日常

手塚治虫「ばるぼら」

2010-10-02 10:34:45 | 
友人との話の中で、手塚治虫「ばるぼら」が出てきた。
高校生の時読んで以来内容を忘れていたので、もう一度読んだ。
激しい衝撃を受けた。


手塚治虫の漫画は全部読んでいるけれど、奇妙なざらつきだけが残っている作品が多くある。
今ふと思い出すだけでも、「人間昆虫記」、「奇子」、「MW(ムウ)」、そして、この「ばるぼら」だった。


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(上)バルボラというフーテン娘に導かれ、芸術と狂気の間をゆれ動く、ある作家の栄光と喪失。 
(下)バルボラは悪魔か女神か‐。バルボラとの奇妙な同棲が作家にもたらす恍惚と絶望。
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読んだ後に思う。
たしかに、この全貌を理解するには高校生当時には理解を超えていた気もする。
なにせ、人生経験が浅いから、観念的な世界の中を生きている時期だし。
でも、この作品はおそろしく凝集度が高くて(黒魔術とか魔女とかまで出てくる)、自分の中に何か見過ごせないものとして残っていた。


とくに、芸術とか、表現とか、そういう世界にいる人は読んでほしい。一見の価値があると思う。
もちろん、それ以外の人にも。


美や芸術とは何なのか。
美しいとは何か。

そして、主人公の小説家が生きる過程の中での、ユングが言うアニマ(理想の女性像)との出会い。Shadow(影)との対決とか。
人の心の奥底まで深くえぐるものがある。
アンデルセンの話と同じように、影に乗っ取られそうな話も出てくる。



手塚治虫は本当に果てしなく人の心の奥底を描く漫画家だし、それでいて小学生にも伝わるように、社会人にも伝わるように、死ぬ間際の人間が人生の締めくくりにも読めるように、すごく普遍的な形で世界を描いている。


心の奥深く。最深部。
そこは人間のたましいと称されていた秘密の場所なのだろう。

こういう秘密の場所を、村上春樹さんは<2階建ての家の開かずの地下2階>の場所として、メタファーでたとえる。
手塚治虫は、地下2階も含めたすべてを漫画で描ききれる数少ない偉大な漫画家なのだと思う。


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人間の存在というのは二階建ての家だと僕は思ってるわけです。
一階はは人がみんなで集まってご飯食べたり、テレビ見たり、話したりするところです。
二階は個室や寝室があって、そこに行って一人になって本読んだり、一人で音楽聴いたりする。
そして、地下室というのがあって、ここは特別な場所でいろんなものが置いてある。
日常的に使うことはないけれど、ときどき入っていって、なんかぼんやりしたりするんだけど、その地下室の下にはまた別の地下室があるというのが僕の意見なんです。

それは非常に特殊な扉があって分かりにくいので普通はなかなか入れないし、入らないで終わってしまう人もいる。
ただ何かの拍子にフッと中に入ってしまうと、そこには暗がりがあるんです。
それは前近代の人々がフィジカルに味わっていた暗闇 --電気がなかったですからね--というものと呼応する暗闇だと僕は思っています。
その中に入っていって、暗闇の中を巡って、普通の家の中では見られないものをひとは体験するんです。
それは自分の過去と結びついていたりする。それは自分の魂の中に入っていくことだから。
でも、そこからまた帰ってくるわけですね。あっちに行っちゃったままだと現実に復帰できないです。
一皮剝けば暗闇があるんじゃないかというのは、そういうことだと思うんです。

その暗闇の深さというものは、慣れてくると、ある程度自分で制御できるんですね。なれない人は凄く危険だと思うけれど。
そういう風に考えていくと、日本の一種の前近代の物語性というのは、現代の中にもじゅうぶん持ち込めると思ってるんですよ。
いわゆる近代的自我というのは、下手するとというか、ほとんどが地下一階でやっているんです、僕の考え方からすれば。


村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』より)
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ばるぼらっていうのは、美のイデアのようなものなのだろう。
イデア(idea)は、プラトンが言うところの、形は形でも眼に見える形ではなくて、「心の目」「魂の目」によって洞察される純粋な形。「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」のこと。

