宇野ルーツだより

ご先祖のルーツを探す旅

「あの世心得。」

2012-03-21 19:38:22 | 日記
  今日も寒い一日でした。昨日は春分の日でしたが、春はまだ先のようです。
 お彼岸の墓詣りも、まず積もった雪を除けることから始まります。宇野ゆかりの皆さま、
 いかがお過ごしでしょうか? 季節は確実に進んでいますから、うらかかな春の陽も
 もうじきかと思います。

 「墓詣り」の歴史を調べていると、標題の本に出会いました。著者は永六輔さんです。
 文芸春秋に連載された「蓋棺録」を紹介しながら、筆者独自の感想、コメントを綴った
 ものです。タイトルや「蓋棺録」などから察せられるように、さまざまな人の生きざま、
 死にざまが紹介されています。なお、「蓋棺」は造語のようです。

 その中から、面白い話題をいくつか挙げておきます。

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          ・寝姿での火葬は、効率よく焼くため?
          ・災害時に備えて、棺の備蓄はあるのか?
          ・棺に蓋をして釘を打つ意味は?
          ・墓は寺のミニチュアか?
          ・一般市民が石の墓を作るようになったのは日清戦争後?
          ・お通夜は、生き返るのを待つ時間?
          ・戒名は、冥土への通行手形?

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 まだまだありますが、興味がある方は、実際に本(文春ネスコ、2003年)を手に取って
 みてください。寺社、葬儀会社まかせのまま、何気なく過ぎていく「葬式」ですが、
 改めてその意味、歴史を調べてみると、なかなか奥が深いものがあります。

 「墓」というものひとつとっても、それが死者のためのものか、生者のためのものか
 なかなか難しい問題ですし、今のような石塔墓がいつごろから普及し始めたのか、
 永さんが言うように本当に日清戦争後なのか、などなど。私の父方の墓は、藻岩山の
 ふもとにありますが、昭和10年代の建立です。また、熊本の前の宇野家の墓は、やはり
 昭和10年代に宇野貞度さんによって建立されたものでした。

 その一方で、こうした伝統的な石塔墓の見直しが進んでいます。核家族化の進行で、
 「墓守」の担い手がいなくなり、無縁墓になるケースが増えたり、墓地敷地の減少で
 新たな設置が難しくなったりしています。特に公営墓地での新規設置は難しくなって
 いるようです。そのため、最近は、散骨するケース(石原裕次郎さんや沢村貞子さんの
 ような)、樹木葬、共同墓など新しい試みも始まっています。石の墓は何のためにある
 のか、これからも必要なのか・・・死はすべての人に平等ですから、やはり考えておか
 なければならないことかもしれませんね。

  北区新琴似を歩いていて見かけた寺紋です。市内では歴史のあるお寺のようです。

北海道の「熊本部落史」

2012-03-17 19:24:55 | 日記
  雨まじりの曇りの一日となりました。寒くはないので雪解けがいっそう
 進んでいます。梅の開花のたよりもチラホラですが、札幌はまだまだ先です。
 宇野ゆかりの皆さまの地域ではいかがでしょうか?

 ところで、北海道と熊本の結びつきの歴史を調べていて、表題の書籍を手に取る
 機会に恵まれました。熊本の被差別の歴史ではありません。北海道にあった
 熊本の「」についてまとめたものです。なかなか縁を感じる内容でした。

 熊本から団体で数多くの人々が北海道に入植しました。その中で由仁町に入った
 人々の開拓の歴史を綴ったのが、この「熊本部落史」です。由仁(ゆに)は、札幌の
 東方の馬追丘陵にあります。

 明治の中ごろ、この由仁に国有未開拓地の貸下げを受けた佐々友房らは、ここに
 「熊本農場」(細川農場とも)を開いて100名以上の移住者が入りました。しかし他の
 例にもれず、開拓は困難をきわめたようです。故郷に帰る者、道内の他の地に移る者
 などが出て、なかなか進みませんでしたが、それでも今の由仁町の発展に寄与した
 ようです。この開拓の中心にいた人物が、合志林蔵でした。

