宇野ルーツだより

ご先祖のルーツを探す旅

3月になると思うこと・・・その4

2010-03-21 21:51:45 | 日記
 
 荒れた天候の一日になりました。雪や雨ではなく、風がとんでもなく強かった
 のです。各地で被害がでたようですね。皆さまの地域は大丈夫だったでしょうか。
 夜になっても時折突風の余韻が残っています。

 この機会に宇野元子伯母の思い出をもう少し述べておきます。脊椎カリエスの
 療養を終えた伯母は、私の家の近くで間借り生活を始めました。放課後には
 よく遊んでもらいました。その時の話の中で宇野の先祖のことが出てきたの
 だと記憶しています。「宇野の家紋は姫扇で、先祖は細川藩の薙刀の師範
 だった」・・・この伯母の言葉がずっと頭に残っていました。小学校時代
 に伺ったことです。

 それからずっとルーツのことには関心が向かず、詳しい話を聞く機会がない
 ままにお別れしてしまうことになりました。今、いろいろと調べていく中で
 家紋の「姫扇」は「檜扇」の聞き間違いで、「薙刀の師範」であったのは
 宇野ではなく緒方家であったことが分かりました。関心の薄かった子供の
 勝手な思い込みでした。きっと宇野貞誠さんが伯母をはじめ、子供たちに
 熊本の先祖のことなどを折にふれて話していたのでしょう。

 後遺症は残ったものの旅行ができるほどに回復した伯母は、同じ病院で
 療養していた中村さんの実家を訪れる機会がありました。実家は礼文島の
 香深で漁業をしていました。その旅行に私を誘ってくれたのです。小学校
 最後の夏休みのことでした。前浜ではウニが採り放題でしたし、元地の浜で
 メノウの小石をたくさん拾いました。伯母との最初で最後の旅行の様子は
 礼文島の美しい風景とともに、今でも鮮やかに蘇ります。

 伯母はその後、帯広に移住しますが、母(美代子)が入院した際にはわざわざ
 付添いのために出かけてきてくれました。特に最期の時には、長期にわたって
 妹を励まし世話をしてくれました。妹を先に見送らなければならないことは
 どれほど悲しくつらいことだったかと、今になって思います。その納骨の際に
 いくつかの追悼歌をいただきました。次はそのひとつです。

   妹の永遠の住家となりし藻岩(やま) 緑豊かに月美しくあれ
                             (1974年6月)

 母を亡くしたあと、何かの拍子に同じ夢をくり返し見るようになっていました。
 コンクリートの壁に囲まれた地下室のような部屋の中央にベッドがあり、母が
 横になっています。白い布のようなものに包まれて痩せた顔だけが出ています。
 健康ではありませんが、間違いなく生きている・・・何か話かけなければと
 思った瞬間にいつも目が覚めたものでした。

 そんな夢も、省一伯父が亡くなったのをきっかけに始めたルーツ探しをする
 ようになって、九州の皆さま方との接点ができたり、細川藩時代のご先祖方
 との出会いがあったりする中で、ぴったり見なくなりなりました。ルーツを
 調べることが母や伯母の願いでもあったのか、などと思ったりもします。母の
 誕生日に改めて命のつながりを感じています。

 
  伯母が詠んだ新緑の頃の藻岩山のふもとです。ロープウェイが通るその下に
  墓地があります。
  


 
 

 
 

3月になると思うこと・・・その3

2010-03-19 20:49:55 | 日記
 
 夜になって雨となりました。明日から3連休という方もいらっしゃるようですが、
 天候はあまりよくない予報です。熊本で早くもサクラが開花という知らせを
 聞きました。もう、そんな季節になったんですね。確実に地球は公転しています。
 雪は解け、冬の間に埋もれていたゴミが目立つようにようになりました。白から
 灰色になり、しばらくするとうす緑の風景へと変わっていくでしょう。

 春分の日、お彼岸が近づくと思い出されることがあります。母と伯母のことです。
 宇野貞誠さんと前田桝江さんの間には、8人の子供たちがおりました。先に紹介
 した長女の宇野豊子さんをふくめ五男三女です。

 宇野豊子さんは東京大空襲で亡くなり、三男の宇野吉郎さんは幼い頃に事故で
 亡くなったので、どちらにもお会いしたことはありません。その他の6人の兄弟
 姉妹は、皆、個性的で印象深い方々でした。中でも二女の宇野元子さんは身近に
 いたこともあり、多くの思い出があります。

 伯母元子は、大正12年3月23日生まれ、宇野美代子(母)は昭和4年3月21日生まれ
 です。2日しか誕生日が違いません。ですから、いつもこの時期になると仲が
 良かった姉妹の姿が偲ばれるのです。

 私が物心ついた頃には、伯母はすでに長期の療養生活を送っていました。脊椎
 カリエスを患い、東簾舞の国立療養所に入っていた伯母を見舞いに母に連れられ
 通いました。まだ定山渓鉄道が走っていた頃のことです。

 手先が器用だった伯母は、ベッドの上でレース編み、手鞠づくりをしていました。
 体調の良い時には、皆で病舎の裏山を散歩しました。小川の小石を拾って「砥石」
 だと説明してくれました。自然が豊かな中での療養生活だったと思います。

 自然とふれあうすばらしさを教えてくれた伯母と国立療養所。その見舞い以来、
 毎年欠かさず自然観察に訪れるようになり50年経ちましたが、病舎は変わっても、
 豊かな自然は変わりません。
 
 国立療養所は、その後独立行政法人となり、ついに統廃合されなくなることに
 なったのは残念ですが、思い出は消えません。これからも折にふれて訪れる
 つもりです。次回も、もう少し伯母の思い出話をしたいと思います。