芸術家や作り手が、お金や地位や保身・・・・美とは関係ないものに走ると、美のイデアは失われる。
美のイデアは、その原始性ゆえに、時にはきたならしく、おぞましい異形のものに見えるかもしれない。
いまの社会では大切にされないほど原始的で剥き出しの毒々しいものとして目に映るのかもしれないけれど、ほんとの目を持ってみれば、そのものを見ることができるのかも。



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小説は活字だから、活字で感想を書きやすいんだけど、漫画は感想が書きにくい。活字とイメージの両方で、こちらにダイレクトに伝えてくるから。手塚治虫は、絵もすごいし、物語の構成や、その中に出てくる言葉もすばらしい。


手塚治虫の漫画。
すべてがすべて素晴らしい。
僕は高校生時代に手塚治虫と出会わなければ、相当にしょうもない人間になってた気もするし、自分を深く成長させてくれたという意味で、手塚さまさまなのです。
手塚作品はすべてお勧めしたいけれど、とくにこの「ばるばら」は、大人向けの気もするので、大人のみなさんには強くお勧めします。



ばるぼらに出てくる詩を最後に紹介。


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手塚治虫「ばらぼら」より
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ヴェルレーヌ
『ヴィオロンのためいきの身にしみて
 ひたぶるにうら悲し
 げにわれはうらぶれて
 ここかしこと飛び散らう落葉
   上田敏訳
 
 君を過ぎし日に
 何をかなせし
 君今ここにただ嘆く
   永井荷風訳』


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ポール・ヴェルレーヌ「落葉」(全文)
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Chanson d'automne
   Paul Verlaine

Les sanglots longs
Des violons
 De l'automne
Blessent mon coeur
D'une langueur
 Monotone.

Tout suffocant
Et blême, quand
 Sonne l'heure,
Je me souviens
Des jours anciens
 Et je pleure

Et je m'en vais
Au vent mauvais
 Qui m'emporte
Deçà, delà,
Pareil à la
 Feuille morte.


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落葉
 上田敏『海潮音』より

秋の日の
ヴィオロンオロンの
ためいきの
ひたぶるに
身にしみて
うら悲し。

鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。

げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。
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11 コメント

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治虫さんの潔さ (H.P.)
2010-10-08 18:49:26
少なくとも、臨床の医療から
手塚治虫は離れられたわけですが、
この漫画を読めば、
その原動力について少しわかりそう。
さっそく注文。

ところで、
臨床を去る後ろめたさ、これ大きいと思いませんか。
私は実際に後ろめたく、昨年、別の業務と二足のわらじを試みてみました。1年目だけれど、これは不可能だと痛感。無理だ、と結論づけたい衝動がありました。しかし、ここで自分の能力の低さに屈するわけにもいかない。

美や芸術や洞察の中に、医療は含まれる。
だから、医療の外にある美や芸術や洞察の領域へ興味が向くと、医療だけに絞っていられない気持ちがした。
かといって、目の前の人間にすら継続して取り組めないようで、美や芸術や洞察全体の何がわかるとも思った。
全体についての勉強がしたい。そう考えて本を読むが、頭に残らない。

ばるぼら、早く届かないかなあ。

余談は続くですが、ロシアへ先日に行ってみました。「ロシアでは、村上春樹が人気です」となぜかあえて解説が入りました。へえ





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微妙にネタバレ (f.kobayashi)
2010-10-09 21:39:09
いつもブログ、楽しみにしています。

芸術にたずさわっている身として、「ばるぼら」さっそく読んでみました!

潜在意識が主人公の処女作のヒロインを求めてしまったり、
主人公の最高傑作が、彼の人生と鏡面のようにリンクしている部分など、
…うなりました。下巻から読みすすめていくうちに緊張しました。

あと、気になったのが「ばるぼら」には心が無いですよね。
それが最後の方で具体的に表現されているように感じました。
ただあるという感じ。

芸術は、言葉の呪縛から解き放たれた哲学であるべきだと思っています。
絶対絶命、芸術と殉死!と感じながら作品作れれば私としては本望なのですが、
実際は世俗の喧騒と戦わざるを得ません。

