うらくつれづれ

折に触れて考えたこと ごまめの歯軋りですが

反ポピュリズム論と権力

2012-09-05 19:01:34 | 政治・行政

読売新聞の渡辺恒夫が反ポピュリズム論を書いたという。本を買う気も湧かないので、アマゾンの書評を読んでみた。
小選挙区の導入によって信念をもった政治家がいなくなり、橋下大阪市長などの大衆受けする小物政治家が跋扈し、国を破滅に追いやっているという趣旨のようだ。自民党時代、権力ブローカーとして、派閥リーダーの調整に精をだしたことも書いてあるそうな。思うに、大衆ではなく、エリートが大衆の意向と見関係に国を引っ張っていくべきと考えているのだろう。
渡辺は、元共産党だった。転向して、新聞記者になった。
共産党では、共産党員が前衛として権力を握り、大衆を指導するものとされる。大衆は単に権力者の指導に従うべきものだ。現に、チャイナではそれが現実だ。新聞は、チャイナ政府の動きを報じるが、それらは虚構だ。裏ですべて共産党がコントロールしている。政府の役人も、単なる操り人形にすぎない。
この共産党の前衛思想は、渡辺が反ポピュリズム論で主張していることと全く同じだろう。渡辺は、転向したということだが、実はまったく転向していない。国は、エリートが指導し、大衆は従えばいい。エリートは、大衆に迎合してはいけない。そして、渡辺は、エリート間の権力ブローカーとして君臨してきた。
権力とは何か。日本のメディアで普通に使われるのは、民衆とは遠いところにあって民衆を抑圧する装置という考えだ。その概念は、共産党や渡辺の、無知な民衆を導くものというエリート思想と整合する。日本のメディアは、共産党の権力概念を採用しているのだ。
欧米の民主国家では、独裁国家の権力に対する場合を除いてこんな使い方はしない。民主主義国家では、権力は民衆にある。自己で自己を律する、その表れが権力だ。自治の精神を体現する装置が国家権力であり、民衆自身だ。権力を行使する人間は、民衆の権利を代行する道具にすぎない。権力の私物化は、厳しく糾弾される。道具は、道具に留まらなければならない。
共産党をはじめとする左翼の人間には、エリートは権力を思うまま自由に行使すべきものと考える。福島原発事故対処にあたり、民主党は、うその情報を流し続け、国民を騙し続けた。その背景にあるのが、全共闘くずれの仙石や枝野の権力概念だ。権力は万能であり、一旦権力を奪取すればなにをやってもいいと考える。まさに、左翼の反民主義権力概念だ。
残念だが、大新聞社をバックに渡辺の著書のようなものが世に出る事自体、日本が如何に民主主義を理解していないかの証拠だろう。
小生は、ポピュリズム結構だと思う。大衆を信じ運命を共にすべきだと思う。大衆も、エリートと同じく、間違いはするだろう。しかし、間違えることが重要だ。間違えば、自分に火の粉がふりかかる。これを体験することが、民主主義の成熟の不可欠のプロセスだ。何回でも誤り痛い目をすればいい。それが学習というものだ。
日本でこの学習プロセスの障害となっているのが、民意を反映しにくい政治制度だろう。もっともわかりやすい制度は、首相公選制だろう。みんなで、リーダーを直接選ぶ、これなら、間違ったかどうかすぐわかる。次は、間違わないように考える。
しかし、残念ながら日本の現行制度では、自らの国のリーダーを、直接選ぶころができない。菅や鳩山のような人間の屑(両者とも無能だけなら単にお粗末という言葉がふさわしい。しかし、後のいなおりを考えれば屑と評すべきだろう。)を総理に選んだ責任は誰にあるか。国民に全責任を負わせるのは無理がある。しいて言えば、制度という猫があり、その制度に鈴をつける人間がいないという事態が問題だろう。現状では、学習のしようがないのだ。いざ出よ、猫に首をつけるポピュリスト!
渡辺がこの本を著したのは、小選挙区制で、自分の活躍余地がなくなってしまったことへの憤激だろう。渡辺は時代に取り残されて者として退場すべきだ。

