日常

永遠の同伴者

2015-09-24 23:27:25 | 考え
神話や昔話や祖先や死というものは、魂を遠い過去へと結びつけ、自分の存在の根を確認するためのものだ。
その道は常に開かれているのだが、自分の足で歩もうと決めた時に、そのドアは開かれる。

日常と次元の異なる世界が開けた時、今までとは異なるエネルギーがそこからもたらされる。
そこに、自分の内なる世界の広がりを再発見する。
そういう再発見は、年齢によらない。

その人の人生の向き合い方に応じて、適切な時期に開かれる。体験や知識として訪れる。
年齢が経ってから発見すると、その驚きは大きく、大騒ぎすることになるようだ。そういう人はどこか浮ついているが、しっかりと存在の根とつながったとき、はじめて安定する。

そうして、自分の内なるエネルギーを、はじめて自分のものとして使用できるようになる。
自分の中には鉱脈が潜んでいて、その鉱脈自体も無数にある。





人間は、宇宙全体の働きの中で死と再生を繰り返す存在の一つだからこそ、自分自身をなんとか永遠の相に定位したいと願う。

永遠の同伴者として土地の霊や祖霊を大切にした時代もあり、神を大切にした時代もある。それは歴史や文化により異なる。
永遠の同伴者として魂を定位するのであれば、それ相応の魂への試練が必要とされる。

永遠の同伴者は、どんな人の背後にも存在しているのだが、その呼び名や名称で人は争いを行う。
おそらく、そうして表層的に争うことで、深層にある永遠の同伴者と、正面から向き合うことを巧みに回避しているのだろう。

肉体は親から受け継ぎ、魂はいのちの流れから受け継ぐので、生きている限り、永遠の相が偶発的にも垣間見えることがある。
永遠の同伴者として魂を定位するとき、外的には大変な作業を伴うことが多く、大抵の人は蓋を少しだけ開けて上澄み液だけを汲んで飲み、また蓋をする。その繰り返しを行う。




世阿弥の『風姿花伝』に、人間の成長を花の成長に重ねて「時分の花」と「まことの花」という言葉がある。
「時分の花」とは、若い生命が持つ鮮やかで魅力的な花。誰もが通過し花開く、そして一度枯れる。
「まことの花」とは、自分という木の全体が枯れいくとしても、そこでひそやかに咲き続けている花。自分という一人の人間だけが持つ本質的な花。

自分の器が適切な時期を迎えた時、魂の鉱脈にある水源から適切な量を受け取ることができる。器とのバランスで、受け取れる量は規定されている。

その人に応じた適切な水が与えられると、「まことの花」は秘かに咲くだろう。
その開花時期は誰も知らないが、いづれ花開く、ということだけは分かっている。