余談ですが、夏頃、千代田線NZ駅方面からすごいスピードで
スポーツタイプの自転車をこぐinabaさん(十中八九そう)を見かけました。
なぜか笑顔でした・笑
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イメージの世界 (いなば)
2010-10-10 09:07:45
>>>>H.P.さん

たしかに、手塚先生は潔いですよね。
大阪大学医学部を出ながら、医者にならず漫画家になったわけで。
そこには色んな葛藤があったと思う。
そして、その夢を忘れて普通に仕事をしている人も数多くいて、そういうひとたちの白い影をお簿ながら、手塚先生は捜索していたのかもしれない。

臨床を去る後ろめたさ、大きいですね。
僕は、ひとり例外的に臨床を去らない決意をしたのです。
研究だけ、つまりそれは試験管とか培養細胞とかDNAの世界ですが、そこだけにに打ち込もうかと思いましたが、やはりそれは違うと思ってしまった。
なんというか、本末転倒だと。
原因と結果が逆さになっているような奇妙なねじれの感覚。


だからこそ、むしろ別の臨床医学に頭を突っ込んでいます。
それは、高度先端医療をやりながら、地域医療とか在宅医療とか終末期医療に頭を突っ込むという選択。
人には言わず黙ってやってます。
物事には、秘密にすべき事もあると思うのです。
あえて、自分のうちに秘めておくべきようなもの。
狭い職場では、特にそう。



『美や芸術や洞察の中に、医療は含まれる。
だから、医療の外にある美や芸術や洞察の領域へ興味が向くと、医療だけに絞っていられない気持ちがした。
かといって、目の前の人間にすら継続して取り組めないようで、美や芸術や洞察全体の何がわかるとも思った。』

これは同感です。

僕は「真・善・美」を考えています。

「真・善・美」という巨大な容れものの中に、医学はあると思っています。
常に、医学は部分であり、自分も部分。
だからこそ、「真・善・美」の方向性を見失わないように、医学という一本の糸を登っていこうと。
自分にとって、それは研究ではなくて、やはり臨床。
人間と人間との関係性でしかありえないのだと、大学に戻って改めて感じました。


自然科学は、対象を分離して客観化します。
自分は、その自然科学としての医学の恩恵を受けながらも、自分と対象を客観できないような世界でも生きたい。
それは自然科学と共存してしかるべき別の道だと思うのです。
それは、地域医療や終末期医療であり、在宅医療であり、福祉であります。
それが、<生老病死>だと思っています。




>>>>>>>>f.kobayashi様

メールの返信を返したつもりで忘れてたのを思い出しました。

「ばるぼら」、読んでもらってうれしい。
手塚治虫は、本当にすごいのです。



『潜在意識が主人公の処女作のヒロインを求めてしまったり』
あの下り、すごかったですよね。
なんか、自分の魂が奪われて、何かに強烈に引き寄せ去られていくような奇妙な感覚でページを繰りました。

『主人公の最高傑作が、彼の人生と鏡面のようにリンクしている部分』
あれも、どちらが真の話で、どちらが鏡の中の話なのか。どっちがこっちであっちなのか、
その辺は恐ろしく不可思議な気持で読み進めました。

最終的に漫画そのものが円環構造になっているようで、圧倒されます。



「ばるぼら」、確かに<心が無い>ものとして描かれていますね。
実体はなくて、単にイメージの産物のようなもの。
あくまでも心理的なものなのかな。

でも、それは<あの主人公から見えた世界がそう見えた>とも解釈できるかもしれないし、そこは二重に解釈できそう。

「ばるぼら」側から漫画を描くと、全然違う世界が広がるのかも。
それこそ、あの作家そのもの自体が、「ばるぼら」の世界からは最初から消えているかもしれないし。


『芸術は、言葉の呪縛から解き放たれた哲学であるべきだと思っています。』
そうですね。言葉の呪縛。その呪いを解くために、言葉の仕組みを知らないといけないんでしょうし、それは常に目的ではないんですよね。言葉を知らないといけないけど、それはあくまでも目的ではない。
ただ、言葉のコードを世界からはずすには、言葉そのものの世界を知らないと、けっきょくは大きな言葉の世界の中に包まれてしまいますし。

