日常

「吾」「言」「語」

2016-08-27 11:49:17 | 芸術
(左から、「吾」、「言」、「語」の古代文字)


白川静先生の漢字の本をふと開けたら、示唆的なことが書かれていた。

古代中国では神への祈りの祝詞を入れる器が「口」(サイ)という漢字。この「口」(サイ)を守ることこそが大切なことだった。「言霊を入れる容器」のこと。
この発見が白川漢字学の基礎にあるものだ。


このブログのタイトルは「吾」。
「わたし」を記述するものとしてブログを書こうと思い立ち、誰に頼まれたわけでもなく書き続けている。
「わたし」を意味するために、「我」でも「私」でもなく「吾(ワレ)」というあまり使われない文字を使うことにした。それは直感的なもので特に意味を探したことはなかった。

白川静先生の本の中に「吾」という言葉の由来が書いてあり、驚いた。

「吾」の上の字形「五」は、木を斜めに交差させた蓋の形。
交差した木の蓋で「口」(サイ)を守るのが「吾」。
「吾」のもともとの意味は「まもる」ことだった。
神聖な言葉を守ること。

ちなみに、文字の音だけを借りて元々と違う意味で使うことを「仮借(かしゃく)」と言うが、「吾」も「五」も仮借。本来の図形的な意味とは違う形で現在は用いられているようだ。


「言」は「辛(しん)」と「口(サイ)」を合わせた形で、「辛」は入れ墨用の鋭い針のこと。
言葉に偽りがあると、入れ墨の刑に服する。それくらいの覚悟で神に対して言葉を使うことが「言」だった。
今は言葉の力が軽んじられ、そこまでの覚悟を持って言葉を発することがなくなっている。


「語」は「言」+「吾」。
攻撃的な「言」の意味を守るように、自分を守るように使うのが「語」であり、「語る」こと。

「話」は「言」+「舌」。
「舌」は「口(サイ)」と、その上にある鋭い刃物の形を意味した。
「話す」ことも、神聖な言霊である「口(サイ)」を刃物で切り刻む可能性があり、それくらい慎重に「話す」必要がある。
「言」は人を打撃したり中傷したり呪詛することもできるが、同時に自分を切り刻むこともある諸刃の剣でもある。
それくらいの覚悟で「言い」「話し」「語る」必要があるのだろう。




先日書いた内容と何か不思議にリンクしたので思わず書いた。
白川静先生の本は、インターネットで言葉の質がわからなくなった今まさに重要な気がしている。
→○ことばの力(2016-08-25)



47NEWSの「漢字物語」<(70)「五」 木を斜めに交差させた蓋>より。(文章 小山鉄郎さん、イラスト はまむらゆうさん)(このサイトは本当に素晴らしく、勉強になる!)

<参考>

白川静「常用字解 第二版」(平凡社)2012/10/27
白川静「漢字―生い立ちとその背景」(岩波新書)1970/4/25
松岡正剛「白川静 漢字の世界観」(平凡社新書)2008/11/15
小山鉄郎「白川静さんに学ぶ漢字は怖い」(新潮文庫)2012/1/28

<参考ブログ>
遊ぶ(2015-10-31)
山本史也、白川静「神さまがくれた漢字たち」(2012-12-09)
「中国 王朝の至宝」東京国立博物館(2012-11-30)


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白川静「漢字の世界」(東洋文庫)
『言はうけひであり、自己詛盟(そめい)であり、神に誓約することばである。
それは自己の清明を主張し、対者に対抗するという攻撃的な姿勢を持つ。
これに対して語は、いわば防御的な言葉であるといえよう。』
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白川静「漢字百話」(中公新書)
『文は記号の総体である。
内なるものが外にあらわれるものをいう。
その限定的用法が文字である。
文字は、ことばの呪能をそこに定着するものであり、書かれた文字は呪能をもつものとされた。』
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