学」林道義(著)河出書房新社 (1998/06)も写真が多くて素晴らしい。)
ユング心理学はイメージの心理学ともいえるほど、人間が持つイメージの力や可能性を追求していた。
イメージは言語を越えているし、色や形や空間の世界はイメージと共にあり、人間が持つイメージの可能性を考え直してみることは重要なことだと思う。
人間が深く心を動かされるとき、そこにはいろんなイメージ体験が伴っていることも多い。
イメージ言語を考えれば、イメージはコトバの一つでもある。
この本は自伝の要素が多く面白い本だった。
特に惹きつけられたのが、最後の章のユングの死のところ。
ユングが死の間際にあたって、いろいろな言葉を手紙の中で語っていて、それがとても示唆に富む。
ユングにかかわらず、あらゆる生命には、生まれること、生きること、死ぬこと、このプロセスが内在している。
このプロセスをどういう風に自分の中に位置づけていくかが重要なのだろう。ブッダもそこがはじまりだった。
自分も、臨床の現場でいろいろな人の死を看取った。瞬間的な時間を共有したこともあるし、長い時のプロセスの中で共有したこともある。
そういう色々な経験の中で、生の中に死が分かちがたく一体化され、死の中に生が分かちがたく一体化された気がする。生も死も同じ現象の違う視点から見たものなのだ、ということを深い感情と共に体験した。
ユングという心の浅い場所から深い場所までを見続けた偉大な医師が、自身の死の間際に「死」のことについて語ったすべての言葉は、すべて示唆的なものに感じられる。それぞれが、自分のための自分独自の神話を創り出していくことが、その人のかけがえのない人生という創造物になるのだろう。それは自分が造ると同時に、他者との共同作業で織りなしていくものなのだろう。
ヤッフェ編「ユング そのイメージとことば」P213-223
<生と死>
『ユング自伝』
「私は心の中の驚くべき神話に注意深く耳を傾ける」
『ユング自伝』
「理性にとって神話作りは不毛の思弁である。
しかし、感情(ゲミュート)にとって、それは生命の持つ癒しの作用である。
それは存在に輝きを与える。人はそれなしにすますことが多分できない。
また、それがなくてもよいとする十分な理由もない。」
『ユング自伝』
「人間は、死後の生命について一つの考えを作り上げるかイメージを作るために、できるだけのことをやったと証明できなければならない。
それぞれがおのれの無力を告白することにになるにしても、である。
それをしない人は何ものかを失ったことになる。」
『アルベルト・オエリの未亡人への手紙(1950年12月23日)』
「老いを見つめることは、われわれの心(ゼーレ)が、時の変化も場所の限定もうけつけない領域に届いていることを知らなければ、多分耐えがたいことでありましょう。
その世界では、われわれの生まれることが一つの死であり、われわれの死ぬことが一つの誕生なのです。
それで全体の釣り合いが保たれているわけです。」
『手紙 1955年11月19日』
「生命とは、長い物語のなかの幕あい狂言のように思われます。
その物語は私のいる前にすでにあり、三次元的存在としての意識的な間(ま)が終わっても、おそらくはさらに続くのです。」
『ユング自伝』
「もしわれわれが、この世においてすでに限りのないものに通じていることを実感し理解するならば、希望や態度がおのずから変わってくる。
他者とのかかわりにおいても、この限りなきものが、そこに現れているか否かが決定的に重要である。
しかし、限りなきものの実感は、極限のものに境を接してはじめて得られるものである。
おのれの人格の独自性を知ること、すなわちとことん限定することによって、限りなきものを意識する可能性が開かれる。それ以外の方法はない。」
『手紙 1954年2月1日』
「外から見ると、つまり死の外側にいる限り、それは最も恐ろしいものです。
しかし、その内側に入るや否や、全体性、やすらぎ、充実の強い感情を経験するので、もう戻りたくないと思ってしまうのです。」
『手紙 1946年12月18日』
「死の一面(アスペクトゥス・モルテイス)はいやおうなしの淋しい事柄です。
そのとき神の前で、人はすべてのものを奪い取られるのですから。
おのれの全体性が容赦なく試されるのです。」
(ユングの死の数か月前)
『手紙 1960年8月10日』
「肉体に抱きとめられている状況から然るべきときに身をひいて、
心(ゼーレ)を、われわれの世界の途方もなく大きな広がりの中に解き放つことは
―われわれはその世界のほんの微小な一部なのですが―、
実際大変な努力、偉大な仕事(マグナム・オプス)なのです。」
