日常

「アレクセイと泉」

2013-09-07 08:59:29 | 映画
本橋成一監督の「アレクセイと泉」を見ました。

****************
<DVD概要・解説>
ベルリン映画祭を始め、世界各国で好評を博した『ナージャの村』から5年。
写真家・本橋成一と音楽家・坂本龍一と組んで〈泉〉を主題としたドキュメンタリーを完成させた。

舞台となる〈泉〉は、1986年4月26日に起こったチェルノブイリ原発(旧ソ連・現ウクライナ共和国)の爆発事故で被災した、
ベラルーシ共和国東南部にある小さな村ブジシチェにある。
この村の学校跡からも、畑からも、森からも、採集されるキノコからも放射能が検出されるが、
不思議なことに、この〈泉〉からは検出されない。
「なぜって?それは百年前の水だからさ」と、村人たちは自慢そうに答える。

この百年、人間は何の豊かさを求めてきたのだろう。
《水の惑星=地球》の強い意志のようにこんこんと湧く〈泉〉は、私たちに"本当の豊かさとは何か"を静謐に語りかける。
****************

ふくしまから戻ってきたので、前々から見ようと思って見てなかった「アレクセイと泉」を見てみたのでした。


ベラルーシ共和国にあるブジシチェという小さい村。
1986年に起きたチェルノブイリの爆発事故のため、そこから180キロにあるこの村は強制移動勧告が出て、多くの村人はいなくなった。
当時、そこには50人くらいのお年寄りと、小児麻痺の後遺症(?)があるアレクセイという1人の青年が暮らしていた。(昔は6000人くらいいたらしい。)
そんな村の淡々とした日常が映像として写される。そういう映画。
メッセージ性はあえて表に出ないように工夫されている。
視聴者が、映画とメッセージ(イデオロギー?)を同一視しないよう、意識しているのだろう。

そのブジシチェ村の日常を見ると、僕らが忘れていた人間の営みや日々の生活を思い出させてくれる。
日々を暮らすというのは、日々の自然の移り変わりに対応していく事と対応している。
それが複雑化しシステム化して肥大化しいくと、現代の「仕事」(ビジネス)という壮大な体系が作られていったのだろう。その仕事の変遷の大元(泉)を見るようだった。


収穫の夏は村人総出でジャガイモを収穫し1年分の食料を蓄える。
冬には氷を割って川魚を取る。
寒い時期は自分で編んでカゴを作る。糸をつむいで機織をする。
「毛糸」と称されるように動物の「毛」が「糸」に変換されていく光景は魔法のようだった。
部屋では薪が燃える。パチパチという音が響く。

村には水道もない。
だから村人は共用の泉へ汲みに行く。天秤棒で二つの桶をぶらさげて運ぶ。この水を汲めなくなると水が飲めなくなるという過酷さがある。

そして、村の別の場所からは放射能は検出されても、なぜかこの泉からは放射能は検出されない!この事実をインスピレーションにして、この映画は生まれたのだろう。


もちろん、この事実は色んな解釈ができる。
水に浄化作用があるのかもしれないし、水の循環がよくどんどん洗い流されるのかもしれない。
・・・・・
理由はどうあれ、この泉だけでは検出されないということは事実のようだ。
その多様な解釈よりも、事実そのものに素直でありたいものだ。虚心坦懐。
この自然界は、人間の屁理屈を越えた壮大な法則の元で動いているようだから。



「この水を飲んでいれば大丈夫」と村人は言い、その泉に村人は集う。
水を汲む場所でもあり、村人の情報交換の場であり、心のよりどころにもなっている。
こういう光景は美しいな、と素直に思った。

青年アレクセイは、馬や犬・・そういう動物と接する時や木を切るとき、自然界に生きる同じ存在として平等に扱っていた。その姿が余りにも当り前で自然で素敵だった。




この映画はドキュメンタリー映画のようなもの。
ベラルーシ共和国にある小さな村ブジシチェという村の日々の生活を淡々と記録している。
そこにあまり監督の主観が入り込まないよう工夫され、客観的な観察者として日常をとらえる工夫がされている。
意味づけをするのは監督ではなく、見る側なのだ。

その村は放射能が多いために政府から追い出されてしまった村なのだが、数世代にもわたって自然とひとつになって暮らしている村人の、その生活の営みには心打たれるものがあった。

自然と一つになって暮らしている人たちは、自然の痛みはそのまま自分の心や体の痛みとして感じるだろう。
僕らは、「頭」で「心」や「体」が感じている事を無視しがちだ。
体が疲れていても、頭で「大丈夫だ」と思い込み、体の声を無視する。
心が痛んでも、頭で「大丈夫だ」と思い込み、心の声を無視する。
体の声や心の声は自然の声そのものだと思う。西洋医学が見失った大事なものを、数多の代替医療が教えてくれている。


人間は色々なことをきっかけに「成長」の機会を与えられるが、「痛み」というのは成長のプロセスで必ず起きる化学現象のようなもののようだ。
「痛み」を求めることが目的になると意味が反転してしまうけれど、人間が変化し成長するプロセスでは、その変化の「証し」として痛みという現象がシグナルを送るようだ。
それは「痛み」という感覚こそが、人間が忘れないために有効だと神様が考えて人間に与えたのかもしれない。もちろん、自然界の深い意図までは自分にはよくわからない。


この映画は、色んな解釈ができるのだと思う。色んなことを代弁してくれているとも思う。
ただ、自分としては「人間にとって自然とは何か」という根本的な問いのことを思った。

人間が「自然」を内在している存在で、「自然」から離れられない存在であるからこそ、「自然」を僕らがどう考えて行くのか。そういう大事なことに向き合うためにとてもいい映画だと思った。

大切なことは、常に「問い」として自分の前に現れてくる。
その「答え」を出すのは、どこかの誰かではなく、常に自分自身なのだ。