宇野ルーツだより

ご先祖のルーツを探す旅

獣ルネサンス

2011-04-25 20:42:55 | 日記
  雨が降ったり止んだりの、はっきりしない天気が続いています。こんな時には
 気も滅入りますが、冬に向かっているわけではなく、春が確実に近づいていると思えば、
 元気も出ます。宇野ゆかりの皆さま、それぞれの春はいかがでしょうか?

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                獣ルネサンス

    いつからだろう、「地球が暖かくなっている」と、騒がれ出したのは
    平均15℃という快適な環境が失われていく・・・本当か!?
    ある学者は言う「犯人はCO2だ、証拠がある」
    「このままだと、極の氷が解けて島が水没する」危機感を煽った
    別の学者が言う「何の根拠もない、むしろ冷えている」
    「長い目で見て、今の環境の存在自体が奇跡だ」持論を展開した
    歴史認識がぶつかる、真実はどこにあるのか・・・

    学者たちの論争に、利権に敏感な政治家たちが反応し
    世界の目は、犯罪者を生み出すシステムに注がれた
    「これ以上、放置するわけにはいかない」
    北の国々が提案する「みな、太古の死骸の利用をつつしむように」と
    南の国々が反論する「さんざん使っておいて、勝手なことを言うな」
    「まず、古い国々が範を示すべきだ」と

    大人どうしの言い争いが続く中、ひとりの少女が核心をつく

     どうやって直すか分からないものを、もう壊すのはやめてほしいの
     森が失われ、たくさんの生き物が、消えていっているでしょう
     大人たちは、子どもにするなということを、なぜしているの
     争いはやめよう、話し合いで解決しよう、他人を尊重しよう
     散らかしたら自分で片付けなさい、生き物を傷つけてはいけません
     みんなで分かち合うのです、そして欲張らないこと・・・
     いつも、そう言っている、あなたがたは、
     リーダーである前に、ひとりの親なのです、未来ある子どもたちの

    静まり返ったサミット会場に英語のスピーチが響きわたった

    だが、その静寂もつかの間、大人たちは現実に立ち返る
    「だいじょうぶよ、心配しないで」
    「できるだけのことはしているから」
    12歳の少女の心の叫びの結晶は、ゆっくり流されて沈殿し
    いつしか伝説になっていった、地下深くのダイヤの原石のように
    「また、俺たちの出番だな」その同じ暗闇で
    その獣は、静かに苦笑を浮かべていた、怪しく青白く輝きながら・・・

                         (宇野誠一郎、つづく)

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   はっきりしない空模様の中でも、エゾエンゴサクの花が、わずかに
   咲き始めました。円山のふもとです。これから5月上旬にかけて一面青くなる
   ことでしょう。楽しみです。キャンディーズの田中好子さんの訃報、驚きました。
   まだ若いのに、病に耐えての最期の肉声テープ、被災者や周りの関係者への
   思い遣りに涙が止まりませんでした。みなさん、生きる勇気をもらったのでは
   ないでしょうか、彼女の分まで。

    


    



怪しく光る獣

2011-04-20 20:12:14 | 日記
  晴れましたが、気温は上がらず12℃止まり。オホーツク海側では3℃
 という所もあったようです。三寒四温でしょうか、まだまだ気を許せない寒さが
 ありそうです。宇野ゆかりの皆さま、どうぞ体調管理にお気をつけください。


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                 怪しく光る獣

     3月26日、その獣は誕生日を迎えるはずだった、40歳の
     この種の生物としては、異例の長寿だった
     彼は、ひそかに願っていた、古くなった檻の中で
     「もう、じゅうぶんに役に立ったはずだ、早く天寿を全うしたい」
     「やすらかに眠らせてくれ、そうしないと大変なことになる」
     だが、一部の人々の見方は違った
     「あと10年は長生きできるはずだ」
     体には、いくつもの管が付けられ、無理な延命措置が施された

