宇野ルーツだより

ご先祖のルーツを探す旅

200年前の香りが漂う!

2009-03-27 20:06:27 | 日記
 宇野家ゆかりの皆様!
  夜半から湿った雪となりました。春へまだ足踏みが続きます。でも、もうすぐ4月。週末は「春の兆し」を探しに出てみます。

 数日前からインターネットの接続環境が悪く、連絡が取れない状況が続いていましたが、何とか復旧しました。
 メールなどをいただいていた皆様にはご迷惑をかけました。
 戦国時代と現代の時空の隔たりは予想以上です。この間にビッグなニュースが届きました。

 「宇野ルーツだより」№2(印刷版)で紹介した宇野騏八郎さんの著作「田賦考」(上の写真をクリックすると拡大できます)の
 内容を確認することができるようになりました!
  目次を見ますと、次の七部構成となっていました。

  田地之部・畝反之部・高之部・物成之部・免之部・口米之部・諸出米銀之部


 文化9年(1812年)に書かれたもののようなので、200年の時を超えて目の前に出現したことになります。
 詳しい解読はこれからになりますが、その内容から「200年前の香り」が漂ってくるようです。

 九州の市原様・梅津様、本当にお手数をかけました。ありがとうございました。
 これから順次解読を進めて、皆様に報告できるようにしたいと思います。



「戦国時代」を生き抜く!

2009-03-22 18:23:41 | 日記
  ここ2・3日は、季節が少し逆戻りしたような天候でした。この時期、やはり「三寒四温」ですね。
 季節の変わり目、皆様同様、体調管理には気をつけたいと思います。

 前回、「菊池風土記」の隈部氏系図で、「宇野元規(宇野左太夫)」という人物に巡り合ったという話を紹介しましたが、
 ここで、一連の系譜をまとめてみます。

 隈部忠直➔隈部親興(宇野冶部太夫)➔宇野重基(宇野民部太夫)➔宇野重則(宇野冶部太夫)➔宇野元規(宇野左太夫)
 ・・・(2~3代の空白)・・・初代宇野八左衛門・・・

 今のところ以上のように推定されます。「2~3代の空白」の部分が埋められると一層説得力をもつと思いますが、
 なかなか難しい現状です。ただ、まったく手がかりがつかめないかというと、そうでもない気がしています。

 この空白の時期の様子はおおむね次の通りです。

 1587年、豊臣秀吉が肥後に入国し、佐々成政に肥後国主を命じたものの、隈部氏らを中心とした国衆一揆が起こり、
 隈部氏は滅び、佐々は割腹させられました。
 その後、加藤清正と小西行長の分割支配となりますが、小西は関ヶ原の戦いで敗れて処刑されたため、
 加藤清正の「肥後54万石」が誕生します。この間、2度の朝鮮への侵略もありました。

 しばらく加藤氏の時代が続きましたが、忠広が改易されて出羽庄内に流されると、細川忠利が肥後転封を命じられて
 熊本城に入りました。1632年のことでした。

 さらにそれから約40年後の1670年、宇野八左衛門さんが細川藩に召抱えられ出仕することになりました。第5代細川綱利のときです。
 少し長くなりましたが、このおよそ100年間、宇野はどこで、どうしていたのでしょうか?

 1.隈部氏が滅んだとき、同族の宇野家も何かしらの悲哀をなめた。
 2.加藤氏の時代には出仕していなかった。(緒方家の先祖付には「加藤氏への出仕」の記述がありますが、宇野にはありません)

 これらの点から推測すると、宇野一族は「帰農」して、時機をうかがっていたのではないかとも考えられるのです。
 そして、理由は不明ですが、1670年(寛文10年)がその時機(士族復帰)でした。

 このように見てくると、政治や経済のしくみは違っていても、人間関係や人生の悲喜こもごもなどは、
 いつの時代も変わらないなと感じます。お仕えしていた殿様がこけると、忠臣は殉死したり、路頭に迷う。
 しかし、中にはとり入って別の殿様に召抱えられる者もいる・・・人生の選択の基準の違いは何でしょう?

 実は、これ、西南戦争での緒方夫門・友成正雄氏などの言動を調べていたときにも感じた問題でした。
 緒方夫門氏は、約13年の隠遁生活を経て特赦。一方、友成正雄氏は、延岡の河原で壮絶な斬刑。
 年齢は違いますが、どちらも熊本隊の参謀でした。生と死を分けたものは・・・考えさせられます。
 詳しくは「宇野ルーツだより」(印刷版)で紹介させていただきます。

 殿様と家来の関係は、現代の企業の経営者と社員の関係、あるいは官僚組織内の力関係と同じように思いました。
 今は殿様に頼るより農村でのものづくりを見直す時代かと・・・もう少し若かったら「帰農」に挑戦していたかもしれません。
 いずれにしても「戦国時代を生き抜く」気持ちが必要ですね。

 これから少し現代に近づいて加藤氏の時代の熊本を訪ねて、加藤家の記録にあたってみます。戦国時代も終わりです。

 また、「宇野の輪」が拡がりました! 「宇野氏末裔のお一人」から応援のメールをもらいました。
 福岡市の梅津様ありがとうございました。戦国時代もメールでつながっています。  
 「返信」しましたが、届いていないようであれば連絡お願いします。


 









500年に一度の歴史的瞬間!

