宇野ルーツだより

ご先祖のルーツを探す旅

宇野ゆかりの地・・・中頓別町⑥

2009-10-30 08:39:29 | 日記
  今日から寒気が入り平地でも初雪になる予報です。
  皆様はいかがお過ごしでしょうか。

  北海道の開拓というと、「屯田兵」という印象が強いですが、彼らが
 北方警備と開拓ために入った地域は限られていました。その他の広大な
 未開地に挑んだのは、本州や九州などのいわゆる「内地」からの移住者
 たちでした。中頓別も例外ではありません。これらの人々の中には失職
 した下級武士もいましたが、多くは農民で、それも故郷での生活に困窮
 し北海道で一旗挙げようという人々が中心でした。

 中頓別町に「熊本」という地名があることは知っていましたが、どんな
 人々が移住していたのか調べたことはありませんでした。今回の訪問で
 その地区を訪れることができました。ピンネシリ地区のワッカウエンと
 いう場所です。

 大正3年(1914年)春、熊本県阿蘇郡出身の家入平次郎という人物が
 熊本団体の移住者10戸、30人を率いて入植したといいます。天塩川を
 遡った音威子府から道なき山を越えてきたそうです。当時の厳しい開拓
 の様子が「中頓別町史」に記録されていますが、詳しくは印刷版で紹介
 します。これらの人々と宇野家の移住とは直接結びつきませんが、同郷
 の人々の存在は心強いものがあったのではないでしょうか。

 このワッカウエン(稚宇遠)は、現在の地名では豊平です。乳牛が遊ぶ
 酪農地域となっていました。ペンケ・パンケの山々には朝霧がかかり、
 当時と変わらぬ自然がありました。


 
 豊平地区の朝の風景です。やはり空気が澄んでいますね。詳しい様子は
 「宇野ルーツだより」の中頓別特集にて紹介します。遅くなりましたが、
 11月初旬着の予定です。

 

 

宇野ゆかりの地・・・中頓別町⑤

2009-10-22 20:38:59 | 日記
 
 朝晩はすっかり冷え込むようになりました。冬の到来を告げる雪虫が
 舞っています。この雪虫、実はアブラムシの仲間でです。翅が生えて
 移動するので目立ちます。雪虫が舞うようになって1週間ほどすると
 初雪になる言われています。皆様はいかがお過ごしですか?

 今回の中頓別訪問では、いくつかのゆかりの場所を探索しましたが、
 中頓別小学校もそのひとつでした。明治42年に創立された小学校が
 90周年を迎えたのに合わせて「同窓生名簿」が作成されました。
 その名簿に宇野家の人々の名前を見つけることができました。中頓別
 時代の宇野家の様子を知る手がかりになるものです。提供いただいた
 池田和子様(中頓別町)に改めてお礼申し上げます。

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 宇野栄一:第18回生(昭和4年卒)高等科第13回生(昭和6年卒)
 宇野誠:第20回生(昭和6年卒)高等科15回生(昭和8年卒)
 宇野元子:第24回生(昭和10年卒)高等科第19回生(昭和12年卒)
 宇野省一:第28回生(昭和14年卒)高等科第23回生(昭和16年卒)

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 宇野豊子・宇野吉郎・宇野美代子・宇野登の4名は名簿にはありません。
 吉郎さんは入学前後(昭和2年)に事故で亡くなり、美代子・登の2名は
 酒田転居にともない転校したものと思います。ただ、豊子さんの名前が
 ないのは、当時の宇野家の事情を探るヒントになるものでしょう。この
 あたりの様子は、近くお届けする「宇野ルーツだより」で紹介する予定
 にしています。

 
 秋晴れの下、中頓別小学校は当時と同じ場所にありました。校舎は変わり
 児童数は減っていましたが、部活の子供らの元気な声がありました。

 

宇野ゆかりの地・・・中頓別町④

2009-10-09 20:19:31 | 日記
 
 台風一過の秋晴れ、と言いたいのですが、曇りです。台風に吹き込むように北西の風が冷たい一日でした。
 石北峠などでは10センチほどの積雪!です。関係する地域の皆様、台風の被害はありませんでしたか?


