今日から寒気が入り平地でも初雪になる予報です。
皆様はいかがお過ごしでしょうか。
北海道の開拓というと、「屯田兵」という印象が強いですが、彼らが
北方警備と開拓ために入った地域は限られていました。その他の広大な
未開地に挑んだのは、本州や九州などのいわゆる「内地」からの移住者
たちでした。中頓別も例外ではありません。これらの人々の中には失職
した下級武士もいましたが、多くは農民で、それも故郷での生活に困窮
し北海道で一旗挙げようという人々が中心でした。
中頓別町に「熊本」という地名があることは知っていましたが、どんな
人々が移住していたのか調べたことはありませんでした。今回の訪問で
その地区を訪れることができました。ピンネシリ地区のワッカウエンと
いう場所です。
大正3年(1914年)春、熊本県阿蘇郡出身の家入平次郎という人物が
熊本団体の移住者10戸、30人を率いて入植したといいます。天塩川を
遡った音威子府から道なき山を越えてきたそうです。当時の厳しい開拓
の様子が「中頓別町史」に記録されていますが、詳しくは印刷版で紹介
します。これらの人々と宇野家の移住とは直接結びつきませんが、同郷
の人々の存在は心強いものがあったのではないでしょうか。
このワッカウエン(稚宇遠)は、現在の地名では豊平です。乳牛が遊ぶ
酪農地域となっていました。ペンケ・パンケの山々には朝霧がかかり、
当時と変わらぬ自然がありました。
豊平地区の朝の風景です。やはり空気が澄んでいますね。詳しい様子は
「宇野ルーツだより」の中頓別特集にて紹介します。遅くなりましたが、
11月初旬着の予定です。
皆様はいかがお過ごしでしょうか。
北海道の開拓というと、「屯田兵」という印象が強いですが、彼らが
北方警備と開拓ために入った地域は限られていました。その他の広大な
未開地に挑んだのは、本州や九州などのいわゆる「内地」からの移住者
たちでした。中頓別も例外ではありません。これらの人々の中には失職
した下級武士もいましたが、多くは農民で、それも故郷での生活に困窮
し北海道で一旗挙げようという人々が中心でした。
中頓別町に「熊本」という地名があることは知っていましたが、どんな
人々が移住していたのか調べたことはありませんでした。今回の訪問で
その地区を訪れることができました。ピンネシリ地区のワッカウエンと
いう場所です。
大正3年(1914年)春、熊本県阿蘇郡出身の家入平次郎という人物が
熊本団体の移住者10戸、30人を率いて入植したといいます。天塩川を
遡った音威子府から道なき山を越えてきたそうです。当時の厳しい開拓
の様子が「中頓別町史」に記録されていますが、詳しくは印刷版で紹介
します。これらの人々と宇野家の移住とは直接結びつきませんが、同郷
の人々の存在は心強いものがあったのではないでしょうか。
このワッカウエン(稚宇遠)は、現在の地名では豊平です。乳牛が遊ぶ
酪農地域となっていました。ペンケ・パンケの山々には朝霧がかかり、
当時と変わらぬ自然がありました。
豊平地区の朝の風景です。やはり空気が澄んでいますね。詳しい様子は
「宇野ルーツだより」の中頓別特集にて紹介します。遅くなりましたが、
11月初旬着の予定です。