『手紙 1960年8月10日』
「われわれは間違った側から世界を見ており、
もし立場を変えて逆の側からみる、すなわち外からではなく内から見れば、
多分正しい答を見いだせる、ということはおそらくk十分にありうることでしょう。」
『ユング自伝』
「主体として一切異議を唱えることなく、在ることに対して無条件に『イエス』ということ。
存在の諸条件を、自分に見えるままに、自分が理解するままに引き受けること。
そしてまさにあるがままにおのれの本質を引き受けること。
病気になったはじめ、私の態度に誤ったところがあり、そのためこの災難はある程度自分に責任がある、という感じがあった。
しかし。個性化の道を歩む、つまり生を生きるときは誤りも背負いこまねばならない。
そうでなければ生は完全でないのである。
―いかなる瞬間においても― われわれが誤りや致命的な危険に陥ったりせぬ、という保証はない。
人は多分もっと確実な道があると思うであろう。
しかしそれは死者の道である。そこではどういう場合であれ、正しいことはもはや一切起こらない。より確実な道を行く人は死んだも同然である。
病気になってはじめて、私は自分自身の運命にイエスということが、どれほど大切であるかを理解した。」
『ユング自伝』
「私は、私の一生がそんな風に過ぎ去ったことに満足している。
それは豊かなもので、多くのものを私にもたらした。
それほど多くのことをどうして期待できたことであろう?
実際に起こったことは、期待したこととまったく違っていた。
私自身が違ってあれば、多くのことも変わっていたことであろう。
しかしそれはあるべきようにあった。
なぜならそれは、私があるようにあることから生じたのだからである。」
ユングが墓碑に記した言葉(キュスナハト)
『コリントの信徒への手紙1 15.47』
「呼ばれようと呼ばれまいと、神はいます。最初の人は土でできた地の者であり、第二の人は天の者です。」
(VOCATUS ATQUE NON VOCATUS DEUS ADERIT PRIMUS HOMO DE TERRA TERRENUS SECUNDUS HOMO DE CAELO CAELESTIS)
色々とユングのことを引用していて、無性に再読したくなった。
大型本で定価は1万円もするが、珍しい図版や写真が多くて素晴らしい本だ。
(ちなみに、「図説 ユング―自己実現と救いの心理学」林道義(著)河出書房新社 (1998/06)も写真が多くて素晴らしい。)
ユング心理学はイメージの心理学ともいえるほど、人間が持つイメージの力や可能性を追求していた。
イメージは言語を越えているし、色や形や空間の世界はイメージと共にあり、人間が持つイメージの可能性を考え直してみることは重要なことだと思う。
人間が深く心を動かされるとき、そこにはいろんなイメージ体験が伴っていることも多い。
イメージ言語を考えれば、イメージはコトバの一つでもある。
この本は自伝の要素が多く面白い本だった。
特に惹きつけられたのが、最後の章のユングの死のところ。
ユングが死の間際にあたって、いろいろな言葉を手紙の中で語っていて、それがとても示唆に富む。
ユングにかかわらず、あらゆる生命には、生まれること、生きること、死ぬこと、このプロセスが内在している。
このプロセスをどういう風に自分の中に位置づけていくかが重要なのだろう。ブッダもそこがはじまりだった。
自分も、臨床の現場でいろいろな人の死を看取った。瞬間的な時間を共有したこともあるし、長い時のプロセスの中で共有したこともある。
そういう色々な経験の中で、生の中に死が分かちがたく一体化され、死の中に生が分かちがたく一体化された気がする。生も死も同じ現象の違う視点から見たものなのだ、ということを深い感情と共に体験した。
ユングという心の浅い場所から深い場所までを見続けた偉大な医師が、自身の死の間際に「死」のことについて語ったすべての言葉は、すべて示唆的なものに感じられる。それぞれが、自分のための自分独自の神話を創り出していくことが、その人のかけがえのない人生という創造物になるのだろう。それは自分が造ると同時に、他者との共同作業で織りなしていくものなのだろう。
ヤッフェ編「ユング そのイメージとことば」P213-223
<生と死>
『ユング自伝』
「私は心の中の驚くべき神話に注意深く耳を傾ける」
『ユング自伝』
「理性にとって神話作りは不毛の思弁である。
しかし、感情(ゲミュート)にとって、それは生命の持つ癒しの作用である。
それは存在に輝きを与える。人はそれなしにすますことが多分できない。