 合志林蔵、嘉永元年(1848年)に熊本の山鹿に生まれ、東京師範学校(熊本初)を
 出た後、大分師範学校で教師をしていましたが、佐々友房らの誘いで熊本の済々黌
 で教鞭を執ることになりました。41歳の時です。その後、済々黌に付属の女子学校を
 創設するのにともない教頭となりました。そうです、あの「尚絅女学校」です。この
 「尚絅」の名づけ親が、合志林蔵だといいます。築山順子さんが教師をしていた学校、
 宇野家の女性たちも通った学校の名づけ親が由仁町の開拓に尽力していた・・・何か
 こんな身近に「尚絅」があるなんて不思議ですね。

 この「尚絅」の名は、中国の古書(故事?)から採ったようなのですが、どんな意味、
 いわれがあるのか調べていません。お分かりの方がいましたらご教示いただけると
 幸いです。確か仙台にも同じ名の学校があったような気がするのですが・・・

  札幌の市電です。かつてはいくつかの路線がありましたが、今では都心部を
  走るこの路線だけです。そう言えば熊本にも路面電車がありましたね。熊本の料金は
  忘れましたが、札幌の市電はどこまで乗っても170円。安い、高い? 藻岩山のロープ
  ウェイが新しくなって、今年の山開きは特に賑わいそうです。「宇野ルーツだより」、
  一部はすでに送ったもののありますが、続きがありますので、4月初めにまとめて送る
  予定にしています。

貞観という時代

2012-03-06 19:12:17 | 日記
 3月になって、やっと寒さもゆるみ陽の温もりも感じられるようになってきました。
 啓蟄も過ぎましたから、虫が這い出てきてもよさそうですが、札幌はまだまだ雪の中です。
 宇野ゆかりの皆さまの地域ではいかがでしょうか?

 あの超巨大地震・大津波の発生から間もなく1年が経ちますね。あっという間の1年という
 気がしますが、その間になされた復旧・復興の進展は、経過した時間の割には「遅い」と
 いう印象です。いろんな映像を見る限り、未だに「こんな状態か」と思うことが多いです。

 先日、お墓の歴史を調べていて、次のような記述が残されているのを目にしました。

 「出羽国飽海郡の山上に祭祀されている大物忌神社が4月に爆発し、多大な被害が出た。
  この原因は、付近の住民が河原などに墓を設置して水を汚して神を怒らせたためである」

 「三代実録」の記述です。ここに登場する山は、山形県と秋田県の境にある鳥海山のこと。
 そして、この噴火は貞観13年(871年)4月のことでした。「貞観」といえば、今回の大震災で
 見直しが進んだ「貞観地震」が起きた時代でした。

 この貞観という時代(859年~877年)、噴火や地震などの天災が頻発した時代だったようです。
 おもなものだけでも、次のような出来事が記録されています。

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         貞観4年(862年):京都・御香宮神社境内で突如清泉が湧く
         貞観6年(864年):富士山の大噴火で、溶岩流が発生
         貞観10年(868年):播磨地震が起きる
         貞観11年(869年):7月の「貞観地震」で、大津波が発生
         貞観13年(871年):4月に鳥海山が噴火、溶岩流が発生

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 これらの関連性は不明ですが、大きな災害が多かった時代だったと言ってよいでしょう。
 日本付近の地殻の活動期だった。そして今、この貞観の時代と比べて、同様の活動期に
 入ったという指摘もあります。とすると、富士山や鳥海山など各地の火山や活断層の動向
 には十分に注意する必要があるということを歴史は教えているものと思います。

 墓の歴史を調べる中での貞観時代の出来事でしたが、それにしても鳥海山の噴火の原因を
 河原の墓に求める発想は、科学が発達していなかった時代では当然のことだったのでしょう。
 当時、さまざまな災厄は「祟り(たたり)」とされ、加持祈祷が行われ、「お告げ」で示された
 「原因」を取り除くことに力が注がれました。結果、鳥海山のふもとにあって「水を汚していた」
 とされた庶民の墓も整理されたようです。この事実は、なかなか興味深い内容を含んでいます。
 当時の墓がどのような場所にあったのか、庶民の墓に対する意識がどうだったのかなどですが、
 機会があれば、ご紹介したいと思います。

  早春の鳥海山です。東京の澤田義雄さん撮影の美しい姿を掲載させていただきました。
  何度か目にした美しい山ですが、また訪れたくなりました。