     その獣は、多少の揺れやストレスには慣れていたし
     多少の海水を浴びても平気なはずだったが
     さすがに、今回は、初めての経験だった
     その老体には、持ちこたえる体力は残っていなかった

     おとなしくさせていたはずの、水が失われ
     本性が、むきだしになっていく、ゆっくりと
     燃えた体は、灰となり、まき散らされていく
     空へ海へと・・・地表に降り積み、海底に沈む
     その獣が、死の瀬戸際でつぶやく
     「こんな最期は、のぞんでいなかったのに・・・」

     その獣は、何億年も知られずに、ずっと眠っていた、古い大陸で
     一見、何の変哲もなく、他の生物と変わらない姿に見えたが
     まったく違う点があった、闇の中で青白く、怪しく光ったのだ
     その光に魅せられた一人の研究者がいた、若くて美しい女性が
     徹底して調べ上げ、不治の病に効力があることを見つけたが
     その光は、彼女の体を蝕みつづけ、闇の中に引きずりこんだ

     その獣は、頑丈な檻に閉じ込められて運ばれた、新しい大陸へ
     一体、その青い光は何なのか・・・世界中から学者が集められた
     ある者は、純粋な研究心に燃えて
     ある者は、莫大な研究費につられて
     それは、毒なのか、薬なのか・・・
     激しい論争の末の、政治的結論
     「毒ではあるが、薬として利用することは可能だ」
     「われわれの科学力をもってすれば、恐れるに足らない」
     「これは、人類の繁栄につながる、明るい未来が待っている」
     
     その獣は、檻の中で静かに聞いていた、怪しく青白く輝きながら・・・

                            (宇野誠一郎、つづく)


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  先日、円山のふもとを歩きました。所々に雪が残り、春の花ざかりとは
 いきませんでしたが、それでもエンレイソウやエゾエンゴサクがわずかに咲いて
 いました。今月末には満開になりそうで楽しみです。波にさらわれた東北の海岸
 にも花が咲いて、春の気配のようですね。皆さま、少しづつでも、何気ない日常が
 戻りますよう願っています。
 













     
     

山頭火の妻

2011-04-14 22:39:56 | 日記
  晴れて、15℃まで上がり、暖かくなりました。植物たちも、のびのびしています。 
 いよいよ春本番ですね。宇野ゆかりの皆さま、お元気でしょうか?

 種田山頭火、言わずとも知れた自由律俳句の巨人です。その生涯を調べていて、
 熊本と深い縁があることを改めて認識しました。また、その「放浪・孤高の俳人」
 というイメージとは違う側面があったことも驚きでした。その側面が表題の本で
 紹介されています。山頭火の妻の側から掘り下げて考察した名著と思います。

 「昭和43年7月27日、午後7時35分ごろ、熊本市大江町渡鹿の県道で、産交バスが
 老女をひいた。左足骨折で3か月の重傷。佐藤咲野、79歳」という記事が地元新聞に
 載ったといいます。この老女が、山頭火の元・妻であったことを知る人は、ほとんど
 いませんでした。

 山口の実家の破産で、山頭火一家が熊本市に移住し、「雅楽多」という古書籍店を
 下通に開いたのは、大正5年のことでした。山頭火35歳、咲野28歳、一人息子の健が
 7歳の時のことです。当初は落ち着いて店の主人として商売に精を出していた山頭火
 でしたが、しだいに店は咲野にまかせるようになり、酒と放浪の人生を歩むことに
 なりました。その原因は、子供の頃の母の自死、祖母の溺愛、結婚、父親になった
 ことなど、さまざま挙げられていますが、人生の時間の流れとともに、次々と煩悩が
 生み出されたのかもしれません。