 
  南区東簾舞の旧国立療養所の病舎です。昨年9月に撮影しました。かつては
  赤い屋根の木造で渡り廊下でつながっていたと思います。裏山の緑がきれい
  でした。少し気が早いかもしれませんが、背景を春らしくしました。

 


 

3月になると思うこと・・・その2

2010-03-10 19:27:19 | 日記
 
 西日本から関東・東北にかけて荒れた天候だったようですね。こちらも
 これからが「本番」のようですが、今はとりあえず嵐の前の静けさと
 いったところかもしれません。湿った雪で樹木にも被害が出たようですね。
 皆さま、お気をつけください。

 3月10日は東京大空襲の被害があった日でしたが、80年前の3月10日も
 忘れられない日でした。今でこそ有名な童謡詩人となった金子みすゞ
 が亡くなった日です。

 金子みすゞは1903年(明治36年)に現在の山口県長門市仙崎で生まれ
 ました。古くから鯨漁などの漁業がさかんな地区でした。大漁でにぎ
 わう浜を見つめながら「鰮のとむらい」を想像するような鋭敏な感性
 をもった少女でした。成績は優秀、風呂敷包みの教科書を抱えて登校
 する道すがら、いろいろなお話を考えていたといいます。

 童謡雑誌への投稿がきっかけとなり、西条八十などに認められ詩作を
 進めましたが、結婚を契機に詩作などを禁じられて、やがて離婚。
 1930年(昭和5年)、幼い女の子と手帳に書きためた詩集を残して
 自死を選んでしまいました。80年前の3月10日のことでした。

 金子みすゞに関心が向いたのには、いろいろな理由がありますが、

 1.その作品の中に、生き物や生のない物に対する優しい眼差しを
   感じたこと。
 2.女性が生きづらかった時代でのみすゞの生き様に興味をひかれた
   こと。
 3.ご主人が熊本出身の方だったらしいこと。

 代表的な作品「私と小鳥と鈴と」の最後は次のように謡われています。

  「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。」

 小学校の教科書などで採り上げられることが多い作品ですが、ともすると
 「みんなちがって、みんないい」の部分だけが強調される傾向があるのでは
 と危惧します。個性を尊重するのは当然ですが、そのことで他者との協調が
 できないのでは意味がありません。彼女の作品の根底にあるのは、決して
 自分中心の世界ではありません。

 みすゞが生きた時代背景を考えると「みんなちがって、みんないい」は
 詩作などをする女性に理解を示さない人々への彼女なりの抗議の意思表示
 ではなかったかと思います。尚、熊本出身といわれるご主人だった方に
 ついては、まだあまり調べていません。
 
 
 正面奥の山は大倉山です。ジャンプ台があることで知られています。
 
 
 

3月になると思うこと・・・その1

2010-03-08 19:11:10 | 日記
 
 3月になって、だいぶ雪も解けてきましたが、真冬日が続きました。
 暖かい地域の皆さまがうらやましいです。季節の変わり目、お変わり
 ありませんか。

 毎年、3月になると思い出されることがいくつかあります。そのひとつが
 3月10日の東京大空襲です。宇野家の中にも、この空襲で犠牲になった
 方がいました。ご存じの方も多いと思いますが、宇野貞誠氏の長女、
 宇野豊子さんです。

 宇野豊子さんは、何かと謎の多い方という印象です。「ルーツだより」で
 紹介した部分もありますが、この機会に今一度まとめておきます。

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  大正2年8月13日、北海道苫前郡初山別村に出生届(8月8日生まれ)が
          出される。届け出は母、前田桝江。
  昭和7年12月19日、宇野貞誠、認知届け出。
  昭和16年8月13日、岩澤重夫氏との婚姻届け出。
          岩澤氏の本籍は神奈川県愛甲郡煤ケ谷村2512番地
  昭和20年3月10日、東京大空襲により死亡(推定)

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 宇野豊子さんについては、次のような「謎」が解決していません。

 1.出生届が出されたのが、なぜ初山別村であったのか。
 2.なぜ一度も(多分)中頓別に居住しなかったのか。
 3.働いていたとされる「喫茶コスモス」は、どこにあったのか。
 4.岩澤氏との間に子供はいなかったのか。
 5.お墓(岩澤家?)はどこにあるのか、ないのか。

 1・2については、以前の「ルーツだより」で独断の推測を紹介しました。
 3については、空襲の被害が大きかった下町(現在の墨田区・江東区?)
 であろうと推測していますが、確たる証拠はありません。当時の「喫茶」
 とは、今と違い酒を出す「カフェ」のような夜の店だったようです。古い
 電話帳でも閲覧できると載っているのかもしれないと思っています。
 4・5については、まったく見当がつきません。子供がいたという噂もあり
 ますが、だとしても空襲で一緒に亡くなったことでしょうね。また、音信
 不通になった姉を探しに宇野省一伯父が出かけましたが、手がかりは
 つかめなかったという話を聞きました。当時多くの犠牲者がそうだった
 のでしょう。だとすると遺骨などはなく、墓もないのかもしれません。

 以前、テレビのある番組で偶然に煤ヶ谷地区が紹介されていたのを見た
 ことがあり、この地区に「岩澤」さんが多いのを知り、調べていただいた
 ことがありますが、当時の様子を知る人も少なく、なかなか解決には
 至っていません。あの大空襲からもう65年も経ってしまいましたから
 当然のことでしょうね。一夜にして一つの市の人口が失われてしまう
 ようなことが繰り返されないことを願います。東京に出る機会があれば
 宇野豊子さんのゆかりの場所を訪れたいと思います。

 
 近所の道路です。だいぶ解けて路面が見えてきました。例年どおりだと
 すると、今月末までにはほとんどの雪が消えているはずです。