宇野ルーツだより

ご先祖のルーツを探す旅

14年前の2月12日

2010-02-12 19:36:38 | 日記
  さっぽろ雪まつりの来場者数は、243万人あまりで過去最多
 だったようです。その雪像は、早くも今日までに取り壊されました。

 1996年2月12日は、作家司馬遼太郎が亡くなった日です。あれからもう
 14年も経ったのか、という感じです。まだ72歳、もう少しいろいろなものを
 読ませてもらえると思っていただけに、当時の突然・残念の思いが改めて
 よみがえります。

 先の「坂の上の雲」をはじめ、「竜馬がゆく」「国盗り物語」などの歴史小説で
 有名な司馬遼太郎ですが、晩年は全国各地を歩いて、その地域の歴史や
 風土を見つめ「街道をゆく」のシリーズを著しました。

 その中のひとつに「オホーツク街道」(「街道をゆく」38)があります。
 流氷が押し寄せる海辺に生活し消えた狩猟民族の謎に迫まりました。
 オホーツク海沿岸の浜頓別町にも訪れ、砂金騒動などの取材をしています。
 改めて、その部分を読んでいて、次のような記述に出合いました。

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  (砂金は)その後、採りつくされたかにみえたが、昭和7年にもう一度
  ブームがあった。また、第二次大戦の戦後にも、ブームがあった。が、
  昭和27年以後、衰えた。

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 この地域のゴールドラッシュの中心は、明治30年代で、わずかな
 期間で下火になりました。それが昭和の初めに再び火が点いた・・・
 これで、宇野省一伯父が「砂金を握らされて酒を買いに行かされた」
 という話と時期が一致する、と納得しました。

 司馬遼太郎は、「21世紀に生きる君たちへ」という文章を残して
 います。おそらく21世紀までは生きられないだろうという司馬の
 遺書のような文章です。小学校の国語の教科書に採り上げられ
 ました。なかなか奥の深い内容です。一読をお勧めします。

  地下鉄駅に貼られていた「雪まつり」案内です。昨日で
  撤去されたことでしょう。

 



緒方大太郎

2010-02-04 23:08:19 | 日記
  晴れた立春でした。が・・・とても寒い一日になりました。
  昨日の最高気温がマイナス9℃、今日はマイナス6℃でした。
  さすがに息も凍りそうなシバレです。それでも子どものころに
  比べたら暖かい方かもしれません。都市化のせいでたえず熱が
  放出されているのも一因でしょう。皆さま、暖かくしてお過ごし
  ください。もう少しで「冬眠」も終わりにしたいと思います。

  肥後細川藩を調べていらっしゃる津々堂さんのブログは、毎回
  興味深く拝読していますが、先日の「侍帳へ」の記事の中で
  「緒方大太郎」が取り上げられておりました。

  緒方大太郎・・・すなわち、のちの緒方夫門さんです。時習館
  での転昇の記録でした。ご先祖の若い頃の新事実が紹介され、
  発見できたことは驚きでした。

  緒方夫門さんのことについては、以前「宇野ルーツだより」で
  西南戦争での活躍などを紹介しましたが、それ以前の様子に
  ついては、「肥後人名辞書」などで簡単に紹介されているだけ
  で詳しいことは分かりません。それだけに今回の記録は貴重な
  ものと言えそうです。改めて江戸時代末の夫門さんの様子を
  以下に記します。

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  1.天保4年5月27日、熊本京町宇土小路に生まれる。
  2.幼少より時習館で文武を兼修し、居合・薙刀などで賞される。
  3.嘉永7年5月、家督を相続する。
  4.安政6年2月、江戸に上り、翌年9月に下藩し御番方となる。
  5.元治元年5月、京都に行役し、11月に下藩する。
  6.慶応2年、小倉に出張し、長州兵と戦う。
  7.慶応4年、宇土郡代、野津原鶴崎郡代を歴任する。

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  先の津々堂さんの記事では、嘉永2年(1849年)6月、緒方大太郎
  17歳の時の記録のようです。

