日本中が期待したノーベル平和賞は残念な結果になった。
落胆した人も多いと思うが、
ここは素直にチュニジアで13年にイスラム政党と世俗派の対立解消に貢献した
国内の4団体からなる「国民対話カルテット」を祝福したい。
「チュニジアで2010年12月に路上で果物を無許可で販売していた若者が
女性警官に摘発され、抗議の焼身自殺をしたことを機に反政府デモが拡大、
11年1月に長期独裁政権の崩壊につながり、
中東や北アフリカに飛び火した民主化要求運動。
ツイッターなどでデモが呼び掛けられた。
エジプトやリビア、イエメンでも強権的な長期政権が倒れたが、
政情は安定せず、「チュニジアが唯一の成功例」とも云われた。」
ー毎日新聞 10月9日(金)18時35分配信 ー
11年の「ジャスミン革命」以降、唯一の成功例といわれる
チュニジアの取り組みは、決して偶然ではない。
飛び火した他の国々との違いは、
教育レベルの違いと
民主化へのプロセス手段を知っている点にあると私は思う。
「国民対話カルテット」はチュニジア最大の労働組合である
労働総同盟(UGTT)を中心に人権擁護連盟、
工業商業手工業連盟(UTICA)、
全国弁護士会の4団体(カルテット)で13年に結成した。
これらの異なる団体がイスラム宗教勢力と
世俗勢力の対立融和のため、大同団結して事にあたったのが
大きな功績として国際社会で高く評価され認められたのだ。
独裁政権打倒後、混沌とした社会情勢を治め、
民主化プロセスを達成できた要因は、
先に挙げたふたつの条件の他、
・民主先進国であるヨーロッパ諸国に地理的に比較的近く、
影響を受けやすい。
・古代の歴史の教訓が身近に遺跡として残り、その経験・知識が
長い間そこに住む民族の血に脈々と受け継がれてきた事。
も要因かもしれない。
チュニジアの首都チュニス近郊には
古代遺跡『カルタゴ』の破壊された都市の跡がある。
今から2、200年前後も昔の攻防戦。
カルタゴとローマの死闘は、
第一~第三ポエニ戦役として歴史に残る。
特に第二戦役で活躍した『ハンニバル』の天才的戦略。
後にスキピオが登場するまでは連戦連勝だった。
一時はローマ市内近郊まで迫り、著しく疲弊させ、
もしかしたら世界史を変えていたかもしれない程の戦績を挙げた。
でも結局最後はローマ軍に『ザマの決戦』で惨敗し、
ハンニバルは敗走、マケドニアで殺された。
そして残されたカルタゴ市も
第三戦役で滅ぼされてしまった。
カルタゴ市の目の前で英雄が敗れる姿を見て、
どんな思いだったろう。
でも紀元前202年のザマの決戦から
紀元前149年の第三戦役まで53年間もの期間が必要な程
ローマを疲弊させ追いつめたハンニバルは凄いと思う。
話が横道に逸れたが、
その後カルタゴは徹底的に破壊され、
市民は奴隷にされてしまった。
カルタゴの遺跡はそんな悲しい過去の教訓を今に伝えているのである。
ポエニ戦役が始まる以前までは
一都市国家に過ぎなかったローマが
次々に近郊諸都市を征服しながら、
古代ギリシャの民主制に習いつつ、独自の共和制を敷き、
身分制度や政治機関や軍制を整えたのがローマの勝因だと思う。
準備万端のローマ。
旧態然とした政治体制の植民市『カルタゴ』に住むフェニキア人。
古代から続いていた故郷の同胞の国が遥か昔に滅ばされ、
当時未開だったスペインの地に、ハンニバルの父「ハミニカル・バルカス」
が新たに開拓して得た『カルタゴノヴァ』も滅ぼされ、
カルタゴ市民たちは海の向こうにいったい何を見ていたのか?
やがて自らも滅ぼされる恐怖は感じなかったのだろうか?
現在のチュニジアに住む人々と民族が異なると思うが、
そんな悲しい遺跡を前にして
何も感じない筈は無い。
地中海と云う、海の向こうにある現在の先進の政治を掲げたヨーロッパ諸国。
そこに何を見ていたのか?
