宇野ルーツだより

ご先祖のルーツを探す旅

山頭火の妻

2011-04-14 22:39:56 | 日記
  晴れて、15℃まで上がり、暖かくなりました。植物たちも、のびのびしています。 
 いよいよ春本番ですね。宇野ゆかりの皆さま、お元気でしょうか?

 種田山頭火、言わずとも知れた自由律俳句の巨人です。その生涯を調べていて、
 熊本と深い縁があることを改めて認識しました。また、その「放浪・孤高の俳人」
 というイメージとは違う側面があったことも驚きでした。その側面が表題の本で
 紹介されています。山頭火の妻の側から掘り下げて考察した名著と思います。

 「昭和43年7月27日、午後7時35分ごろ、熊本市大江町渡鹿の県道で、産交バスが
 老女をひいた。左足骨折で3か月の重傷。佐藤咲野、79歳」という記事が地元新聞に
 載ったといいます。この老女が、山頭火の元・妻であったことを知る人は、ほとんど
 いませんでした。

 山口の実家の破産で、山頭火一家が熊本市に移住し、「雅楽多」という古書籍店を
 下通に開いたのは、大正5年のことでした。山頭火35歳、咲野28歳、一人息子の健が
 7歳の時のことです。当初は落ち着いて店の主人として商売に精を出していた山頭火
 でしたが、しだいに店は咲野にまかせるようになり、酒と放浪の人生を歩むことに
 なりました。その原因は、子供の頃の母の自死、祖母の溺愛、結婚、父親になった
 ことなど、さまざま挙げられていますが、人生の時間の流れとともに、次々と煩悩が
 生み出されたのかもしれません。

 山頭火は、明治15年、咲野は明治22年生まれで、宇野貞誠夫妻とほぼ同時代を生きた
 ことにも惹かれました。もちろん直接の接点はなかったでしょうが、下通にあったという
 古書籍店、山頭火が出家得度した坪井の報恩禅寺、堂守となった鹿本郡の村の味取観音、
 息子を進学させた済々黌、放浪先であった延岡、酒田などなど、宇野家ゆかりの地が
 たくさん登場して、親近感を覚えました。山頭火、昭和15年10月11日未明、逝去、59歳。
 その後も咲野は長生きし、昭和43年9月25日(日付に別説あり)に80歳で亡くなりました。
 山頭火亡き後、評価が高まっていく元夫を、元妻は、どう思って生きたのでしょう。
 最後まで、酒を手に放浪しては、たびたび熊本に戻ってくる「ダメ亭主」だったのでしょうか。

           阿蘇がなつかしいりんだうの花 (山頭火)

 地名を詠み込んだ句は珍しいのではないでしょうか。 それだけ熊本や妻への思いが
 強かったのかもしれません。

    参考:山田啓代(やまだみちよ)著「山頭火の妻」読売新聞社、1994

  先日、開拓記念館(野幌)を訪れた際に目にしたポスターです。大震災の影響が、
  こんなところにもでているんですね。国宝の移動にはリスクが大き過ぎるとのことでした。
  イベントなどの自粛が続いていますが、被災者の心情に寄り添った行事は構わないのでは
  と思います。深い悲しみは、単に「頑張れ」では消えないでしょう。やはり時間が必要です。
  「休め東北、落ち着け首都、そして頑張れ北海道、西日本!」ではないでしょうか。