日本のエネルギー政策

2012-09-05 18:59:13 | 経済

政府が新たな原発政策をまとめるそうだ。再生エネルギーの促進による脱原発の方向だろう。しかし、これは、僥倖に期待しておろかな大東亜戦争に突入した戦前の指導者の決定に似ている。仙石元官房長官が認めるように、再生エネルギーの技術革新を根拠なく見込んでいるからだ。
エネルギーは、国家の消長を左右する。古代隆盛を極めたギリシャの衰退の原因は、周辺の気候変動と伐採による木材というエネルギー源の枯渇によることが明らかになっている。江戸時代までの日本の世界史上稀にみる自然な歴史進歩も、豊富な木材に支えられたエネルギー供給が前提としてこそ可能だった。そして、近代には、石炭により産業基盤を整備した。石油が資源の大部分を占めるようになったのは、戦後30年代以降のことにすぎない。
戦後、パックス・アメリカーナの下、石油は無限に輸入できる資源として認識され、脱石炭が進んだ。いま、パックス・アメリカーナは終わりつつある。石油は、世界的に偏在し、世界が不安定化するなかで、安全保障上のリスクがある。さらに、資源国によるレント獲得リスクも無視できない。アメリカ自身、自国のエネルギー供給を優先し、輸出を規制している。エネルギーの安定供給は、日本の将来に不可欠だ。
しかし、いままでのこの恵まれたエネルギー環境を、残念ながら日本人は認識していないようだ。それは、まるで、何もしなければ日本と世界は平和になると根拠なく信じている一部の極楽トンボの認識を同じだろう。エネルギーも平和も努力なしに獲得できるものではない。
エネルギーは、単なる生活の便利性だけにかかわるものではない。国民の将来に関わるものだ。エネルギーの供給不安は、生活のさまざまな側面に影響を与えるが、とりわけ深刻なのは、経済への悪影響だろう。現在、日本は、20年にわたる日銀のデフレ政策のおかげで、産業崩壊の淵にある。組み立て型電気産業が破綻しつつあるが、今はまだ命脈を保っている部品や素材産業への波及は不可避だろう。その趨勢に拍車をかけるのが、高価で不安定なエネルギー供給だろう。安定したエネルギー供給とデフレ脱却は、日本経済復活のための二つの必要条件だ。逆に、その条件が満たされなければ、遠からず、我が列島は、失業者で溢れかえることになろう。
脱原発論者は、再生可能エネルギーで、原発に代替できるとする。しかし、この想定はお粗末だ。いま、政府の太陽光発電の電力会社買取制度が開始されたが、今年の買い取り価格は、42円/KWH。これに対し、原発、火力の発電コストは、10円と言われる。太陽光発電が進めば進む程、電力価格があがる。それに耐え切れず、見直しを迫られたのが欧州だ。日本でも、電力価格4倍には国民は耐えられないだろう。消費増税の比ではない。しかし、コストの問題以前に量的に太陽光、風力、水力は供給の絶対量が不足だ。
では、火力は切り札となるか。なりうるが、それには、京都議定書を離脱する必要があるだろう。ガス・タービン発電では、二酸化炭素排出量は半減するとされるが、それでも排出することには変わりない。もし、火力優先の政策を取るなら、京都議定書脱退とセットでなければならない。なお、京都議定書は、アメリカ、オーストラリアは不参加。最近カナダが脱退した。先進国の参加者は欧州と日本だけ。実質上は、欧州システムと化しているので、小生は脱退賛成だ。別途、日本は、国内で炭素税を課して、排出量をおさえるとともに、その税収で国内で省エネルギーや代替エネルギーも技術開発を促進すればいい。なにもチャイナから排出権を購入する必要はないだろう。
福島原発の事故を受け、国民はパニック状態だ。反原発世論が、半数近くだという。しかし、この事故で死者は発生してない。原発汚染も、将来の内部被爆など、不透明要因はあるが、自然放射能が20ミリシーベルト以上の地で、普通の生活をしている人々がいることを考えれば致命的とはいえないだろう。自然放射能の世界平均値は、2,4ミリシーベルトだという。
終戦後、日本人は戦争を恐れるあまり、自分さえ戦争のことを考えなければ世界は平和になるとして思考停止状態におちいった。反原発世論をみていると、まさに同じ過ちを繰り返しているようだ。ちょっと前には、原発は、二酸化炭素を出さないクリーンなエネルギーとして促進が国策だった。原発事故対応はお粗末に過ぎたが、その教訓は今後の安全対策に生かすべきだろう。
原発な安全ではなく危険だ。いくら安全策をとっても、例えば隕石の直撃には耐えられない。しかし、考えてみれば、世の中に絶対安全などというものは存在しない。危険なものとどうやって折り合いを付けていくか、これが我々が甘受しなければ宿命だろう。自動者事故で、毎年5千人死亡する。しかし、誰も自動車を禁止しようとは言わない。
科学的合理性をもって考えれば、昼夜の別なく必要なベース・ロード電力を原子力でまかない、その他は火力というのが合理的だ。その他エネルギーは、可能な限り促進するが、うまくいけばもっけもの程度の話だろう。間違っても、不確実な代替エネルギーの技術革新を前提に政策をたてるべきでない。