 山頭火は、明治15年、咲野は明治22年生まれで、宇野貞誠夫妻とほぼ同時代を生きた
 ことにも惹かれました。もちろん直接の接点はなかったでしょうが、下通にあったという
 古書籍店、山頭火が出家得度した坪井の報恩禅寺、堂守となった鹿本郡の村の味取観音、
 息子を進学させた済々黌、放浪先であった延岡、酒田などなど、宇野家ゆかりの地が
 たくさん登場して、親近感を覚えました。山頭火、昭和15年10月11日未明、逝去、59歳。
 その後も咲野は長生きし、昭和43年9月25日(日付に別説あり)に80歳で亡くなりました。
 山頭火亡き後、評価が高まっていく元夫を、元妻は、どう思って生きたのでしょう。
 最後まで、酒を手に放浪しては、たびたび熊本に戻ってくる「ダメ亭主」だったのでしょうか。

           阿蘇がなつかしいりんだうの花 (山頭火)

 地名を詠み込んだ句は珍しいのではないでしょうか。 それだけ熊本や妻への思いが
 強かったのかもしれません。

    参考:山田啓代(やまだみちよ)著「山頭火の妻」読売新聞社、1994

  先日、開拓記念館(野幌)を訪れた際に目にしたポスターです。大震災の影響が、
  こんなところにもでているんですね。国宝の移動にはリスクが大き過ぎるとのことでした。
  イベントなどの自粛が続いていますが、被災者の心情に寄り添った行事は構わないのでは
  と思います。深い悲しみは、単に「頑張れ」では消えないでしょう。やはり時間が必要です。
  「休め東北、落ち着け首都、そして頑張れ北海道、西日本!」ではないでしょうか。

大震災への備え

2011-04-11 19:33:11 | 日記
  平地では、ほとんど雪が消え、やっと春の気配となりました。例年並みの
 積雪量でしたが、3月のまとまった降雪のため、日蔭や山沿いでは、まだ解け残りが目立ちます。
 宇野ゆかりの皆さま、いかがお過ごしでしょうか?

 大きな悲しみから早くも1か月。ケタ違いの被災者の数もさることながら、いまだに15万人余の
 方々が避難生活を余儀なくされている現実にも驚かされます。さまざまな理由があるのでしょうが、
 仮であっても一刻も早く安全・安心な生活ができる環境が整うことを望みます。

 大正12年9月1日正午前に発生した大地震は、関東大震災を引き起こしました。揺れや津波による
 被害に比べると、地震後の火災による被害が大きかったことが分かっています。この時代の防災
 対策は、どうなっていたのでしょうか。発災時に警視庁消防部長であった緒方惟一郎氏の仕事に、
 その一端を見ることができます。ご存じのように緒方氏は、宇野キツさんの弟です。

 緒方氏が消防部長になったのは、大正4年でした。まだ自動車の普及が進んでいない時代、馬車が
 ひく「消防車」が中心でしたが、緒方氏は、大正6年にアメリカから大型ポンプ自動車を購入する
 ことにしました。ラフラン社製の8人乗り、放水距離39m、時速80km。せまい路地には不適だとの
 意見もあったようですが、ひとまず首都に近代装備が導入されることになりました。

 緒方氏は、さらに火災報知機の設置を進めました。大正6年に東京報知機(株)の設立を指導し、
 大正9年4月16日、日本橋で24機が始動したようです。この火災報知機は、今と違って、街頭に
 設置されたものです。火災発生時に消防本部に通報できるしくみでした。また、大正10年には、
 欧米の消防事情を視察し、日本の消防の近代化をめざしました。

 しかし、関東大震災では、こうした近代化でも大きな被災を防ぐことはできませんでした。地震後の
 混乱の中での多数の火災の同時発生、消防本部自体の被災などの困難はあったでしょう。また、
 広域避難場所に集まった多数の人々を火炎が包み逃げ場を失ったという悲劇もあったようです。
 いざというときは役に立たなかった防災体制に大きな見直しが必要となりました。震災後、緒方氏は
 一時、青森県知事となりますが、その後「東京消防茶話会」の設立に加わり、日本の消防のあり方を
 模索していくことになります。

