荒れた天候の一日になりました。雪や雨ではなく、風がとんでもなく強かった
のです。各地で被害がでたようですね。皆さまの地域は大丈夫だったでしょうか。
夜になっても時折突風の余韻が残っています。
この機会に宇野元子伯母の思い出をもう少し述べておきます。脊椎カリエスの
療養を終えた伯母は、私の家の近くで間借り生活を始めました。放課後には
よく遊んでもらいました。その時の話の中で宇野の先祖のことが出てきたの
だと記憶しています。「宇野の家紋は姫扇で、先祖は細川藩の薙刀の師範
だった」・・・この伯母の言葉がずっと頭に残っていました。小学校時代
に伺ったことです。
それからずっとルーツのことには関心が向かず、詳しい話を聞く機会がない
ままにお別れしてしまうことになりました。今、いろいろと調べていく中で
家紋の「姫扇」は「檜扇」の聞き間違いで、「薙刀の師範」であったのは
宇野ではなく緒方家であったことが分かりました。関心の薄かった子供の
勝手な思い込みでした。きっと宇野貞誠さんが伯母をはじめ、子供たちに
熊本の先祖のことなどを折にふれて話していたのでしょう。
後遺症は残ったものの旅行ができるほどに回復した伯母は、同じ病院で
療養していた中村さんの実家を訪れる機会がありました。実家は礼文島の
香深で漁業をしていました。その旅行に私を誘ってくれたのです。小学校
最後の夏休みのことでした。前浜ではウニが採り放題でしたし、元地の浜で
メノウの小石をたくさん拾いました。伯母との最初で最後の旅行の様子は
礼文島の美しい風景とともに、今でも鮮やかに蘇ります。
伯母はその後、帯広に移住しますが、母(美代子)が入院した際にはわざわざ
付添いのために出かけてきてくれました。特に最期の時には、長期にわたって
妹を励まし世話をしてくれました。妹を先に見送らなければならないことは
どれほど悲しくつらいことだったかと、今になって思います。その納骨の際に
いくつかの追悼歌をいただきました。次はそのひとつです。
妹の永遠の住家となりし藻岩(やま) 緑豊かに月美しくあれ
(1974年6月)
母を亡くしたあと、何かの拍子に同じ夢をくり返し見るようになっていました。
コンクリートの壁に囲まれた地下室のような部屋の中央にベッドがあり、母が
横になっています。白い布のようなものに包まれて痩せた顔だけが出ています。
健康ではありませんが、間違いなく生きている・・・何か話かけなければと
思った瞬間にいつも目が覚めたものでした。
そんな夢も、省一伯父が亡くなったのをきっかけに始めたルーツ探しをする
ようになって、九州の皆さま方との接点ができたり、細川藩時代のご先祖方
との出会いがあったりする中で、ぴったり見なくなりなりました。ルーツを
調べることが母や伯母の願いでもあったのか、などと思ったりもします。母の
誕生日に改めて命のつながりを感じています。
伯母が詠んだ新緑の頃の藻岩山のふもとです。ロープウェイが通るその下に
墓地があります。