民主主義による公平な教育機会の確保。
自由な言論を保証した社会体制。
成熟した政治を維持するために必要な中間階層の拡充。
それらの実現こそが自国に求められる理想社会だと
誰もが感じていたはず。
残念ながら他のジャスミン革命の国々は追従出来なかった。
特にシリアは中間層が割と充実し、教育水準も高かっただけに、
アサド政権の往生際の悪さは痛恨の極みである。
チュニジアもまだまだ完成の域には達していないが、
決して頻発するテロに屈する事無く、理想の完成に向けて
国民一丸となり頑張って欲しい。
遠い昔のあの世からハンニバルも見ている事だろう。
そんな平和賞に思いを馳せながらも、
ハワイ以外一度も日本から出た事のないオヤジが二句。
平和賞 遺跡で見たい ハンニバル
祝杯を 揚げたいけれど 戒律が・・・・。
お粗末。
落胆した人も多いと思うが、
ここは素直にチュニジアで13年にイスラム政党と世俗派の対立解消に貢献した
国内の4団体からなる「国民対話カルテット」を祝福したい。
「チュニジアで2010年12月に路上で果物を無許可で販売していた若者が
女性警官に摘発され、抗議の焼身自殺をしたことを機に反政府デモが拡大、
11年1月に長期独裁政権の崩壊につながり、
中東や北アフリカに飛び火した民主化要求運動。
ツイッターなどでデモが呼び掛けられた。
エジプトやリビア、イエメンでも強権的な長期政権が倒れたが、
政情は安定せず、「チュニジアが唯一の成功例」とも云われた。」
ー毎日新聞 10月9日(金)18時35分配信 ー
11年の「ジャスミン革命」以降、唯一の成功例といわれる
チュニジアの取り組みは、決して偶然ではない。
飛び火した他の国々との違いは、
教育レベルの違いと
民主化へのプロセス手段を知っている点にあると私は思う。
「国民対話カルテット」はチュニジア最大の労働組合である
労働総同盟(UGTT)を中心に人権擁護連盟、
工業商業手工業連盟(UTICA)、
全国弁護士会の4団体(カルテット)で13年に結成した。
これらの異なる団体がイスラム宗教勢力と
世俗勢力の対立融和のため、大同団結して事にあたったのが
大きな功績として国際社会で高く評価され認められたのだ。
独裁政権打倒後、混沌とした社会情勢を治め、
民主化プロセスを達成できた要因は、
先に挙げたふたつの条件の他、
・民主先進国であるヨーロッパ諸国に地理的に比較的近く、
影響を受けやすい。
・古代の歴史の教訓が身近に遺跡として残り、その経験・知識が
長い間そこに住む民族の血に脈々と受け継がれてきた事。
も要因かもしれない。
チュニジアの首都チュニス近郊には
古代遺跡『カルタゴ』の破壊された都市の跡がある。
今から2、200年前後も昔の攻防戦。
カルタゴとローマの死闘は、
第一~第三ポエニ戦役として歴史に残る。
特に第二戦役で活躍した『ハンニバル』の天才的戦略。
後にスキピオが登場するまでは連戦連勝だった。
一時はローマ市内近郊まで迫り、著しく疲弊させ、
もしかしたら世界史を変えていたかもしれない程の戦績を挙げた。
でも結局最後はローマ軍に『ザマの決戦』で惨敗し、
ハンニバルは敗走、マケドニアで殺された。
そして残されたカルタゴ市も
第三戦役で滅ぼされてしまった。
カルタゴ市の目の前で英雄が敗れる姿を見て、
どんな思いだったろう。
でも紀元前202年のザマの決戦から
紀元前149年の第三戦役まで53年間もの期間が必要な程
ローマを疲弊させ追いつめたハンニバルは凄いと思う。
話が横道に逸れたが、
その後カルタゴは徹底的に破壊され、
市民は奴隷にされてしまった。
カルタゴの遺跡はそんな悲しい過去の教訓を今に伝えているのである。
ポエニ戦役が始まる以前までは
一都市国家に過ぎなかったローマが
次々に近郊諸都市を征服しながら、
古代ギリシャの民主制に習いつつ、独自の共和制を敷き、
身分制度や政治機関や軍制を整えたのがローマの勝因だと思う。
準備万端のローマ。
旧態然とした政治体制の植民市『カルタゴ』に住むフェニキア人。
古代から続いていた故郷の同胞の国が遥か昔に滅ばされ、
当時未開だったスペインの地に、ハンニバルの父「ハミニカル・バルカス」
が新たに開拓して得た『カルタゴノヴァ』も滅ぼされ、
カルタゴ市民たちは海の向こうにいったい何を見ていたのか?
やがて自らも滅ぼされる恐怖は感じなかったのだろうか?
現在のチュニジアに住む人々と民族が異なると思うが、
そんな悲しい遺跡を前にして
何も感じない筈は無い。
地中海と云う、海の向こうにある現在の先進の政治を掲げたヨーロッパ諸国。
そこに何を見ていたのか?
民主主義による公平な教育機会の確保。
自由な言論を保証した社会体制。
成熟した政治を維持するために必要な中間階層の拡充。
それらの実現こそが自国に求められる理想社会だと
誰もが感じていたはず。
残念ながら他のジャスミン革命の国々は追従出来なかった。
特にシリアは中間層が割と充実し、教育水準も高かっただけに、
アサド政権の往生際の悪さは痛恨の極みである。
チュニジアもまだまだ完成の域には達していないが、
決して頻発するテロに屈する事無く、理想の完成に向けて
国民一丸となり頑張って欲しい。
遠い昔のあの世からハンニバルも見ている事だろう。
そんな平和賞に思いを馳せながらも、
ハワイ以外一度も日本から出た事のないオヤジが二句。
平和賞 遺跡で見たい ハンニバル
祝杯を 揚げたいけれど 戒律が・・・・。
お粗末。