また、それがなくてもよいとする十分な理由もない。」
『ユング自伝』
「人間は、死後の生命について一つの考えを作り上げるかイメージを作るために、できるだけのことをやったと証明できなければならない。
それぞれがおのれの無力を告白することにになるにしても、である。
それをしない人は何ものかを失ったことになる。」
『アルベルト・オエリの未亡人への手紙(1950年12月23日)』
「老いを見つめることは、われわれの心(ゼーレ)が、時の変化も場所の限定もうけつけない領域に届いていることを知らなければ、多分耐えがたいことでありましょう。
その世界では、われわれの生まれることが一つの死であり、われわれの死ぬことが一つの誕生なのです。
それで全体の釣り合いが保たれているわけです。」
『手紙 1955年11月19日』
「生命とは、長い物語のなかの幕あい狂言のように思われます。
その物語は私のいる前にすでにあり、三次元的存在としての意識的な間(ま)が終わっても、おそらくはさらに続くのです。」
『ユング自伝』
「もしわれわれが、この世においてすでに限りのないものに通じていることを実感し理解するならば、希望や態度がおのずから変わってくる。
他者とのかかわりにおいても、この限りなきものが、そこに現れているか否かが決定的に重要である。
しかし、限りなきものの実感は、極限のものに境を接してはじめて得られるものである。
おのれの人格の独自性を知ること、すなわちとことん限定することによって、限りなきものを意識する可能性が開かれる。それ以外の方法はない。」
『手紙 1954年2月1日』
「外から見ると、つまり死の外側にいる限り、それは最も恐ろしいものです。
しかし、その内側に入るや否や、全体性、やすらぎ、充実の強い感情を経験するので、もう戻りたくないと思ってしまうのです。」
『手紙 1946年12月18日』
「死の一面(アスペクトゥス・モルテイス)はいやおうなしの淋しい事柄です。
そのとき神の前で、人はすべてのものを奪い取られるのですから。
おのれの全体性が容赦なく試されるのです。」
(ユングの死の数か月前)
『手紙 1960年8月10日』
「肉体に抱きとめられている状況から然るべきときに身をひいて、
心(ゼーレ)を、われわれの世界の途方もなく大きな広がりの中に解き放つことは
―われわれはその世界のほんの微小な一部なのですが―、
実際大変な努力、偉大な仕事(マグナム・オプス)なのです。」
『手紙 1960年8月10日』
「われわれは間違った側から世界を見ており、
もし立場を変えて逆の側からみる、すなわち外からではなく内から見れば、
多分正しい答を見いだせる、ということはおそらくk十分にありうることでしょう。」
『ユング自伝』
「主体として一切異議を唱えることなく、在ることに対して無条件に『イエス』ということ。
存在の諸条件を、自分に見えるままに、自分が理解するままに引き受けること。
そしてまさにあるがままにおのれの本質を引き受けること。
病気になったはじめ、私の態度に誤ったところがあり、そのためこの災難はある程度自分に責任がある、という感じがあった。
しかし。個性化の道を歩む、つまり生を生きるときは誤りも背負いこまねばならない。
そうでなければ生は完全でないのである。
―いかなる瞬間においても― われわれが誤りや致命的な危険に陥ったりせぬ、という保証はない。
人は多分もっと確実な道があると思うであろう。
しかしそれは死者の道である。そこではどういう場合であれ、正しいことはもはや一切起こらない。より確実な道を行く人は死んだも同然である。
病気になってはじめて、私は自分自身の運命にイエスということが、どれほど大切であるかを理解した。」
『ユング自伝』
「私は、私の一生がそんな風に過ぎ去ったことに満足している。
それは豊かなもので、多くのものを私にもたらした。
それほど多くのことをどうして期待できたことであろう?
実際に起こったことは、期待したこととまったく違っていた。
私自身が違ってあれば、多くのことも変わっていたことであろう。
しかしそれはあるべきようにあった。
なぜならそれは、私があるようにあることから生じたのだからである。」
ユングが墓碑に記した言葉(キュスナハト)
『コリントの信徒への手紙1 15.47』
「呼ばれようと呼ばれまいと、神はいます。最初の人は土でできた地の者であり、第二の人は天の者です。」
(VOCATUS ATQUE NON VOCATUS DEUS ADERIT PRIMUS HOMO DE TERRA TERRENUS SECUNDUS HOMO DE CAELO CAELESTIS)