宇野ルーツだより

ご先祖のルーツを探す旅

書き写すことの意義を実感!

2009-04-26 19:19:34 | 日記
  今日は荒れた天気の一日でした。4月下旬だというのに雪が舞っています。
 道東では、かなり積もっているところもあるようです。

 天気がよければ近郊の野幌原始林で自然観察会に参加する予定でしたが延期となりました。
 近くの庭には早くも芝桜(写真)が咲き始めていますから、何ともアンバランスな天候です。

 引き続き「田賦考」の解読を進めて、データを入力しています。この作業をしながら、ふと思うことがありました。

 江戸時代には、今のような印刷技術や「複写機=コピー」などはありませんでした。
 ですから書物をだれかに伝えようとするときには「書き写す」という手段しかなかったのですね。

 書き写すという作業はとても時間がかかる「効率が悪い」ものです。
 しかし反面、その内容がしっかり頭に入るという良い点があります。
 今ほど複写技術が発達していなかった時代の人々が「書き写す」という行為を通して、
 自然に知識や知恵を身につけていたのだと、改めて実感しました。

 コピーが発達した時代だからこそ、原点となる学習の仕方を見直す必要があるのでは・・・? と思っています。 






「田賦考」つづき・・・徳永蔵本のこと

2009-04-17 19:59:35 | 日記
 今日は、よい天気で気温も上がりました。皆様はいかがでしょうか?
 週末は円山公園などを散策して、春の香りが楽しめたらと思っています。

 「田賦考」の解読を進めています。人名・地名は読みずらいところも出てきています。
 やはり集中力の問題のようで、長い時間だらだら読んでいても分からないものは分かりません。
 それが時間を置くと、なぜか突然読めるようになるから不思議です。

 もうひとつのポイントは、ひとつひとつのくずし字にこだわらずに「文脈をつかむこと」だと思いました。
 その文脈の中で自然と字が見えてくることがあるのです。

 今は、阿蘇山の噴火で田畑が荒れてしまったことがあったというあたりを読んでいます。
 やはり細川藩の土地柄らしい記述だと感動しています。

 前回紹介した宇野貞悳さんの花押に続き、写本をした人物の花押(写真)も紹介しておきます。
 最後のページには、次のように記されています。

       文久元年辛酉十二月十九日卒業
       於江府龍口御屋敷写之
                 徳永蔵本
                  國眞 花押

 卒業は何を意味しているのでしょうか? 龍口屋敷は江戸にあった細川藩邸です。
 ここを「卒業」? よく分かりません。
 「徳永蔵本」はどうでしょうか? 徳永という人物の蔵書という意味でしょうか?
 「蔵書」なら、わざわざ書き写す必要もないと思うのですが・・・
 それとも「徳永文庫」のような図書館にあった本なのでしょうか?

 いずれにしても、國眞という人物が書き写したことは間違いないようです。
 その人物の姓が徳永であれば、話は簡単なのですが・・・皆様の考えをお待ちしています。 
  
  


200年前のサイン・・・宇野貞徳さんの花押

2009-04-10 18:10:17 | 日記
 今日は全国的によい天気だったようですね。25℃を超えて「夏日」という所もあったと聞きました。

   ここ札幌でも17℃になったようで、5月下旬のような陽気でした。
   冬の間、地中にこもっていたクロヤマアリが巣を出て歩き回っています。 


 宇野貞徳(騏八郎)さんの「田賦考」の解読を進めていますが、なかなか苦戦を強いられています。

 すごく几帳面に記されていて細かい文字の部分で判読しずらいこと、
 固有名詞(人名など)の解釈がいまいち自信がもてないことなどです。

 その反面、「大化改新」「信長・秀吉」「読史余論」「拾介圃記」など、
 歴史の教科書にも出てくる事項があり興味深いものです。
 どなたか勇気のある(笑)方、挑戦してみませんか? 連絡お待ちしています。 

 「田賦考」の最後に宇野貞徳さんの「花押」(写真参照・クリックして拡大できます)が見られます。
 ご存じのように花押は文書を書いた人の署名の代わりになるものです。
 今でいう「実印」といったところでしょうか。この「田賦考」は写本ですから、宇野貞徳さんの自筆ではありませんが、
 200年前の文化9年の「サイン」がしっかり残っていました。
 ちなみに、「ウィキペデア」の「花押」で歴代内閣総理大臣の花押が確認できます。

 写本した人物の名前・花押もあります。「徳永」という人が江戸の細川藩邸龍口屋敷で幕末の文久元年に写したものと推測されます。
 「細川藩侍帳」で「徳永」を調べてみましたが、この人物につながる有力な情報はありませんでした。

 どんな人物が、なんのために写本したのか今後さらに検証してみます。
 「徳永」さんに関する情報をお待ちしています。

 「宇野ルーツだより」(印刷版)は№1~7まで発行済みです。手違いなどで未着の場合はお知らせください。
 現在、№8以降の編集作業中です。宇野と関わりの深い人々について、
 幕末から明治初期のできごとを中心とした内容をお届けしたいと思っています。 





春を探しに

2009-04-04 08:16:56 | 日記
  昨日も今日も本当によい天気で春らしくなりました。
 前回お知らせしたように、近くの公園に「春のきざし」を探しに行ってきました。

 見つけました。「ふきのとう」(写真)です。まだつぼみでした。

 熊本城内は桜が満開とのこと。
 こちらはやっと雪が消え緑が芽吹きだしたところです。「氷割り」という作業があちこちで見られます。
 桜の時期は、あとひと月先になります。


 今、江戸時代を離れて明治の初めにいます。宇野冶部太夫さん関係がひと段落したので、
 西南戦争と宇野・緒方の関係を尋ねています。

 皆様ご存じのように、緒方夫門氏は熊本隊参謀として積極的に関与しましたが、宇野はそうではなかったようです。
 このとき宇野貞也氏は多分病の身だったようですし、宇野貞度氏はまだ13歳の少年でした。
 というわけで、思うところがあっても関与できない事情があったのでしょう。

 この西南戦争では、宇野とつながりのある友成正雄氏が重要な存在として浮かび上がってきました。
 緒方夫門氏と同じ熊本隊の一員として参戦して重傷を負い延岡近くの長井村で官軍に降伏しました。
 そして斬刑に処せられました。27歳という若さでした。なぜ友成は極刑だったのか?

 このあたりの事情については、佐々友房や古閑俊雄が「戦袍日記」として残していますので、
 緒方・友成に関する部分を調べて報告できると思っています。とくに友成の言動を見ると、

 この戦争が一般に言われているような「不平不満士族の反乱」などというような単純なものではなかった!

 ということがひしひしと伝わってきます。現代では忘れ去られがちな若者の気概を感じます。
 それは、次の辞世の詩の一節に表れていました。

         請見千秋論定後、当時国賊却忠臣

 何という歴史観でしょう。感激しました!