晴れて、15℃まで上がり、暖かくなりました。植物たちも、のびのびしています。
いよいよ春本番ですね。宇野ゆかりの皆さま、お元気でしょうか?
種田山頭火、言わずとも知れた自由律俳句の巨人です。その生涯を調べていて、
熊本と深い縁があることを改めて認識しました。また、その「放浪・孤高の俳人」
というイメージとは違う側面があったことも驚きでした。その側面が表題の本で
紹介されています。山頭火の妻の側から掘り下げて考察した名著と思います。
「昭和43年7月27日、午後7時35分ごろ、熊本市大江町渡鹿の県道で、産交バスが
老女をひいた。左足骨折で3か月の重傷。佐藤咲野、79歳」という記事が地元新聞に
載ったといいます。この老女が、山頭火の元・妻であったことを知る人は、ほとんど
いませんでした。
山口の実家の破産で、山頭火一家が熊本市に移住し、「雅楽多」という古書籍店を
下通に開いたのは、大正5年のことでした。山頭火35歳、咲野28歳、一人息子の健が
7歳の時のことです。当初は落ち着いて店の主人として商売に精を出していた山頭火
でしたが、しだいに店は咲野にまかせるようになり、酒と放浪の人生を歩むことに
なりました。その原因は、子供の頃の母の自死、祖母の溺愛、結婚、父親になった
ことなど、さまざま挙げられていますが、人生の時間の流れとともに、次々と煩悩が
生み出されたのかもしれません。
山頭火は、明治15年、咲野は明治22年生まれで、宇野貞誠夫妻とほぼ同時代を生きた
ことにも惹かれました。もちろん直接の接点はなかったでしょうが、下通にあったという
古書籍店、山頭火が出家得度した坪井の報恩禅寺、堂守となった鹿本郡の村の味取観音、
息子を進学させた済々黌、放浪先であった延岡、酒田などなど、宇野家ゆかりの地が
たくさん登場して、親近感を覚えました。山頭火、昭和15年10月11日未明、逝去、59歳。
その後も咲野は長生きし、昭和43年9月25日(日付に別説あり)に80歳で亡くなりました。
山頭火亡き後、評価が高まっていく元夫を、元妻は、どう思って生きたのでしょう。
最後まで、酒を手に放浪しては、たびたび熊本に戻ってくる「ダメ亭主」だったのでしょうか。
阿蘇がなつかしいりんだうの花 (山頭火)
地名を詠み込んだ句は珍しいのではないでしょうか。 それだけ熊本や妻への思いが
強かったのかもしれません。
参考:山田啓代(やまだみちよ)著「山頭火の妻」読売新聞社、1994
先日、開拓記念館(野幌)を訪れた際に目にしたポスターです。大震災の影響が、
こんなところにもでているんですね。国宝の移動にはリスクが大き過ぎるとのことでした。
イベントなどの自粛が続いていますが、被災者の心情に寄り添った行事は構わないのでは
と思います。深い悲しみは、単に「頑張れ」では消えないでしょう。やはり時間が必要です。
「休め東北、落ち着け首都、そして頑張れ北海道、西日本!」ではないでしょうか。
いよいよ春本番ですね。宇野ゆかりの皆さま、お元気でしょうか?
種田山頭火、言わずとも知れた自由律俳句の巨人です。その生涯を調べていて、
熊本と深い縁があることを改めて認識しました。また、その「放浪・孤高の俳人」
というイメージとは違う側面があったことも驚きでした。その側面が表題の本で
紹介されています。山頭火の妻の側から掘り下げて考察した名著と思います。
「昭和43年7月27日、午後7時35分ごろ、熊本市大江町渡鹿の県道で、産交バスが
老女をひいた。左足骨折で3か月の重傷。佐藤咲野、79歳」という記事が地元新聞に
載ったといいます。この老女が、山頭火の元・妻であったことを知る人は、ほとんど
いませんでした。
山口の実家の破産で、山頭火一家が熊本市に移住し、「雅楽多」という古書籍店を
下通に開いたのは、大正5年のことでした。山頭火35歳、咲野28歳、一人息子の健が
7歳の時のことです。当初は落ち着いて店の主人として商売に精を出していた山頭火
でしたが、しだいに店は咲野にまかせるようになり、酒と放浪の人生を歩むことに
なりました。その原因は、子供の頃の母の自死、祖母の溺愛、結婚、父親になった
ことなど、さまざま挙げられていますが、人生の時間の流れとともに、次々と煩悩が
生み出されたのかもしれません。
山頭火は、明治15年、咲野は明治22年生まれで、宇野貞誠夫妻とほぼ同時代を生きた
ことにも惹かれました。もちろん直接の接点はなかったでしょうが、下通にあったという
古書籍店、山頭火が出家得度した坪井の報恩禅寺、堂守となった鹿本郡の村の味取観音、
息子を進学させた済々黌、放浪先であった延岡、酒田などなど、宇野家ゆかりの地が
たくさん登場して、親近感を覚えました。山頭火、昭和15年10月11日未明、逝去、59歳。
その後も咲野は長生きし、昭和43年9月25日(日付に別説あり)に80歳で亡くなりました。
山頭火亡き後、評価が高まっていく元夫を、元妻は、どう思って生きたのでしょう。
最後まで、酒を手に放浪しては、たびたび熊本に戻ってくる「ダメ亭主」だったのでしょうか。
阿蘇がなつかしいりんだうの花 (山頭火)
地名を詠み込んだ句は珍しいのではないでしょうか。 それだけ熊本や妻への思いが
強かったのかもしれません。
参考:山田啓代(やまだみちよ)著「山頭火の妻」読売新聞社、1994
先日、開拓記念館(野幌)を訪れた際に目にしたポスターです。大震災の影響が、
こんなところにもでているんですね。国宝の移動にはリスクが大き過ぎるとのことでした。
イベントなどの自粛が続いていますが、被災者の心情に寄り添った行事は構わないのでは
と思います。深い悲しみは、単に「頑張れ」では消えないでしょう。やはり時間が必要です。
「休め東北、落ち着け首都、そして頑張れ北海道、西日本!」ではないでしょうか。