宇野ルーツだより

ご先祖のルーツを探す旅

檜扇紋の発見

2011-08-24 21:36:52 | 日記
昨日の最高気温は21℃あまりで、肌寒いくらいでした。今日(24日)は、少し上がりましたが
 30℃にはならず、過ごしやすい一日でした。さすがにもう真夏日にはならないかもしれません。
 北の地の夏が過ぎていきます。本州や九州では、まだまだ残暑が厳しいようですね。宇野ゆかりの
 皆さま、どうぞ体調管理などにお気をつけください。

 札幌市内にある円山墓地、古いお墓が多い。古いとは言っても、北海道や札幌が開拓された時期
 ですから、明治のことです。「内地」での古さに比べると新しいほうかもしれません。自然観察の
 合間に、各墓石に刻まれた家紋に注意していますが、先日「檜扇」紋が刻まれているお墓に出会う
 ことができました。2000ほどの墓石で唯一でしたが、宇野家の「房付檜扇」紋とは、ちょっと違って
 いました。その違いは・・・

   1.上の檜板が角張っている(雁木?)
   2.檜板の数が9枚ある(右端は数えない?)
   3.中央に「四つ目」紋が入っている

 でも、基調は「檜扇」であることは変わりません。どこかで縁があったのかもしれませんね。ちなみに
 お墓には「山崎家」(昭和48年建立)とありました。戦国武将の山崎氏も扇紋を使用していたといいます
 から、何か関係があるのかもしれません。

  円山墓地で見つけた「檜扇」紋です。扇紋には美しいものが多いですね。末広になっているので
   縁起がよいとされ、選ばれたようです。自然観察などに時間をとられ、「宇野ルーツだより」の発行が
   遅れていますが、来月上旬には発送できるよう準備しています。
   
 

 

家紋が変わった?

2011-08-10 18:50:04 | 日記
何とも蒸し暑い一日でした。これで約1週間、真夏日が続いています。
 本州などの猛暑日からみれば、まだ「涼しい?」のかもしれませんが、慣れない暑さには
 閉口します。でも、この暑さ、今がピークのようです。宇野ゆかりの皆さま、どうぞ熱中症
 などにはお気をつけください。

 以前から気になっていたもののひとつに、宇野騏八郎さんの代の家紋があります。
 「熊本藩侍帳集成」の「御侍帳(家紋入り)」に宇野騏八郎さんが記載されている
 のですが、その家紋が「梅鉢」になっているのです。宇野家の家紋は、ずっと
 「房付檜扇」だと思っていたので、不思議に思っていました。どこかで変わった
 のでしょうか。そもそも家紋を変えることがあるのでしょうか?

 平安時代に公家の紋所として生まれた「家紋」は、戦国の世で武士にも普及し
 敵味方を区別することなどに使われました。「平和な世」となった江戸時代
 には着物や墓石にも家紋を記すようになって、庶民にも普及しました。さらに
 明治になると、身分制度のしがらみがなくなり、苗字・家紋も爆発的に増えた
 ようです。新作の家紋も登場しました。

 宇野貞度さんの頃の家紋は、間違いなく「房付檜扇」。宇野騏八郎さんの頃の
 家紋が「梅鉢」だったとすると、江戸時代の終わりから明治の初めに変わった
 ことになります。どんな理由があったのでしょうか? 興味があります。もう少し
 各方面から調べてみたいと思っています。

  円山墓地で見かけた「梅鉢」です。菅原道真が梅の花を愛したことから
  菅原一族や縁者が愛用した家紋となりました。円山墓地の墓石に刻まれた
  家紋を見る機会がありますが、この梅鉢紋はそう多くはありません。また、
  檜扇紋も一度も目にしていません。

熊本農場

2011-08-04 18:48:21 | 日記
今日も晴れて暑い日になりましたが、湿度が高くなく適度な風が吹いて、
 しのぎやすかった一日でした。本州・九州の宇野ゆかりの皆さま、まだまだ
 暑い日が続きますが、どうぞ体調管理にお気をつけください。

 熊本と北海道の関係は、地理的な距離の遠さとは対照的に、意外と身近で
 密接な関係があったようです。その例のひとつが「熊本団体」でしょう。
 おもに明治から大正期に北海道各地に「団体での移住」が行われました。
 今も地名に「熊本団体」が残ります。この地名が中頓別町にもあることは、
 以前にも紹介しました。

 先日、由仁町史を調べていたら、「熊本農場」があったことが分かりました。
 由仁町は札幌市の東部に位置します。この町に明治24年に「熊本農場」が
 開かれたというのです。熊本移住協同組合なる組織が団体での移住を促進
 しました。この農場の所有者は合志林蔵、管理人は紫藤義一郎でしたが、
 土地が貧しく成功せず、移住者は各地に散らばっていったようです。その
 再移住先のひとつが初山別村でした。

 この「熊本農場」の開墾を後押しした関係者に佐々友房・井上毅・高橋長秋
 などがいました。済々黌・尚絅学園設立に関わった人物です。こうして見て
 みると、宇野家とも関係が深い人物・学校が登場してきて興味深いものが
 あります。当時の熊本では、こうした北海道での開拓がかなり話題になって
 いたのではないかと想像されます。同時に宇野家の人々の耳にも入り、
 北海道への漠然とした「あこがれ」があったのかもしれません。熊本と
 北海道の関係、もう少し調べてみる必要があるのかな、と思っています。

  6月下旬の芦別岳です。富良野側からの残雪が残る姿が美しく
  印象的でした。隣りの夕張岳は何度も登りましたが、芦別岳は未経験。
  体力があるうちに一度、と思っています。