読売新聞の渡辺恒夫が反ポピュリズム論を書いたという。本を買う気も湧かないので、アマゾンの書評を読んでみた。
小選挙区の導入によって信念をもった政治家がいなくなり、橋下大阪市長などの大衆受けする小物政治家が跋扈し、国を破滅に追いやっているという趣旨のようだ。自民党時代、権力ブローカーとして、派閥リーダーの調整に精をだしたことも書いてあるそうな。思うに、大衆ではなく、エリートが大衆の意向と見関係に国を引っ張っていくべきと考えているのだろう。
渡辺は、元共産党だった。転向して、新聞記者になった。
共産党では、共産党員が前衛として権力を握り、大衆を指導するものとされる。大衆は単に権力者の指導に従うべきものだ。現に、チャイナではそれが現実だ。新聞は、チャイナ政府の動きを報じるが、それらは虚構だ。裏ですべて共産党がコントロールしている。政府の役人も、単なる操り人形にすぎない。
この共産党の前衛思想は、渡辺が反ポピュリズム論で主張していることと全く同じだろう。渡辺は、転向したということだが、実はまったく転向していない。国は、エリートが指導し、大衆は従えばいい。エリートは、大衆に迎合してはいけない。そして、渡辺は、エリート間の権力ブローカーとして君臨してきた。
権力とは何か。日本のメディアで普通に使われるのは、民衆とは遠いところにあって民衆を抑圧する装置という考えだ。その概念は、共産党や渡辺の、無知な民衆を導くものというエリート思想と整合する。日本のメディアは、共産党の権力概念を採用しているのだ。
欧米の民主国家では、独裁国家の権力に対する場合を除いてこんな使い方はしない。民主主義国家では、権力は民衆にある。自己で自己を律する、その表れが権力だ。自治の精神を体現する装置が国家権力であり、民衆自身だ。権力を行使する人間は、民衆の権利を代行する道具にすぎない。権力の私物化は、厳しく糾弾される。道具は、道具に留まらなければならない。
共産党をはじめとする左翼の人間には、エリートは権力を思うまま自由に行使すべきものと考える。福島原発事故対処にあたり、民主党は、うその情報を流し続け、国民を騙し続けた。その背景にあるのが、全共闘くずれの仙石や枝野の権力概念だ。権力は万能であり、一旦権力を奪取すればなにをやってもいいと考える。まさに、左翼の反民主義権力概念だ。
残念だが、大新聞社をバックに渡辺の著書のようなものが世に出る事自体、日本が如何に民主主義を理解していないかの証拠だろう。
小生は、ポピュリズム結構だと思う。大衆を信じ運命を共にすべきだと思う。大衆も、エリートと同じく、間違いはするだろう。しかし、間違えることが重要だ。間違えば、自分に火の粉がふりかかる。これを体験することが、民主主義の成熟の不可欠のプロセスだ。何回でも誤り痛い目をすればいい。それが学習というものだ。
日本でこの学習プロセスの障害となっているのが、民意を反映しにくい政治制度だろう。もっともわかりやすい制度は、首相公選制だろう。みんなで、リーダーを直接選ぶ、これなら、間違ったかどうかすぐわかる。次は、間違わないように考える。
しかし、残念ながら日本の現行制度では、自らの国のリーダーを、直接選ぶころができない。菅や鳩山のような人間の屑(両者とも無能だけなら単にお粗末という言葉がふさわしい。しかし、後のいなおりを考えれば屑と評すべきだろう。)を総理に選んだ責任は誰にあるか。国民に全責任を負わせるのは無理がある。しいて言えば、制度という猫があり、その制度に鈴をつける人間がいないという事態が問題だろう。現状では、学習のしようがないのだ。いざ出よ、猫に首をつけるポピュリスト!
渡辺がこの本を著したのは、小選挙区制で、自分の活躍余地がなくなってしまったことへの憤激だろう。渡辺は時代に取り残されて者として退場すべきだ。