宇野ルーツだより

ご先祖のルーツを探す旅

宇野ゆかりの地・・・中頓別町②

2009-09-26 21:53:36 | 日記
 
 さわやかな秋晴れとなりましたが、朝晩は10℃くらいまで下がって
 「冷え込む」ようになりました。

 中頓別町はもっと寒くなっていることでしょう。この町の歴史はやはり
 「砂金」抜きには語ることができません。日本一とも言われる768g
 の塊金のレプリカが郷土資料館に飾られています。

 
 「東洋のクロンダイク」とも呼ばれたこの地方のゴールドラッシュの
 ピークは、明治33年から34年ごろであったようです。この時期に中頓別に
 入った砂金採取人の数について、次のような資料(「枝幸砂金論」)が
 残っています。

  ウソタンナイ   570人
  ペーチャン    500人
  パンケナイ    320人
  オムルシュベツ  100人
  ケモマナイ    200人  計1760人(明治33年)

 定住者がまだいないこの地域に、これだけの人々が入り砂金を採取して
 いました。同時に砂金を採取するには、生活必需品が必要です。採取人
 のための商売も繁盛して一大集落を形成していたようです。また、砂金の
 「泡銭」を目当てに歓楽街もできました。


 しかし、この賑わいも長くは続きませんでした。そのおもな理由は砂金が
 取れなくなったことですが、山奥での過酷な労働、医者の不在なども拍車
 をかけ、一攫千金の夢破れた人々は次々に離れていきました。


 宇野一家が中頓別に入ったのは、ゴールドラッシュの熱が冷めて10年
 あまりが経った大正時代の中頃と推測されます。それでも砂金は細々と
 採取されていたのでしょう。貞誠氏は息子省一に砂金を握らせて近くの
 商店(多分渡辺商店)に酒を買いに行かせた、という話が伝わっています。
 宇野一家の移住が砂金採取目当てとは思えませんが、背景には砂金という
 キーワードがチラチラしているように思います。

 
 「砂金ラーメン」です。黒いラーメン! 金箔が浮いた塩味のスープに
 炭が混じった中細縮れ麺でした。同行した友人によると、美味! との
 ことでした。

 


宇野ゆかりの地・・・中頓別町①

2009-09-25 08:20:55 | 日記
 
 今日も秋晴れの天気になりそうです。予想最高気温は22℃。
 すっかり秋の気配ですが、九州などでは30℃を超えるところも
 あるようですね。残暑お見舞い申し上げます。また、電話・
 お手紙・メールなどでの「ルーツだより」への感想・応援に
 改めてお礼申し上げます。


 先日の連休中、中頓別町などの道北地方を訪れる機会に恵まれ
 ました。皆様ご存じのように、中頓別町は宇野貞誠一家が移住し
 太平洋戦争開戦直前まで暮らしたゆかりの土地です。北緯45度の
 土地への貧乏旅行。車中泊での朝の寒さは予想を超えていました。
 でも、開拓時の厳しさを思えば、まだ快適なのかもしれません。


 熊本から酒田、中頓別へと移住した理由は何だったのか、また、
 どんな暮らしをしていたのか・・・その手掛かりの一端でも
 分かればとの思いでの3度目の訪問でした。


 当時(大正中期から昭和16年ごろ)の町の賑わいとは比べようも
 ありませんし、事情を知る人たちもほとんどいなくなりました。
 その中でも、中頓別を含む天塩地方と庄内藩との密接なつながり、
 砂金・ニシン漁・林業にまつわる人々の移動は参考になるものでした。
 今後、さらに精査して新しい発見があれば、「宇野ルーツだより」
 で紹介します。

 
 やはり砂金で有名な町です。「砂金ラーメン」を発見しました。
 ピンネシリ温泉にある「望岳荘」で味わうことができます。どんな
 ものなのかは、次回に紹介します。 

 





「田賦考」解読(5)

2009-09-18 20:27:37 | 日記
 
 さわやかな秋晴れとなりました。北海道の屋根、大雪山からは初冠雪の
 便りが届き、こちらの秋は駆け足で過ぎて行きます。まだまだ暑い地域も
 あるようですね。皆様はいかがお過ごしでしょうか?