  緒方夫門さんが、4度名前を変えているのも興味深いですね。

       緒方大太郎→誠之助→嘉右衛門→夫門

  緒方夫門さんの二女、キツさんは宇野家に嫁ぎますが、その長男の
  宇野貞誠の「誠」は、この緒方「誠之助」からいただいた一字では
  ないかとのご指摘をちょうだいしております。やはり、緒方と宇野を
  結ぶ役割を、貞誠さんに期待した表われだったのかもしれません。

   近所の公園の雪景色です。写真で寒さを伝えるのは
     難しいですが、肌を刺すような寒気に包まれています。

  



  
  

江戸時代にも「韓流ブーム」?

2010-02-01 22:54:15 | 日記
  でしたが、とても寒く日中の最高気温はマイナス4℃だった
 ようです。昨日解けた雪が一気に凍ってツルツル路面です。転倒事故
 での救急車の出動が増えました。関東地方でも積雪とか・・・皆さま、
 暖かくしてお過ごしください。

 ETV特集「日本と朝鮮半島2000年」が放送されました。全10回が放送され
 昨夜、その最終回でした。日本列島と朝鮮半島の交流を古代から近代まで
 最新の研究成果をまじえてのリポート、印象的でした。日本と韓国の研究者が
 毎回登場し、それぞれの見方・立場が垣間見えたのも参考になりました。

 日本独自の形式とされてきた前方後円墳の起源にせまる報告、仏教伝来をめぐる
 最新の研究など、いろいろ興味深い内容でしたが、中でも朝鮮通信使の様子を
 紹介した9回目は面白いものでした。

 朝鮮通信使は、江戸幕府の将軍が代がわりするたびにやってきました。朝鮮半島
 から対馬をへて瀬戸内海沿岸を通って江戸まで約6か月の道中でした。鎖国中の
 日本、異国の人々の服装・音楽・詩文などは、行く先々で沿道の人々の注目を
 浴びたようです。「通信使グッズ」まで登場したといいます。これは、まさに
 江戸時代の「韓流ブーム」でした。通信使の中の文人たちは、今の「ヨンさま」
 以上の人気だったのかもしれませんね。

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 日本と朝鮮半島の2000年の交流の歴史の中では、この通信使を介した交流は
 善隣友好の証のひとつだと思いますが、その前後に負の関係があったことも事実
 です。秀吉による2度の朝鮮出兵、江華島事件から日清・日露戦争をへて韓国
 併合へと進みました。

 このETV特集では、こうした負の側面について韓国の研究者の見方も紹介して
 いることが特徴でした。さらに熊本や札幌と関係の深い人物がいたこともあって
 新たな「発見」となりました。特集ではふれられなかったことも含めると以下の
 ような点です。

   1.秀吉出兵の際、加藤清正が朝鮮人を捕虜として熊本に連れ帰り
     のちに本妙寺の住職としたこと。

   2.福沢諭吉を師と仰いだ朝鮮の開化派の金玉均が日本に亡命した際、
     札幌などに滞在していたこと。

   3.日清戦争時、朝鮮王妃殺害に熊本国権党の「壮士」たちが深く
     かかわっていたこと。

 これらは知る人ぞ知るなのかもしれませんが、私にはちょっとした驚きでした。
 熊本国権党は、済々黌を設立した佐々友房の影響下にありました。王妃殺害に
 かかわったとされた21名の熊本県人の中には、済々黌出身者の名前も見えます。
 収監された48名のおよそ半数が熊本県人でした。なぜ多くの熊本県人が・・・
 日清貿易研究所に携わった宗方小太郎氏の日記もふくめて、もう少し調べて
 みたいと思っています。

  しかし、2000年という長い交流の歴史の中で、このような不幸な関係の期間は
 全体から見ればわずかなように思います。日本で人気を集めている韓流スターは
 朝鮮通信使の再来のようにも思えます。江戸の「韓流ブーム」は200年あまり続き
 ましたが、現在そして未来はどうでしょうか。


  近くの住宅地の雪景色です。だいぶ積もっています。今週末から
   雪まつりが始まりますが、雪不足の心配はないようです。