さわやかな秋晴れとなりましたが、朝晩は10℃くらいまで下がって
「冷え込む」ようになりました。
中頓別町はもっと寒くなっていることでしょう。この町の歴史はやはり
「砂金」抜きには語ることができません。日本一とも言われる768g
の塊金のレプリカが郷土資料館に飾られています。
「東洋のクロンダイク」とも呼ばれたこの地方のゴールドラッシュの
ピークは、明治33年から34年ごろであったようです。この時期に中頓別に
入った砂金採取人の数について、次のような資料(「枝幸砂金論」)が
残っています。
ウソタンナイ 570人
ペーチャン 500人
パンケナイ 320人
オムルシュベツ 100人
ケモマナイ 200人 計1760人(明治33年)
定住者がまだいないこの地域に、これだけの人々が入り砂金を採取して
いました。同時に砂金を採取するには、生活必需品が必要です。採取人
のための商売も繁盛して一大集落を形成していたようです。また、砂金の
「泡銭」を目当てに歓楽街もできました。
しかし、この賑わいも長くは続きませんでした。そのおもな理由は砂金が
取れなくなったことですが、山奥での過酷な労働、医者の不在なども拍車
をかけ、一攫千金の夢破れた人々は次々に離れていきました。
宇野一家が中頓別に入ったのは、ゴールドラッシュの熱が冷めて10年
あまりが経った大正時代の中頃と推測されます。それでも砂金は細々と
採取されていたのでしょう。貞誠氏は息子省一に砂金を握らせて近くの
商店(多分渡辺商店)に酒を買いに行かせた、という話が伝わっています。
宇野一家の移住が砂金採取目当てとは思えませんが、背景には砂金という
キーワードがチラチラしているように思います。
「砂金ラーメン」です。黒いラーメン! 金箔が浮いた塩味のスープに
炭が混じった中細縮れ麺でした。同行した友人によると、美味! との
ことでした。