僕は、そのひとつの突破孔として、「イメージの世界」があると思います。
僕ら人間が、比較的歪んでない生の形で受け取るのは、「夢」でしょう。

夢は、言語の論理では生きていなくて、その世界にひとつの生命があります。
そして、夢は無意識とも関係している。


自分も、医学という極度に言語化された世界の中で生きていますが、
その中で言語化されてない世界を扱いたいとも思うのですよね。
それは、内的な心の世界の宇宙のようなものでもあるし、
それは誰もが抱えている普遍的なものだとも思うのです。



P.S.
『すごいスピードでスポーツタイプの自転車をこぐ』
それ、間違いなく僕ですね。赤い自転車です。
いつも、高速で漕いでます。轢かれたら死ぬな、と思いながら漕いでます。
なぜか笑顔だったというのが、なんか恥ずかしい。
なんか妄想してたんでしょうか。笑
声掛けても気付かず走り去る可能性大ですが、声掛けれそうな雰囲気だったら、声かけてください笑
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Unknown (あぼーん)
2012-01-19 02:39:53
新しい文庫が出てたので買って読みました。

芸術ですね。

途中で魔術的な話に傾倒した所が何とも言えませんが、処女作の話や、冒頭での行き詰まりの中で皮肉った自嘲などは共感できる所があります。
それでいて最後まで飽きさずに、エネルギッシュな感じをキープしているのがすごかったです。
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先鋭的な芸術家 (いなば)
2012-01-19 17:29:27
>あぼーん様
はじめまして。
手塚治虫の「ばるぼら」は本当にすごいですね。
手塚先生は一般人にも受ける大衆的な漫画家でありながら、同時に先鋭的な芸術家なんだなぁと、この作品を読むと思います。
しかも、その中にも必ずユーモアとかを織り交ぜているんですよね。そこがほんとうにすごい。

最後の終わりかたも、始めとループするような構造になっていますし。
読む人も、それぞれ自分にとっての「ばるぼら」を考えさせてしまう。
この短編にはそういう不思議な魔力があります。裏手塚と呼ぶにふさわしいマンガだと思います。

手塚作品は常に文庫が新しく売られ、新しい世代に読み継がれています。それがすごい。
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はじめまして (JIN)
2015-11-22 15:17:46

 今日はじめてこの作品を読んだ者です。

 子供の頃にこれを読まず、イイ年の大人になってから初めて読んだ事に運命すら感じています。

 中盤の「美女」も悪くないですが、やはり初期の「フーテン」の方にこそ魅力を感じます。

 その辺りは「いつまでもそのままではいられない」というテーマもあるんでしょうが。
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Unknown (INA)
2015-11-26 00:33:00
>JIN様
こんにちは。書き込み有難うございます。

子供の頃に読んでも、やはりなかなか細部までは分からないですよね。
自分も、改めて大人になってから読んで、手塚治虫の深さを痛感した次第です。
示唆に富んだ内容で、うなる作品です。
人間の影の部分も書く、裏手塚の代表作と言えるような気がする、すごい作品ですよね。
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ありがsとうございます (JIN)
2015-11-26 12:50:09

 おかげさまで昨日は「人間昆虫記」を一気読み。

 あとこの作品を読んで気になったのは、どうしてバルボラが口ずさむのはヴェルレーヌなのかという点。

 そこでヴェルレーヌを調べてみたところ思い付いたのは、実は「バルボラ」は「ランボー」の事ではないのかという点。

 当然に美倉がヴェルレーヌというわけで。
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Unknown (INA)
2015-11-30 23:32:45
> JIN様
「人間昆虫記」も素晴らしい本ですよね。

「バルボラ」は「ランボー」というのは確かにそうかもしれません!
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Unknown (JIN)
2015-12-04 22:31:58

 「アルチュール・ランボー」が「アル中のバルボラ」にという感じですね。

 少年的なバルボラとしては、やはり前半の「砂丘の悪魔」が好きです。

 ああいう居候的な性格のキャラは、後のピノコやタマサブローにも影響を与えている気もします。


 「奇子」と「MW(ムウ)」については、かなり以前に読んでいただけに、残り二作がようやく最近というの面白いですが。

 あと黒手塚系となれば、未完に終わった「ガラスの城の記録」も印象に残っています。
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