2009-03-19 18:18:45 | 日記

   今日は全国的に暖かい一日だったようですね。
 札幌市の最高気温は9.4℃と聞きました。皆様のところはいかがでしょうか?

 この彼岸は、印象深い時期です。母(宇野美代子)の誕生日が3月21日、伯母(宇野元子)の誕生日が3月23日です。
 また、九州の宇野つながりで市原様と連絡が取れたのも、ちょうどこの時期でした。

 明日から3連休という方も多いと思います。先日、東京の澤田様から電話をいただいた時に、
 「まわりでは毎週が3連休・4連休という状況だ」
 と聞きました。仕事が減ったので「休業状態」だというのです。
 東京でこのような状態なのですから、地方はもっと大変な思いをしているでしょう。
 もちろん札幌市も例外ではありません。

 「100年に一度の危機」と言うなら、「100年に一度の改革」を実行しなくてはなりません。しかも迅速に。
 でも、現状はそうではないように思います。

 歴史を旅している私としては、「戦国時代の武将が行ったような大胆な改革」が必要と思っています。
 その意味では「500年に一度の歴史的瞬間」に生きているように思えてなりません。
 戦国の世が終結するのに100年余の時間が必要でした。
 「全治3年」などと呑気な認識をもつ「武将」の交代が、問題解決を早めると思っているのは私だけでしょうか?

 その戦国時代、隈部氏からの情報は底をついたようなので、現在は菊池氏を訪ねています。
 隈部氏は菊池氏の有力な家臣でした。なので菊池氏の記録に何か残っていないかと尋ねていたところ、
 運よく「菊池風土記」の中の「隈部氏系図」を閲覧することができました。

 前回の「隈部氏系図」(「新撰事蹟通考」)では、宇野重則(冶部大輔)までしか示されていませんでしたが、
  「菊池風土記」の「隈部氏系図」では、重則のあとに「宇野元規(宇野左太夫)」とありました! 

 新しい出会いです。「宇野左太夫」と「宇野八左衛門」とで「左」つながりのような気がして、
 また一歩近づいたような印象です。 
 詳しい内容は、近々配布予定の「宇野ルーツだより」№3-5で紹介します。

 宇野についての情報、「宇野ルーツだより」の配布もれなどがありましたら、
 このブログに書き込みいただくか、下記までメールでお知らせください。
      unoroots@mail.goo.ne.jp
























続・宇野冶部太夫さん

2009-03-17 18:24:14 | 日記

  今日は、北海道の公立高校の合格発表日でした。
 北海道の桜はまだですが、一足早く「サクラサク」のメールが飛び交ったようです。

  私はといえば、まだ16世紀の九州にいて、隈部氏の周辺をうろうろしています。あちこちで紛争があり、まさに「戦国時代」です。

 前回紹介しましたが、隈部親興は、宇野家に養子に入り、宇野冶部大輔親興と名乗っています。
 その親興の長子が宇野民部少輔重基、その子は宇野冶部大輔重則、と続きますが、
 「隈部氏系図」ではここまでしか示されていません。系譜を整理すると以下のようになります。

 隈部忠直(1427-1495)⇒隈部親興(宇野冶部大輔)(1450-1520?)⇒宇野重基(民部少輔)(1475-1540?)
 ⇒宇野重則(冶部大輔)(1500ー1570?)

 隈部親興以下の生没年は、親、忠直から追っかけた推定ですが、この系譜から「宇野先祖付の冶部太夫さん」は、隈部親興ではなく、
 むしろ宇野重則である可能性が高まってきました。「大永の頃」の活躍に合致しそうだからです。

 すぐそこに宇野冶部太夫さんがいそうなのですが、なかなか、はっきりとは姿が見えません。もう少しここにいて、
 隈部・宇野の縁者の家を訪ねてみることにします。

 











宇野冶部太夫さんに急接近

2009-03-15 21:03:07 | 日記
 九州からは桜の便りが届く季節となりました。ここ札幌でも雪解けが急ピッチで
 進んでいます。年々、春の訪れが早まっているような気がします。

 ご先祖宇野冶部太夫さんについて、新たな情報が届きました。
  1.「隈部家代々物語」に宇野冶部太夫が見えるという情報。
  2.国立国会図書館近代デジタルライブラリーの「肥後文献叢書」中で
    宇野冶部大輔の家系が閲覧できるという情報。
 
 これらの情報から、隈部氏の「宇野冶部大輔」=宇野冶部太夫である期待がますます高ま
 ってきました。戦国時代に迷い込み、「この人、知りませんか?」と尋ね人をしているうちに、
 「この人ではないですか」と教えていただいたようです。宇野冶部太夫さんの詳しい内容は、
 近々「宇野ルーツだより」で紹介します。

 情報を寄せていただいた佐賀市の市原晶子様、熊本市の「津々堂」様、ありがとうございました。

 「津々堂」氏は、肥後細川藩に造詣が深く、様々な情報をホームページで公開されています。
 特に、「新・肥後細川藩侍帳」は何と2000家!の先祖付を網羅し、その膨大な労力には頭が
 下がります。もちろん、宇野をはじめ緒方・友成・小橋家など、ゆかりの家の先祖付が閲覧できます。
 まだの方は、アクセスをおすすめします。

   「肥後文献叢書」:国立国会図書館近代デジタルライブラリー

   「津々堂」氏のホームページ:肥後細川藩拾遺