 引き続き「田賦考」の解読を掲載します。

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 一 御郡方新地

  御郡方新地とは海辺築出し、又は畝物開等に高物成定り、
  貞享已来、追々出来の新地なり。

 一 御山方新地

  御山方新地とは御山を開或は御籔受籔床を崩作所にいたし度段、
  願によつて受籔の畝数代米上納を免せられ、高を盛御物成を
  極られ、此名目付となり。

 一 打出新地

  打出新地といふは、絵會所に問合候処、上益城甲佐手永糸田村に
  姦民有て隠田有よし。手越に訴出けれは、御吟味被仰付候得共
  隠田とては無之候に付、天和三年、右村本地新地諸畝物迠悉検地
  被仰付惣畝より過畝を拾六町六反余打出新地と云名目に成高反別
  極候よし。本行の事根元を糺さず手越の訴いたし候に付、庄屋
  共に都合七人程御仕置被仰付候と申傳。
 
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 「宇野ルーツだより」(印刷版)の最新号を発送しました。連休中の
 お届けになるかと思いますが、よろしくお願いします。江戸時代の
 文久年間の古地図に「宇野貞雄屋敷」が見えます。そのことなど、
 熊本の宇野ゆかりの場所を特集しました。資料などを提供いただいた
 皆様に改めてお礼申し上げます。


 
 各地でヒガンバナが満開のようですが、彼岸入りを前に円山墓地では
 オオハンゴンソウの黄色の花でクサギカメムシが休んでいました。
 明日からの連休を利用して、中頓別など道北方面への探索を予定して
 います。宇野ゆかりの地のひとつで、何か新しい発見があれば、また
 紹介したいと思います。

 


 

宇野・緒方家の家来

2009-09-12 22:17:52 | 日記
  でしたが・・・明日は雨の予報です。
 宇野ゆかりの皆様、いかがお過ごしですか? 季節の変わり目です。
 体調管理が難しい時期ですので、お気を付けください。新型インフルエンザで
 学級閉鎖などが行われています。私も帰宅した際、ふだんより念入りに
 うがい・手洗いを励行するようになりました。

 細川藩の諸事を紹介されている「津々堂さんのサイト」に、「旧倍臣代数及
 原禄根帳」が掲載されています。これは熊本県の「県政資料」(明治7年)を
 もとに、幕末から明治初めにかけての細川藩の家臣で家来を持つ家とその
 家来の名前を示したものです。この中には、宇野・緒方の両家もあります。
 つまり、両家にも「家来」がいたのです。


   宇野貞雄[35-5] 古閑清右衛門
   緒方加右衛門[8-7] 井芹伝右衛門・田添直喜(泰)


 古閑・井芹・田添とは、どんな御家だったのでしょうか? その後、どうなった
 のでしょうか? 多少なりとも縁があったこれらの御家が気になるところです。
 緒方夫門氏が西南戦争に参加した際、一緒に従ったあの井芹氏なのでしょうか?

 これらの家来の詳しい情報は「県政資料」にあるようなのですが、内容が確認
 できません。あるいは、たいした情報でもないのかもしれません。石高百石と
 言っても、百石全部が収入ではなく、こうした家来を養う出費などで武士の
 生活は楽ではなかったようです。


 
 三角山のふもとでは、コスモスの花が秋風にゆれてきれいでした。「宇野ルーツ
 だより」(印刷版)の最新号は近々お届けする予定にしております。





 
 

「田賦考」解読(4)

2009-09-04 23:42:35 | 日記
 
 くもり、夜になって

 皆様いかがお過ごしですか? 日一日と秋の足音が高くなってきたような
 気がします。日中と夜の気温差に加え、新型インフルエンザの拡大なども
 あります。どうぞ体調管理にお気を付けください。

 「田賦考」の解読を引き続き掲載します。

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  一 新地
  新地とは牧野安右衛門記録に、寛永年中迠荒居候地方を承應明暦寛文のころ
  専ら開明本方のごとく高物成定り御年貢を納候とあり。
  按に古新地と云名目アリ。新地と一物二名にて御郡方新地に對して、
  古新地と云といへる人あり。然れども見圖帳に寛永新地と云名目あれは、
  是則古新地なるべし。

  寛永新地は本方同前の取扱なり、某八代の郡宰たりし時、高田會所の帳蔵
  に在る旧記を見るに、寛永十年四月の御達に御国中縄の廣き所新地開四月迠に
  書出候様にとアリ。又寛永の地撫帳に先代開といふ名目見ゆ。此類都而高を
  持新地となると見へたり。是等を寛永新地と云なるべし。

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  牧野は民間より起り、山鹿郡中村の御惣庄屋となり、後御郡代御郡政被仰付
  寛文延宝比の人也。


   
  先日、用事があって北海道大学の総合博物館に行きました。大都市の中心部に
  ある大学キャンパスは広く、自然が残っていることで知られています。付属の
  農場から眺める景色は190万の都市とは思えないものです。ススキの穂が出て
  いました。合わせて背景も秋らしく変更しました。