 行政が考えられる被災を想定して、防ぐ体制を構築していくことが第一ですが、それをふだんから
 住民に周知徹底する広報も大切です。自分の地域の広域避難場所は・・・? どこに逃げたらいい
 のかなど、意外と知らないことがあります。その一方で、個人のちょっとした判断で運命を分ける
 ということもあります。今回の大津波でも、避難場所に指定されていた施設が大きな被害を受けて
 犠牲になった例があった一方で、自分たちの目で見た判断で、さらに高台に避難して難を逃れたと
 いうこともありました。地元で「津波てんでんこ」と呼ばれていた訓えです。やはり周囲を客観的に
 見た冷静な判断・行動が必要なのでしょう。

  平地ではフクジュソウが満開になっています。近くの庭では、2輪が寄り添うように咲いていました。
  

大震災の訓え

2011-04-04 20:45:29 | 日記
  朝はマイナス4℃まで下がりましたが、陽が高くなるにつれて暖かくなり、
 春らしい一日となりました。熊本城では、桜が満開のようですね。関東でも
 そろそろでしょうね。宇野ゆかりの皆さま、いかがお過ごしでしょうか?

 4月になって、瓦礫の撤去、港の修復、仮設住宅の建設など、まだまだ不十分で
 しょうが、復興への歩みが始まりました。その一方で、原発事故の終息の目途は
 立たず、被災地の明るい未来が描けない状況です。この違いは、何でしょうか。

 考えられるひとつは、天災と人災の違いにあるように思います。1000年に一度とも
 言われる大地震や大津波は、多くの尊い命を奪い、日本そして世界に悲しみを拡げ
 ました。しかし、1000年に一度ならば、その間に天災対策は可能でしょう。

 一方で、放射性物質の漏えいは、そうはいきません。特に、半減期が長い物質が
 拡散すると、食物連鎖による濃縮が進み、途方もなく長い期間の監視が必要と
 なり、いつまでも安心できません。対処の仕方を見ると、瀬戸際状態でしょう。

 現在進行形の原発事故。元々、自然界にわずかずつしか存在しないものを集めて
 濃縮し、反応させて利用し制御できるはずだという「科学の過信」が招いた人災です。
 いったん核分裂を始めた物質の反応を完全に止める手段を、私たちは知りません。
 「核のゴミ」は、微量であっても、長い期間、放射線を出し続けています。

 今回の大震災に際して「専門家」や関係者から、よく「想定外」という言葉が聞こえて
 きますが、果してそうでしょうか。自然のふるまいに「想定内」は、ありえません。
 天気予報ひとつ取っても、「想定外」はしばしばです。どこかに「想定できる」という
 驕りや騙しがなかったでしょうか。

 関東大震災では、地震や津波よりも、その後の火災で多くの犠牲が出ました。その
 大震災に際し、宇野家と縁があった小橋一太さんについて、次のようなエピソードが
 残されています。

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   関東大震災の2、3年前に、母が父に
   「女中さんたちが、井戸の手汲みポンプの長い柄が、洗濯の邪魔になるから
   取ってほしいと言っていますが・・・」と話したら、即座に父は、
   「もし停電したらモーターが止まり、屋上のタンクに水が揚げられなくなる。
   地震か何かのため、水道管が破裂したら完全に水が使用できなくなるから、
   手汲みポンプは非常用として保存しなさい。文明の利器は、平素は便利だが、
   天変地変には弱い・・・」         (小橋一雄「続・折ふしの記」より)

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 「父」とは、小橋一太氏のことです。この井戸を残しておいたことで、震災時に近所の
 人々も含めて、水に不自由することはなかったといいます。今回の大震災でも、わき水、
 井戸、小川の水に救われたという話を聞きました。集合住宅が多くなった都会だから
 こそ、広場にでも井戸のひとつやふたつ、残しておく価値はあるのではないでしょうか。
 
  大震災の余波はあるものの、直接的な被害はなかった札幌ですが、一時的に
 物資不足となりました。米もそのひとつでした。先日「ふっくりんこ」という名称の米を
 いただきましたが、美味でした。道産米もなかなかです。