 中頓別町訪問の様子、続きを紹介させていただきます。今回の訪問にあたっては、昭和11年当時の町の
「住宅地図」を参考にしました。この地図は、当時中頓別尋常小学校を卒業した人たちが、昭和63年に記憶
 などをもとに再現したもので、池田和子さんより送っていただきました。伯母(宇野元子)や
 伯父(前田省一)から聞いていたゆかりの場所を訪れる際の貴重な「手引き」となりました。

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    宇野の住居あと・・・当時の家はもちろんなく、倉庫のような建物になっていました。近くにお寺さんが
              ありました。

    中頓別神社・・・当時の子供たちの遊び場だったと聞いていましたが、おそらく当時と変わらない姿で
              森に囲まれていました。

    中頓別小学校・・・校舎は新しくなりましたが、当時と同じ場所にありました。スキーで通ったという
              ほど距離はないように思いました。


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 このほか、ゆかりの写真館や商店なども探してみましたが、やはり様変わりしていていました。この様子について、
 詳しくは「宇野ルーツだより」(印刷版)で紹介したいと思います。


 
 中頓別神社の石段です。伯父から「90段の石段で遊んでいて転んでけがをした」と聞いていたので、改めて数え
 ながら上ってみました。47段でした。当時とは変わったのかもしれません。子供の頃は大きいと思っていても、
 大人になってみると意外に小さかったというのはよくあることだと思いました。


 

宇野ゆかりの地・・・中頓別町③

2009-10-03 08:46:41 | 日記
 
 昨夜は雨でしたが、起きてみると晴れ上がった秋空になりました。
 ひと雨ごとに秋が深まっていきます。暑かった地域でも、そろそろ
 しのぎやすくなったのではないでしょうか。皆様、どうぞ体調の
 管理にお気をつけください。

 今回の中頓別町訪問は、友人の好意によるものでした。彼のルーツも
 道北と関係が深かったからです。中川町佐久・枝幸町歌登などを訪れる
 のに便乗させてもらいました。これらの町も、大正から昭和の初めに
 かけて砂金・木材・漁業などでにぎわったようです。

 今でこそ札幌は人口190万の大都市で、北海道に住む人々の3分の1が
 集中していますが、当時は屯田兵の子孫と役所の町で、産業の中心は
 中頓別や枝幸のような地方にあったことがうかがわれます。ですから
 北海道への移住の目的地となったのは、このような「地方」であった
 ことが分かります。

 大正時代中頃の中頓別の商業について、次のような統計が残っています。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中頓別の商業形態・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     物品販売・・・50  飲食店・・・10   製造業・・・10
     請負業・・・8    宿屋・・・・7    料理屋・・・6
     運送業・・・5    質屋・・・・5    理髪店・・・4
     風呂屋・・・3    問屋・・・・3    薬屋・・・・3
     鍛冶屋・・・3    蹄鉄屋・・・3    代書屋・・・3

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 鍛冶屋や蹄鉄屋といった商売は、時代を反映していて面白いものですが、
 最後の「代書屋」という仕事に興味を惹かれました。今で言う行政書士の
 ようなものでしょうか。読み書きが不自由な人に代わっていろいろな書類の
 作成をしたのでしょう。宇野貞誠氏は、下級とはいっても細川藩の士族の
 家系。それなりの教育は受けたはずですし、「読み・書き・算盤が中頓別
 で一番だった」との「伝説?」も残っているようです。確かな根拠はあり
 ませんが、「代書屋」をしていたとしても不思議はないと思います。

 宇野誠さんが出征までお世話になっていた「池田商店」に寄りました。
 池田さんご夫妻はお元気で、地元の方々のためにお店を続けてらっしゃい
 ました。後継がいないのは残念ですが、ご健康をお祈りしています。


 
 かつては林業の町でした。今は酪農家が多いようですが経営は厳しいと
 聞きました。そんな事情も知らずにのんびり草を食む牛たちがいる風景が
 印象的でした。